「鏡映左右反転の謎―物理と心理―」

初版 2023/7/17
発行 2023/7/23

プロローグ

「どうして上下でなく左右が反転しているのだろう」
鏡に映った時計や文字を見て、こう感じたことは誰もがあるのではないだろうか。
これが、素朴な鏡映における左右反転現象への問いだろう。

文字が書かれておらず、目盛りがあるだけのアナログ時計が壁にかかっているとしよう。一番上の目盛りが12時だ。その一番上の目盛りは、太く強調されている。これで重力は忘れていい。
さて、鏡は真正面、アナログ時計は真後ろで同時に見れないとする。
鏡に映ったアナログ時計はどうか。反時計回りで回っている。「左右反転」しているのだ。

鏡では一方向が反転して見える。これは、経験的にも皆が知っている。それを前提とすると、鏡像と実像の上方向をそろえて見る環境にあるから、上方向を固定したために左右が反転するが答えである。右方向に振り向いたり、回れ右をして、実像を鏡像に重ねたら左右が反転しているように見えたのだろう。横方向に振り向いたときに、左右を逆にしている。だから左右が逆になったのだ。なぁんだ。

試しに、鏡を時計の上側に置き、時計と鏡の角度を90度くらいにし、時計(実像)と鏡像の両方を見えるようにしてみると、左右が変わらず、上下が反転しているように見える。そうか…

だまされてはいけない。いったい、どうしてそんなことをしないといけないのだ。もともと上下と横方向で対称だった(特別な方向はなかった)はずだ。そうなのだ。
実は、左右でなく、上下が反転しているとも見れるのだ。
見る人が左右を変えないで照らし合わせればいい。ここでは、実像を基準とするため、まず実像の方を見る。時計回りのアナログ時計が見える。その状態で、左右方向の回転軸で180度回転して見よう。イナバウアーでもいいし股の下覗きでもいい(時計を手にもってもいいが左右を変えないで。と思ったが、それでは鏡像が消えてしまう。)。鏡像のアナログ時計が見える。針は反時計回りしている。鏡像は、(自分が反対になったのだが、)実像に対して上下が反転している。
この操作は、左右が反転していると判断したときと同じ(対称的、向きが違うだけ)だ。
鏡に映ったアナログ時計は、どの向きで反転しているとみてもいいのだ。

筆者は、このような説明で、いわゆる鏡映における左右反転現象に対して一般の人が感じる不思議さを解消するには十分と考える。
その意味で、「定説がない」わけではないだろうと思う。チコちゃんに答えるならば、「上下が保たれるように、人が行動するから」くらいでいいだろう。

しかし、筆者は、もう少し深く考察したかった。反転の原理は物理で尽くされている。だから物理で分かっていると言ってもいい。それは知っている。
でも、上下でなく左右が反転した理由は、イナバウアーが大変だったか、股の下覗きが恥ずかしかったからだ。それで左右でなく上方向を固定して実像と鏡像を照らし合わせたからだ。鏡映左右反転の謎は、上方向を固定する「心理」的理由(あるいは、行動のクセ)をもっと考察した方がよいだろう。

実際、このアナログ時計の考察は、「上下」を相対化した以上に、大事な視点が欠けていることを後で見る。

はじめに

よく「直感的に理解できて初めて実感できる」ことを夢見る人がいるが量子力学はそれを拒絶している。数理ツールに習熟することでそれを実感を伴う新たな直感に仕立て上げる訓練が必要なのである。それが「自然をありのままに見ない」修行の一つであり、玄人への途なのだと悟るべきであろう。

佐藤文隆『量子力学ノート』2013 あとがき

鏡の中に映った像(鏡像)が実像に対して上下ではなく左右反転する現象(以下、「鏡映左右反転の謎」「謎」などとする)は、不思議だとして、今も心理学において研究されている。
一方、物理としては、上下か左右は見方次第であり、「左右」の概念をきちんと適用すれば、この現象は解決済みとされる。

この小文では、(物理の範囲以外という意味で)心理の問題として
 「鏡像では、上下でなく横方向の反転と認識するのはなぜか」 …(*)
と設定し直し、それに対し思考実験を通じて解決を試みるものである。
この(*)において、物理としては、上下でも左右でも斜めでも任意の方向への反転と考えてよいことから、「認識する」とした。
 
