数学界隈に足がすくんだ方へ

 こんにちは,龍孫江です.今回は,ぼくにではなく結城浩さんに寄せられたお便りなのですが,いささか気になる話題でもあり,勝手ながら一言お返事を述べようと思い筆を執りました.

 ぼく自身,いわゆる数学界隈をのたくっている一人でもあるわけで,当人としては揉め事や炎上とは無縁な穏健派と自認してはいるものですが,今一度ここであってほしい姿を描いてみたいと思います.

高2です。進路について 数学は好きなのですが数学界隈?が苦手で将来大学進学する際に数学科に行かない方が精神的にいいんじゃないかと思っています。 苦手になったのは馬鹿らしいのですが、Twitterでの数学での炎上等を見てしまったのが大きな原因です。この炎上は氷山の一角にすぎなくて数学科の内部は地獄と化しているんじゃないかと変な想像を働かせてしまったりと、数学は好きだが界隈が苦手といった状態になりました。 結論、行く行かないの判断は自分だから知らんと思うかもしれないですが、他の人が自分と同じ状況ならどうするんだろうと気になったので参考までに聞きたいと思い質問させて頂きました。 よろしくお願い致します。

https://twitter.com/hyuki/status/1526491764697473025?s=20&t=HNzKoJA6EWr5tBAWL9zn8g
引用元:https://twitter.com/hyuki/status/1526491764697473025?s=20&t=HNzKoJA6EWr5tBAWL9zn8g

人間のすることは

 まず,Twitter上で数学を題材とするちょっとした騒動が時折起きることは事実です.これは,どこのどんなコミュニティでも,複数の人間が集まるところではしばしば起こることです.

 どんな人も,二人と同じ人はいません.「みんなちがってみんないい」と詠んだのは金子みすゞでしたが,これは良くも悪くもそうです.複数人の人が集まれば,その中に反りが合わない人がいても全くおかしくありません

 Twitterに限らずインターネット全般に共通する怖いところなのですが,実生活なら距離を置いておきたいと思う人ともひょっこり出くわしてしまうことがあるのです.そしてときに,その出会い頭の事故が大騒動に発展してしまう.人と人との往来が激しくなっているのですから,起きる事故も増えているのかもしれません.

 とはいえ,見ず知らずの他人同士が喧嘩しているのを見て気分が良い人は決して多くはないでしょう.ぼくもそうです(とはいえ自分が当事者として巻き込まれて喧嘩しない自信もないのですが).ですから普段はぼくも「見なかったことにして関わらない」を選びます.しかし今回のように,それがゆえに人一人の進路が曲がりかねないとなれば,これは界隈の一人として一言残しておくべきかと思うのです.

数学科は怖いところか

 まず最初に「数学科の内部は地獄と化しているんじゃないか」という点から解消しましょう.単刀直入に「数学科は怖いところではありません」とぼくは断じたいのですが,多少誤解されがちかもしれない点をいくつか挙げておきましょう.

 ひとつは,数学の論争は激しく見えがちな面があるという点です.あるとき,ある事柄に関する見解というか認識の相違をめぐってぼくはある人と論争をしたのですが,先方はとある別の人から「言葉が刺々しいが大丈夫か」と心配されたのだそうです.意見の相違は確実にあり,矢継ぎ早に言葉を交わしていましたが,ぼくも先方もお互い感情的な喧嘩をしているつもりはなかったので,ちょっと驚きました.
(先方からは「他の人からこう言われたけれど,悪意はありませんので」とわざわざ丁寧にあいさつがあり,ぼくからも「全く気分は害しておらず,むしろ有意義でした」と伝えました)

 数学を表現する言葉はひとつひとつ意味があり,それらをカッチリ組み上げて使うものです.そういう言葉を積み重ねていくと,ときとして議論は「どちらが正しいか」が確定し一方的に終わります.つまり,論争として見れば一方が叩きのめされた格好で終わるわけで(先の論争もほぼぼくの負けでした),確かにそういう文化と知らなければ激しく見えるかもと思ったのでした.

