小説「月下美人の傍ら」

置きっぱなしにしていた携帯から、泳いでいるような音がきこえてくる。布団のあいだ、シーツの海を泳ぐ音。彼女が起きたらしい。開けていた窓からは小豆から炎へグラデーションの空が見えた。
「あらよ」
声がとろけてこぼれそうだ。
「あらます」
似せて返す。
「おきれらの?」
彼女が察したとおり、私は一睡もしていなかった。

その夜、私が眠らずにいたのにはふたつのことがあった。
ひとつは、月下美人が咲いたこと。もうひとつは、彼の命日の夜であったこと。
窓の縁に置いた拳ほどのサボテンが花芽をつけたのは五日前のことで、ほくろのようなふくらみを棘と棘の間に見つけたのをよく覚えている。それは目を離しているあいだに窓の方向へぐんぐんと大きく伸びていった。花茎の姿は、正直言えば美しいものではなかった。どす黒くて短い毛が生えている。イメージされるのは男根。噂に聞く綺麗な花がここから開くとは信じがたかった。
その夜、私が部屋に帰るとそこには白い輝きがあった。私はそのままサボテンのところまで向かって鉢を手に取った。見事な月下美人が生まれていた。小さな花弁は純白に煌めくラメをまとって、重なり合いながら艶やかな円を作っていた。鉢を傾けると花弁に瞬く煌めきは微笑みかけるように表情を変える。凛とした白は空間を制する威厳を備えていた。
無数のおしべの先の黄色いやくが躍る。花の内側では神秘的な緑が薄く沈んでいく。
怒張して伸びきった花茎の外側はどす黒く醜い。その先には言葉尽くせぬ美しい月下美人。私はその美醜の対極に素直に納得した。これでなければならなかったのだ。
私は鉢を窓の縁に置き直して、窓を開けた。月下美人はささやかな月明かりに照らされた。

彼は三年前に石になった。
その昼、私と彼女は待ち合わせてから、その御影石の場所へ向かった。
石の前に着いた私と彼女は意外なものを目にした。すでに小振りな缶コーヒーがふたつ、寄り添うようにして供えられていた。
「誰だろうね」
彼女にはわからなかったらしい。私にもわからなかった。
缶コーヒーが五個置かれた前で、私と彼女は手を合わせた。目を閉じた暗闇の中で、私は彼に語り掛けるべき言葉を探した。子供は元気だぞ、最近ウクレレ触ってなくて申し訳ない、引き取ったサボテンは元気だ、電気がまたライブやるぞ、そっちでも元気か。そういう言葉が浮かんでは暗闇の中に沈んでいく。
「また来るよ」
それだけ強く念じて、目を開けた。まだ彼は石のままだ。
私と彼女は公園のベンチに腰を下ろした。家族連れの幸せそうな声が響いていた。祝日なのだ。彼女は出しかけた煙草をしまった。
私と彼女は缶コーヒーを開けて、ひと口飲んだ。
「いつも思うんだけどね」
「うん」
「こんなマズいのなんで飲んでたんだろうね」
缶コーヒーの中でもマイナーなメーカーで、しかも五〇円で自販機に売られていて、プリントされてる文字のフォントまで安っぽい、そういうやつ。妙な甘みと妙な苦みが不協和音を奏でている。
「家からいちばん近かったからだよ」
「なにが」
「これ売ってる自販機が」
彼はそう言っていた。なぜか自信ありげに。

いつだったか、その朝は雨霞の朝であった。
その朝、私は車で駅のロータリーへ向かっていた。久しぶりに帰ってくる姉を迎えに行かなければいけなかった。
駅に向かう大通りにはテールランプの川があった。私はその最後尾を務めながら歩道をぼんやり眺めていた。私はそこに彼の姿を見つけた。
傘が列を作る中で、彼はひとり無防備に雨に打たれていた。ずいぶん雨を吸ったようで服は元の色味を失っている。足取りは重く、全てが辛うじてといった様子で彼は歩いていた。
私はその姿にしばらく目を奪われるだけでいたが、慌てて助手席へ身を乗り出した。ドアを開けようとしたからだ。後ろからけたたましくクラクションが鳴った。前を見ると遠くにテールランプは光っていた。私は乗り出した体を戻して、ブレーキペダルを離した。車が進みだしてすぐ、シートの間から彼の方を振り返った。

その夜、彼女からの電話が鳴ったことに、私はさほど驚かなかった。
「もしもし」
「もしもし」
月下美人は凛と光る。
長い沈黙がお互いにあった。苦痛ではない。
「まずいコーヒーの匂いがまだするんだよ」
彼女はぽつりと言った。私が返事をしないでいると彼女は続けた。
「化学式が思い浮かんでくるほど臭いコーヒーを飲むと、あの朝を。あの朝を思い出す。あの朝から永遠に朝と夜を繰り返してきた気分。でも何もなかった」
彼女はまるで独り言かのように、淡々と言った。
「俺もときどき、ふとしたことで、あの朝に戻る。あの朝と今日が山折りになってて、畳まれて重なって、あの朝になるんだよ」
雨がベランダの間仕切りの板を叩くと、私は決まってあの朝にいた。重なった視線の先から、足裏に伝わるブレーキペダルのわずかな反発まで。私はそこに居た。
「でもあいつはもういない」
月下美人は私の傍らにありながら私の目を欺いた。伸びきった花茎は萎れて、整然と並んでいた花弁はだらしなく重なりあって垂れた。祭りの後。もはや空に月はなかった。月下美人は一晩だけ綺麗に咲き誇る。それを私に教えてくれたのも彼だ。
「今年も咲いたよ」
私は返事のない携帯に向かって言った。

その朝、私はご機嫌な朝食を用意した。良い感じに焼けた目玉焼きに、良い具合の味噌汁、ご飯は艶々に光っている。朝陽が安いテーブルに射す。明日はそうだ。明日は彼の誕生日だ。それでいい。それでいい。


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