反転する(inversion)」は、鏡または心的操作で対象を特定の軸方向に対して、ひっくり返す動作である(本文で座標をもちいてきちんと記述している)。単に向きを変えるのではなく、右手系から左手系への変換を伴うもの(強風で傘がひっくり返る、inside outみたいな関係 )である。「逆」は、一般的な用語として、主に単に向きを変える場合に用いるが、反転する場合にも用いる。高野の「視点反転」は、この「反転」に当てはまらないと思われるが、そのまま用いる。
対称性とは、操作に対する不変性を意味し、直線で折り返す操作で変わらない線対称や、回転で変わらない、上方向や右方向、斜め方向など同じで特定の方向を持たないような性質を言う。

この小文では、平凡な例を説明するなどなるべくわかりやすく、納得感がえられるように努めた。そうして、左右概念をはじめいくつか錯覚しやすい点があるようなので、丁寧な記述を心がけた。その分、くどくなってしまった。それでも、まだまだ中途半端な説明かもしれない。また、ほとんどが、物理としては当たり前のことしか書いてないので、(そうでなければ、筆者の勘違いである)、物理がわかっているという方は、さっと読み流していただきたい。
簡単のために対象は、2次元の広がりのある物だとしてした部分がある。その時は、視覚的には上下・左右の方向だけを考えている。鏡で映された実像(面)と鏡像(面)は向きが反対であることから、照らし合わせるには3次元空間の中でその面の向きを合わせること(180度回転、振り返る、裏返すに相当する)が必要となる。2次元の説明で、アナログ時計や文字や身体など大事な対象についてわかっていただけると思う。

この鏡映左右反転の謎は、「NHKチコちゃんに叱られる」では、「定説がない」とされた。心理学としては、論争があるのだという。
この小文は、物理の立場の一般の一人として、物理を踏まえれば、「謎」「違和感」は解消できるのではないだろかという問いかけである。

ポイント ―本文中からの抜粋―

対象(実像)を鏡に映すと、鏡と垂直な方向が反転する。
そのため実像を鏡像に重ね合わせようとすると、どのように対象を空間回転させても実像と鏡像は一つの方向が反転している。
また、任意の方向が反転しているとみてもよい。
(例:文字が横方向に反転していても、上下に反転とも、斜めに反転とも見れる。アナログ時計の例でも見た。)

「上下」は、対象を外から見る人の座標での「上下」がある。明示的に言わない限り、「下」は重力の方向とは限らない。重力は、見る人の動作や視線の向きに、また、対象・鏡・見る人の配置に影響を与えるから関係はあるが、それが直接影響するわけではない。また、対象に固定された「上下」もある。鏡映左右反転の謎は、状況設定・定義が曖昧であるが、いずれの状況も含みものとした。
実像(心象の場合もある)と鏡像を照らし合わせされる際に一致させる方向を「固定する」方向と記す場合がある。「反転する」方向ではない方という意味である。

物理では、左右は上下によって決まるなどの理由で謎はないとされる。また、図形や絵、知らない文字でも上下が固定されるのであれば、同じように横に反転される。
心理では、固定する方向に一定の傾向があるのはなぜかという課題設定ができる。

実は、環境や対象により上下がそれと直角の横方向より固定しやすい傾向があることが確認できる。論理として上下が先にきまるということではなく、その向きに環境や対象の特別の意味があるということである。後半は、仮説:「人は、対象の心的操作をする際―ときに関連する物理的操作でさえも―横方向でなく上方向を固定する傾向がある」について議論を進める。

鏡に映ったアナログ時計は(本文で説明するが)、実像と鏡像を照らし合わせる際、それらの上方向を維持するため、横方向に振り向いたり、回れ右したりするから、そのため左右が反転する。

日常生活において、文字は見る向きが決まっており、対象の上方向を固定して見る傾向がある。数字の「6」と「9」をみればわかる。上下反対側からみれば、逆になる。
文字の実像と鏡像を照らし合わせる際にも、(方向を定めるより強い影響力をもつ環境がなければ)文字の上下をそろえてなされる。
 
