見出し画像

小説・『漂白の民』資料を集め下書きだけしていたものだけど、忘れないためにアップしておこう。プロローグ。

以前何気なくかいたもの。

 以前上↑のようなものを書いた。それが案外読んでくれる人が多くて、その記事に書いたんだけど、いつかサンカを題材に小説に書きたいと思っている。今日はそのプロローグになる部分だけでも公開したいと思っています。ちゃんと書ければ良いけどね。
 

プロローグ・『サンカと呼ばれる人々がこの国に居た』

 サンカと呼ばれる人々がこの国に居た。
 
 彼ら自身が、自分たちはサンカだと名乗っていたのではない。周りの者たち、警察、行政、一般市民、一般市民というのは当時の私たちの事だ。私たちが彼らをサンカと蔑称の意味を込めて呼んでいた。
 蔑んでいたのである。馬鹿にしていたのである。いじめていたのである。差別していたのである。
 しかし、彼らは、蔑まれるような人々ではない。少し彼らのことを書きたい。
 彼らは、山で暮らした。
 日本の国土は七割を人がほとんど住まない山林が占める。その山林にわずか数百から多くとも数万人程度のサンカの人々が暮らしていた。しかも彼らは、一か所に定住せずに、時期が来れば、食料や住みやすさを求めて、移動した。
 砂漠に暮らすジプシーが水辺や食料を求めて移動するように移動を繰り返しながら生活していた。
 しかも彼らは驚くべきことに文字をもたない。そして、なんの建造物も持たない。故に彼らは歴史になんの足跡も残していない。このまま時間が過ぎれば、彼らは忘れ去られるのみである。
 しかし、彼らは、歴史から存在したことすら忘れ去られても、何も思わないだろう。彼らは、物欲や現世利益に乏しいが、それ以上に、歴史に名を残すことになどなんの欲もない。
 その意味すらも理解出来ないだろう。
 その無欲さは、現代に生きる私たちには到底理解できるものではない。
 彼らにあったのは、今を生きる。それだけある。その潔さは感動的ですらある。
 彼らは山に暮らし、その上には空のみが存在する。
 彼らに地上の喧騒は関係がない。源平合戦も、戦国時代も、幕末も、第二次世界大戦すら風のように過ぎ去るものでしかなかっただろう。
 彼らの暮らしを見て、彼らは獣だ。という人たちがいれば、それは大きく見れば間違いではないのかもしれない。それほど彼らの暮らしは、我々の暮らしとは懸絶しており、獣たちの暮らしの方に近い。
 そんな人々が、この国に現実に存在した。しかも、それは遠い昔のことではなく、昭和の戦後の時代まで存在したのである。
 そんな彼らの絶滅を書きたい。そうせねば、何も残していない彼らは時間が過ぎれば存在そのものが消え去って行く。
 この国に彼らが生き、絶滅した。その軌跡を書き残すこと。
 何のために。
 彼らの誇りのために。
 彼らはそれを望むのか。
 望まないだろう。彼らは何も求めない。日々を正しく生きただけだ。しかし、書かねばならない。彼らの絶滅を誇り高く書かなければ、彼らを滅ぼした物欲にまみれた我々の文明があまりにも汚いものに私には思えてしまう。 
 欲望少なく生きた彼らは、その存在そのものが奇跡である。
 彼らは、移動の邪魔になるので、持ち物は極力少ないほうがいい。生活に必要なものしか持たない。物欲そのものがないのである。もちろん、名誉も金も必要ない。
 この国の歴史に、彼らが存在した。
 そう思えるだけで心に明るいものが差し込んでくるような気がする。我々も生きようと思えば、彼らのように生きることができるのである。
 人間が生きてきた歴史、戦い続けてきた歴史、進化してきた歴史など、ひょっとすると本当はつまらないものではないか。そんなものを、ものともせずにただ生きる。食べて、子孫を残し、死ぬ。という生き方もあるのかもしれない。
 これは小説である。小説は作り話であり、面白くなければ意味がない。とりとめもなく、自分の心の中にある思いを文字にしているだけでは小説ではない。
 彼らは、何も残していないが故に小説でなければ書けない。要するに彼らを作るのである。しかし、全部が全部作り話ではない。サンカという確かに存在した人々の暮らしを想像して作り上げるのである。
 
 人は、本来、欲深いものであるとするならば、やはり、彼ら、サンカの人々は、私達とは同じ人ではないのかもしれない。そんな思いを常に持ちながら最後まで書こうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?