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世界を美しく感じるために。

 可換環論bot のツイートの中で、思い出したように「いいね」を頂くものがあります。 おそらく「三角関数不要論」の中で思い出されたのだと思いますが、前後のツイートと併せて文章にまとめ、少し加筆しました。ご覧ください。

「三角関数は不要?」

「ああ、またか」数学をタネに糊口を凌ぐ身ではないものの, 数学を旗印に掲げている者として、だからこそ気になる話がまた世間を騒がせているようです。三角関数不要論です。

 三角関数など高校を出てこのかた使ったこともない。あんなものに高校生の貴重な授業時間を割くくらいなら、もっと実用に役立つことを教えればいいのに……。

 この手の言動は、三角関数に限らず2次方程式の解の公式とか微積分とか時々で対象は変わるものの、繰り返し現れては数学徒を嘆息させ続けています。しかし、繰り返し繰り返し同じ話が蒸し返されるからには、根底には何か共通するものがあるのでしょう。

 ぼくも若かりし頃はずいぶんとムキになって反論したものです。数学がいかに役に立つもので、幅広く使われていて、そして何より美しいものであるか。数学を学ぶ自分の存在意義を問われたような気になっていたのかもしれません。
 しかし、最近は反論らしい反論をしなくなりました。おそらく、発言した本人にとって、数学を必要とする場面がほとんどなかったのも事実なのだと思います。自身という確固たる具体例があるのですから、その人の理論がその例を例外視するはずがなかろうとも思うのです。

 話は数学に限りません。例えば古文・漢文なども何度も同じ意見にさらされているようですし(恥ずかしながら、ぼく自身も唱えたことがあります)、大学における人文系学部の規模を云々する話もくすぶり続けています。であれば、反論は個別の対象の有用性ではなく、学校教育、ないし教養というものをどう位置づけるのかという観点からしかなしえないと思うのです。

数学は役に立つのか

 可換環論bot に「役に立つのか」というお悩みを頂いたことがあります。

数学科の院生(M)です。時々、「数学なんて勉強していて世の中の何の役に経つんだろうか…」というような虚無感に似た感覚に襲われます。似たような経験はおありでしょうか? また、そうであればどのように対処していましたでしょうか?

 このお悩みは「数学自体の有用性ないし意義」ではなく「自分が数学を学ぶことの有用性ないし意義」ついてのものです。今回の話題とは少し筋を異にする話かもしれません。それでも、示唆するところはあろうかと思いますので、以下にぼくのお答えを再掲します。

 このような悩みは、全くなかったと言えば嘘になりますが、さほど深刻ではありませんでした。結局「数学自体は嫌いではなかったから」かと思います。

世の中の何の役に立つのだろうか」という問いは、確かに悩ましいものです。ぼくにとっても「自分が何者であるか、何者になれるか」が判然としなかった頃、この問いはは確かに一大事でした。

「役に立つ」というのは、具体的なようでいて、案外その意味が掴みにくい言葉に思われます。そして、ぼくのような考えの足りない者にとって、この言葉は安直に世間、世界と直結します。「役に立つ」とは、世界を変え、または支えることと、二十歳前後のぼくは考えていたように思います。
 しかし「世界を変える」などと言うと一握りの天才にのみ許された仕事のように思われ、自分を省みれば到底そんな器ではないと感じ、質問者さんと似たようなことを思った時期もあります。

ただ、自分の生き方を問う

 しかし、それは「世界」なる因子を、勝手に持ち込んで勝手に落ち込んだ自分がいるだけとも言えるのです。あるとき、シンプルに「数学と自分」の関係を問えば良かったのだ(そのときはこんな明晰には表現できませんでしたが)と思い至りました。

「自分」「数学」「役に立つ」という三つのお題を組み合わせて、どれほど自分が、そして自分の周囲が幸せになるか。そう言い換えてみれば、話は案外単純な構図になります。

 ぼくの場合は、自分が数学に何か貢献して役に立ったことはほとんどありません。また、今は数学と全く関係ない仕事をしており、数学を使って自分が世間の役に立っているとも言いがたいです。しかしそれでも「役に立つ数学を学んだ自分」は、ぼくにとってかけがえのないものです。

 いろんな物事を考えるとき、かつて学んだ数学の概念がぱっと出てくる。それが傍から見て「役に立つ」かは分からないけれど、自分がそう考えることは自分にとってとても大切なことなのです。他の学びをしていたら、他の考え方をしているでしょう。

 ぼくの父は林学専攻で植物が大好きでした。ぼくには緑一色にしか見えなかった森や山を、父は「植物を学ぶとこの緑が全部違って見えるんだ」と言って延々と眺めていました。
 今ならその意味がよくわかります。ぼくは数学を学んでいなければ、今と同じようにものを見たり感じたり考えたりはしていないのです。

 つまり、大切なのは「自分が何をなしえるか」ではなく「自分が何を得てどうなるか」だと思うのです。自覚するか否かすらも拘らず、自分が学んだことが自分の生き方に反映するのなら、それはもう意義があることだと言えるのではないでしょうか。

 数学を通して何事か(明示的に表せるかは別として)を得た自分が、それぞれの置かれた場所で然るべき役割を果たしていたなら、もうそれは「数学を通して役に立った」と言ってよい。それがぼくの考えです。

 とはいえ、この答えでは「数学を通して論理を学んだ」とは胸を張れそうにないですね。

教養とは, 世界を美しく感じられる能力のこと

 数学にせよ、他の分野にせよ、教養の衰退が叫ばれて久しくなりました。その大きな理由(のひとつ)は平成の大不況だと思うのですが、過ぎてしまったことを嘆いても仕方ありません。

 そして、人々から教養が失われることの当然の帰結として、教養自身の定義、教養とは何かという問いすらも人々は失いかけています。

 教養とは、あったところで日頃の生活が格段に良くなるわけでもなく、さりとてなかったところで生活に困窮しないものです。そして、世間なり個人なりに余裕がなくなったとき、真っ先に削られるのも生活とは直接関係のないものです。衣食足りて礼節を知る。衣食に困窮すれば、礼節も教養も失われます。

 では、教養とは何でしょうか。ぼくはこれを世界を美しく感じられる能力と規定したいと思います。

 世界が実際に美しいか否かは、ひとまず措きます(私見では、それを客観的に決めることはできないし、意味がないと考えます)。ぼくたちの感性は、美しいものを美しいと感じる最低限の力は持っています。その力を研ぎ澄ませるのが教養だというわけです。

 ぼくの父は植物を学び、植物を通して世界の美しさを見た。ぼくは数学を学び、数学を通して世界の美しさを見たいと思う。また別の人は、別の視点から、世界の美しさに触れるのです。この視点をこそ、教養と呼びたい。
 何を、いかに、どれほど積み重ねるか。それはその人の生き方に依ります。誰かが「自分の世界は美しくなくてよい」と決めるのも自由でしょう。しかしだからといって、自分が選ばなかったからといって、あたかも何かが無為であるかの如く吹聴することには強い違和感を覚えます

(これ以降に文章はありません)

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