実像と鏡像を完全に重ねるには、
 (1)対象の上方向を軸に、実像を180度空間回転する
 (2)実像の横方向を反転する
という操作でできるが、対象が身体の場合、実際に(1)で照らし合わせ操作が行われる傾向にある。

この(1)においては、回転軸は身体の横方向でもどの方向でもいいはずが、無意識に上方向を軸に選んでいると考えられる。
その理由の一つの可能性として、
 仮説:「身体の部分の対応を取りやすいから」ということ 
がある。
身体の部分の対応がとりやすいのは、身体の横方向がほぼ対称であるからだろう。

前提としたこと

これは、心理学的な裏付けが必要なことだとは思うが、この小文で、無意識に前提としていそうなことを書き出しておく。おそらく、視覚の心理学、認知心理学の領域だと思う。左右反転の謎とは、間接的に関わってくるが、それは別の主題だと考えた。
・視覚の情報処理
 視覚で見えるのは2次元であるが、3次元空間の物を認識するのは、
 脳が自然に処理をするから。反射を考え、鏡と対称な位置に物があると
 想定すれば、どう見えるかは自然と決まる。
 また、脳は心的空間回転(mental rotation)・平行移動ができる。
 ただし、反転はできない。
・視覚では、上方向(上下)を基準として、左右が決められる。
・物を照らし合わせる時、物理的あるいは心的に、
 できるだけ同じ向きにして、2次元であればその面を同じ向きから見て、 
 そのうえで、どこかの方向をそろえて行う。
 (イメージを重ねるか並べる感じで)
・自分の身体の心的イメージを、鏡などにより形成しており、
 その心的イメージも、物と同じように空間回転・平行移動できる。
・脳は、視覚情報や感覚など整合的に把握し外界をとらえる。
 自分の身体イメージや固有感覚・運動感覚も様々な要素を整合的に
 把握している。それが不一致だと違和感を感じる。


物理でわかっていること

物理を用いて、鏡映反転の原理を説明する。

準備

物理により、鏡映によりものの空間配置がどう変わって見えるかを考える道具が提供される。
座標による反転の説明や左右の定義について記す。

対象(実像)を鏡に映すと、鏡と垂直な方向が反転する。
そのため実像を鏡像の向きをそろえようとしても、どのように対象を空間回転させても実像と鏡像は一つの方向が反転している。
このとき、どの方向が反転しているとみてもよい。
(例:文字は左右に反転していても、照らし合わせの向き次第で、上下に反転とも、斜めに反転とも見れる。
 例:アナログ時計の例でもみた。)

実像と鏡像を(物理的・心的に)照らし合わせされる際に一致させる方向を「反転する方向」ではないという意味で「固定する方向」と記す。
ここでは、物理としての話をしているので、これは実際に物や身体を動かすとか心的に操作するとかを含んだ抽象レベルの話である。

座標を用いて鏡映を記述する

まず、外の視点から見る対象から独立した座標(外からの座標)を考えよう。

対象から鏡への方向をx軸正方向、上方向をy軸正方向とし、z軸正方向をいわゆる右ねじが進む方向とする。3次元デカルト座標系(右手系)である。
上記、座標系で、z軸正方向が「」方向、その逆が「左」方向とする。 右というのは、前方向、上方向から右手系をなすように決まる相対的な方向なのである。
また、鏡の中においてもそのように決める

念のため、この準備段階では、「上下」は、重力とは独立とする。「左右」に対して論理的には先に決める座標であるが、特別の方向を持たない。


さて、鏡の中を考えよう。鏡像ではx軸正方向が逆になる(「'」をつける)。 

  x' = -x,  y' = y, z' = z (左手系となる)    ……(鏡映反転の式)

鏡のこちら側にある対象が鏡の向こう側の空間にあるとして記述すればいい。鏡のこちら側のアナログ時計(実像)が反転して、鏡の向こう側に鏡像として映っているということだ。(この時点では、前後が反転している。)鏡に向かって後ろにある実像の右は、鏡の中でも右に、実像の左は鏡の中でも左の位置関係にある。