 もうひとつは,いささか身に覚えがあるので言いにくいのですが「正しさ」を背にするとしばしば人は残酷になる点です.数学ができることを盾にしてマウントを取る行為はマスハラ(マス・ハラスメント)と呼ばれ,実際にハラスメントであることも多いと思うのですが,なかなか解消しきれません.

 例えば,と挙げてしまって恐縮ですが,「マスハラ」で検索したら見つかったこのページはどうでしょうか.

センター試験受験生への数学アドバイス

 これらのコメントをマスハラと見るか洒落と見るかは受け手によるのでしょう.ぼくには洒落に見えるのですが,つまりはマスハラ予備軍なのかもしれません.

いや,それでも数学科には

 少し怖がらせてしまったかもしれませんが,数学科にあるのは怖い思いをさせる仕掛けばかりではありません.

 まず,数学を学ぶ人にとってこれ以上ない環境があるのは,やはり数学科だと思います.数学科で得られる環境としては,豊富なテキストと適切な助言を貰える指導者,そしてともに数学を学ぶ友人です.少なくとも,数学科はメンバーがのべつまくなし数学を道具に罵り合っている場所ではありません.

 それから,これはぼくが強く感じたことですが,教員と大学院生,そして学生の人間関係は風通しが良くさっぱりしています.教室では学生と教員でも,ひとたび教室を出ればお互いの立場を超えて一人の大人として付き合います.間違ったことを言った教員が誤りを指摘した院生に感謝していたところを(あくまで日常の1ページとして)見ましたし,学生とマージャン卓を囲んだりカブトムシを取りに早朝から出かけたという教員の話も聞きました.

 もちろんこれらも,受け取り方次第では居心地の悪さを感じるものになりうるわけですが.人間関係というのは難しいものですね.

安全なコミュニティもあります

 数学科の話はひと通りしまして,「数学科の内部は地獄と化しているんじゃないか」という想像については誤解だ(とぼくは考える)とお伝えできたかと思います.その上で,もう少し広いコミュニティについても考えを述べておきましょう.

 一個人がTwitterでの炎上を避ける方法はあるにはあって,Twitterで数学の話題をつぶやかないことです.もう少し穏やかな策としては,数学の話をするためのアカウントを別につくって(中には鍵をかけ)内輪だけで運用する手もあります.つまり,自分が心を許せるコミュニティ内に限って運用するわけですね.

 しかしそれではやはり物足りないと思われるなら,この心を許せるコミュニティを少しずつ広げていく方向で考えてたらいかがでしょうか.

 数学界隈に同じような畏怖を感じている/いた人は,実は少なくありません.実際にそのような方を何人か知っています.そしてそのことへのカウンターとして,安全で安心して数学を楽しめるコミュニティづくりに取り組んでいる方もいらっしゃいます.

 ぼくは関係者(運営メンバー)なのでここで名前を出すのは適切ではない可能性もありますが,数学カフェというNPO法人があります.「境界なき数学コミュニティ」を掲げ,あらゆる障壁や境界を気にせず誰でも数学を楽しめる場所を目指し努めています.

 また現状ではどうしても少数派になりがちな女性にももっと数学を楽しんでもらいたい,数学を学ぶ女性の後押しをしたいと数理女子という活動も展開されています.

 数学自体が難しいのは多少仕方ないとしても,数学を学ぼう・楽しもうとする以前に変な障壁を感じてほしくないと思っている人はおそらく多数派だと思いますし,実際に動いている人も少なからずいるわけです.

 それでもなお,数学の道は選ぶには敷居が高いと思われるのであれば(大変残念なことですが)仕方がないでしょう.どうか,後悔のない選択をなさってください.

Twitter数学系bot「可換環論bot」中の人。こちらでは数学テキスト集『数学日誌in note』と雑記帳『畏れながら申し上げます』の2本立てです。