まず、鏡像をみても実像を思い描かなくていいケースを考えてみよう。
筆者が思いついたのは、自動車の車庫入れだ。
左右それぞれの距離に注意を払わないといけないので、反転させることはないと想像する。

しかし、主題は、鏡映反転だ。鏡像と実像を照らしあわせることを考えよう。注意(attention)を向けるのが面(2次元)だとして、その面が鏡と垂直なら、鏡像は、実像と同じに面にあって、そのまま照らし合わせられる。
念のため、実像と鏡像は、鏡と垂直な軸方向で反転している。

例:富士山
鏡を側面に置き、富士山を見る。
実像と鏡像の両方が映る配置を選ぶ。
外からの座標で、上方向がそろっており、鏡像の左右が実像に対して反転している。

鏡を下側に置いた場合は、外からの座標で、鏡像の上下が反転する。(この場合でも、視点を変えて、対象に固定した座標でみると、鏡像は必ず左右が反転している。)

例:「逆さ富士」
湖面に映る富士山。いわゆる「逆さ富士」。
このとき、外の座標(見る人の視点そのまま)を用いている。湖面が下側にあるため、上下が逆になっている。
富士山(あるいは山)の心的イメージがあるので、逆だとわかる。

例:鏡を身体からみて右側に置いた場合、
外からの座標で見ると、左右の方向は変わらないが、鏡は身体の左右を反転するので、鏡像の(外の座標での)左には、実像の右側が映っているように見える。鏡像の右も同様。

注意を向ける対象(わかりやすさのため面とした)が鏡と平行な場合、アナログ時計の例でみたように、真正面に鏡が、対象(面)が真後ろにあるような場合、照らし合わせられるように同じ向きにする必要がある。これは、身体で回れ右をしてもいいし、アナログ時計そのものを特定の向きを変えずに鏡像の側に持っていくでもいいし、心的に実物を見て記憶を鏡像に重ねてもいい(鏡像を実物に重ねても同じこと)。それらの操作は、すべて物理としては同じことだ。

鏡像にあうよう、実像に空間回転操作をすることを考えよう。
y軸のまわりに180度空間回転するのは
   x'' = -x,  y'' = y,  z'' = -z                 ….. (重ね合わせの式)
であるから、結局
   x' = x'',  y' = y'',  z' = -z''

鏡像は、実像を空間回転してx軸正方向、y軸正方向を一致させても、z軸方向で反転をしてることがわかる。いかなる空間回転や平行移動をしても、鏡像は実像に対して(あるいは、実像は鏡像に対して)反転している。鏡映でパリティが変わるが、空間回転や平行移動でパリティが変わらないので、それが証明されている。


わかりやすいように平面(2次元)上の文字を映すことを考える。
たとえば、「犬」を鏡に映すと(そして上下をそろえてみると)鏡像では「てん」が逆に来る。
z軸に横方向を対応させたので、その方向に反転するということだ。

ここでy軸正は上方向に採ったからz軸方向が反転したのだが、y軸はx軸と直行していればどの方向でもよいから、ここで考えた操作は、横でも斜めでも任意の方向の回転軸でなりたつ。「任意の方向に反転している」と書いてきたのは、こういうことだ。

アナログ時計では、実際に視線を動かして、実像を(記憶し)鏡像に重ね合わせた。その視線を回すのは、右から(上下回転軸)だったり、上から(左右の回転軸)だったりした。どちらでもいいことを見た。ここで説明したのは、そういう意味だ。

対象に固定された座標

座標は、対象に固定して考えることもある。鏡の作用によって、その鏡面に垂直方向の座標も反転する。
座標の種類が増えてややこしいと思われる方もいるかもしれないが、鏡の中の人の視点から前後・上下・左右を考えるのはごく日常的に行われている。
だから、その視点で記述することが物理としてもごく普通になされることなのだ。

鏡で映すと物体のz軸正方向が反転するのは、外から見る座標での場合と同じだ。この座標で記述しても、鏡映反転は、外の座標での鏡映反転の式や重ね合わせの式と同じになる。
外の座標の説明で、物を動かす時も心的イメージ操作も同じ式になると書いたが、物理では、式で表してそれで説明が済んだことになる。だから、説明を省略したり、ごまかしたりしているように見えるかもしれないが、そうではなく、結局同じことだという意識がある(それに勘違いもする^^;)。

鏡に映す対象に固定されたデカルト座標(右手系)は、鏡の垂直方向(ⅹ軸正方向)を反転させると、左手系となる。(x軸、y軸、z軸が左手系。)それに対して、対象(固定された座標)の(x軸、y軸から決まる)右は、鏡の中でも右手系で決まるから、(z軸正)の向きとは逆になる。
対象では実像の右とされていた部分は、鏡の中の<左>となる(左も同様に<右>)。(対象に固定された座標での鏡の中の左を<左>、右を<右> と書き区別したが、一般的な記法ではない。)

つまり、前後・上下を先に決めると、左右、および鏡像において、<右><左>も自動的に気まり、鏡像は実像に対して必ず左右が反転する。そういう意味で、鏡像の中の対象の左右が逆になるのは当然のことである。
難しいかもしれないが、鏡の中で、<左><右>を右手系で考えることは、鏡の中を見たとき、自然に<右>手などと考えること整合的で、一般的な用語をきちんと定義しているにすぎない。

例:
左手を伸ばしている身体は、鏡像では、<右>手を伸ばしていることになる。実像の左手が、鏡の中では、<右>というラベルに変えられるという風に捉えるとよいかもしれない。
実世界の左右概念(あくまで右手系)でみると、対象のその方向が逆になったように見えるということになる。(ここで、対象のその他の2軸の方向をそのままにしているという前提がある。)

例:逆さ富士
先ほどみた逆さ富士、つい富士山を見慣れた向きで見てしまうこともある。鏡像の富士山を、上方向を実像と一致させた視点でみると、富士山の左右が反転する。

確認しておこう。
・外の視点では、鏡を側面に置くと、鏡像は左右が反転する。
・外の視点では、鏡を下側に置くと、上下が反転する。
 このとき、外の視点では、左右は反転していないが、富士山の上下をあわせて見る(つまり富士山の固定座標で見ると)と、左右が反転する。

物理でわかっていること

以上、簡単に見てきたように、物理では、次のことがわかっている。

「鏡に対象を映すと、鏡像は、実像に対して一方向が反転する。
鏡像の実像に対する反転の向きは、どの方向だと見てもよい。
上方向をそろえると、左右方向に反転していると見えるし
右方向にそろえると、上下方向に反転していると見えるし、
斜め方向とも見える。見方次第だ。
これは、対象の対称性(形状)などの性質によらない。」 

こでは、実像と鏡像がある平面は一致させた。
鏡像と実像を照らし合わせるためだ。
念のため、重力は直接関係ない。宇宙空間でも同じだろう。
両眼でも片目でもよい。横になってみてもよい。

アナログ時計のケースでも「上下に反転しているとも見える」のだった。

日常ありふれた状況での「左右反転」で謎の理由が知りたいので、複座な状況を考慮しない。けれど、大事なところは、曖昧さをなくしておこう。

鏡は平面鏡で、一回、映すものとする。
「上下」は、対象の外から見る座標での「上下」と、対象に固定された「上下」のどちらについても、意味をもつ。この定義では、重力と関係ない。

ところで、実像(心象の場合もある)と鏡像を照らし合わせされる際に一致させる方向を「固定する」方向、「そろえる」方向と記すことがある。

物理では、身体で回れ右をしようと、文字の書いた紙をひっくり返そうと、心的に空間回転しようと、同じ概念として一つの式で記述しており、鏡像反転の原理はわかっている。後は、状況次第だし、見方次第だ、単に物理の知識を適用すればよい。だから、鏡映左右反転の謎は解決されているというのが物理の立場だ。上方向がそろっていれば、左右反転になると。

「左右」概念から左右反転となる?

さらに踏み込んだ重要な論点として、「左右」概念から左右反転になるという立場もある。左右は、上下に対して相対的な言葉であり、先に上方向を決めるのが当たり前だから、左右が反転するのが当然だというのである。
もっともだ。一般に「鏡の中では左右が反転する」という言葉遣いもここからきている。

それでも、心理に残された範囲がないわけではない。
左右は論理的には上下の後に決まるが、実際には、左右を決めてから上下を決めてもいい。
アナログ時計のケースで見た通りだ。

ちょっと心理面を先取りするが、人間にとって、左右は特別の向きを持たないのに対して、下は重力の方向、前は進む方向で、視覚にとって特別の意味をもつ。だから、物の向きは、左(や右)でなく、上(や下)と前(や後)で指定するのが普通だろう。(ついでに、物の左右は、上下・前後に比べると相対的に対称性が高い―特別の方向ではない―と言えそうだということは指摘しておきたい。)。
「左右」概念、言葉の定義、上方向の重要性はわかったが、具体的な状況や物との関係があと一言あれば、もっと納得できるに違いない。

念のため、左手を上げている人物を後ろから見たときには左にあるので、その人物の鏡像が、<右>手をあげているのに、こちら側から見たら左にあるので反転していないとか、そういう言葉の定義が曖昧なことで「鏡映反転」が起きないという議論は、筆者は付き合う気はない。

心理として残された謎

結局、心理について、
 「鏡像では、上下でなく横方向の反転と認識するのはなぜか」…(*)
と課題を捉えることができる。この(*)において、物理的には任意の方向への反転と考えてよいことから、心理的な論点である。対象の上方向をそろえて見る傾向を問うているのである。

実は、日常よく経験する状況において、環境と対象に依存して特定の方向を合わせる傾向があるかもしれない。アナログ時計のケースでは、重力に抗して歩いたり回ったりするので視線の向きにより変わらない、重力の逆向き(上)方向を固定する(物を見る時にそろう向きとする)傾向がありそうだった。

上方向固定仮説:「人は、日常、鏡を見る状況において、対象の心的操作をする際―ときに関連する物理的操作でさえも―横方向でなく上方向を固定する傾向がある」
単に向きをそろえて見るということだから、ばかばかしい仮説かもしれないが、以下、これについて、いくつかのケースを見ていく。念のため、こういう状況はありがちですね、ここは常識的に当たり前ですね、という説明はするが、それ以上のものではない。ただ、一部重要な対象について傾向といえるだろうと思うので、こういう大仰な「仮説」という表現にした。

ところで、その前に、
「左手を伸ばしているのに、どうして鏡の中では右手を伸ばしているのか」 
                              .…(**)
とは問われるのに、
「左手を伸ばしているのに、どうして鏡の中では右足を伸ばしていないのか」
とは、問われないのはなぜだろうか?
いや、当たり前だろう、と私も思う。
これは、鏡映反転において「上下反転ではなく左右反転」と認識していること同じではないのか?
言いたいことは、(*)の解答は、ここで「当たり前だろう」と思った理由を含んでいないといけないということだ。
上方向固定仮説は、一応、含んでいる。

(**)で表明されている違和感にも答えたい。

思考実験による解決

以下、「上下」の定義ごとに3つに分けて見ていく。
対象を外から見る座標(一つの座標で同時に見る場合)、対象を外から見る座標(別々の座標で見る場合)、対象に固定した座標で見る場合である。

外の座標で見たとき

実像と鏡像の両方が同時に見ているとする。
つまり、見る人、1つの視点から見ていて、実像・鏡像共通の座標となる。
(視覚なので2次元)上下、左右がきまり、鏡像が実像に対して上下・左右のどちらの向きがそろっているかで、反転する方向が決まる。
重力は直接は関係ない。しかし、重力は、見る人の動作や視線の向きにや対象や鏡、見る人の配置に影響を与える。
対象は、どんな図形、立体でもよく、その対称性も問わない。

例:富士山
鏡を側面に置けば、普通に左右が反転することは、すでに見た通りである。
上方向固定仮説が成り立つとしたら、「鏡を側面に置く状況が多いから」ということかもしれない。

例:鏡を置いて文字(実像)と鏡像を対照するとき
これは恣意的な例である。
文字の場合だと見る向きが決まっている(後述)。
どういう向きが反転するかは、対象と鏡の配置次第だ。
もし、でたらめにでなく、無意識に対象や鏡を配置するのだとしたら、文字の向きがそろうように置くのではないか?

この実像と鏡像を両方をみるケースは、ここまで確認はしてきたが、謎ではない。上下・左右の対称性がないからだ。

外の座標で見たとき(その2)

実像と鏡像の両方が同時には見ていない時を考える。
見る人は、視点を動かして実像と鏡像を重ね合わせる。(どちらかを記憶するか、描き写すか、可能ならばその向きのまま動かしてもいい)
一般的な場合は、説明が複雑になるので、よくある状況(つまり対象が鏡に対して真後ろにある場合)だけ考える。
上方向を変えないで座標変換すると、左右が反転となる。
右方向を変えないで座標変換すると、上下が反転となる。
重力は直接は関係ない。しかし、重力は、見る人の動作や視線の向きや対象や鏡、見る人の配置に影響を与える。

対象は、どんな図形、立体でもよく、その対称性も問わない。

壁掛けのアナログ時計
よくある典型的な状況として、すでに見たとおりである。
最初に書かなかった点を補足しておこう。
鏡像と実像の左右が反転していた原因としては、上下の座標が共有されているのに、左右が逆向きになっていたことだ。
重力のある状況では上下は共有されていることが普通だ。
この小文の他のほとんどの箇所と同じように、上下を相対化、
つまり、視線の向きにより決まるものとした。だから、左右を変えないで後ろを見た際、上下が逆になった。そこに違和感を感じたかもしれない。
そういう理由だ。

真正面と真後ろの何かを照らし合わせる時、人は右(か左)方向に振り返ることが多いのではないか。その人の視線でみると、上方向固定仮説は成り立つ。

鏡像から実像を知る
設定とは違うが、鏡像を見て実像を知るケースを考えてみよう。
対象は何でもいい。
日常では、重力があるので振り返ることが多いだろう。そうすると、左右逆転した実像が見えるはずだ。

ところで、実は、対象がアナログ時計の場合、もっと大事なことがある。それは、アナログ時計の上向きに合わせて見るのが普通だからだ。そうして、鏡像だけを見ても左右が逆になったと感じると思うが、そういう理由だ。当たり前だが、アナログ時計は、0時の方向を真上(重力負方向)にすることが多い。それを見る人の上は真上とすることが多い。自然と、アナログ時計を上向きに見ることが多くなる。見る人の視線によって左右が決まる。
試しに、アナログ時計を、8時の方向が真上になるようにかけて同じことをしてみよう。
もちろん、状況設定した視点での上下(8時が上)を固定したら左右が逆になるし、左右を固定したら上下が逆になるというのは本当だろう。でも、そんなことしなくていい。調べているのは、鏡映左右反転の謎であって、また仮説がどういう状況でどういう心理で働くかだ。
これは、結局、次の対象に固定した座標で見たときに該当するようだ。

視覚では、上方向が基準で左右が決まる。

これが心理学でどれくらい確立された考え方かわからないが、
今回の議論に関係がありそうなので項目としてあげておく。
このことで、物の向きは左右でなく上方向で決まることが多いと思われる。
この小文では、物の向きが上方向で決まるいくつかの例をみる。
しかし、議論のほとんどとは、直接、関係がない。

対象に固定した座標で見たとき

この意味は、対象に座標を固定し、鏡像の座標を実像の座標にそろえて、照らし合わせるという意味である。
ここでは、重力は関係ない。

対象は、任意の形でいい。
そのような、一般の場合、前方向、上方向をそろえれば、左右が反転する。

しかし、複雑な形だと難しそうだから、心的に180度空間回転操作できるものに限るだろう。そもそも、一般に、対称性のない任意の図形、立体では、対掌体の入れ替えであり、「上下でなく左右が反転」ということ自体、意味がない。「対象の対称性」のところで再度、議論する。

いずれにしても、注意・関心を向けた対象だけを考えれば、十分だ。鏡に映っていても普通は、関心のあるもの以外、実像と照らし合わせる意識などないだろう。

おそらく、この座標で考える典型的なものは、見慣れたものだろう。
身体、文字、アナログ時計、富士山は、見慣れており、通常、見る向きが決まっている。それらには、既に骨格となるある程度抽象的な心的イメージがあるだろう。人一般に通用する心的イメージ、いろんな字体や書体に共通する「山」という文字の心的イメージ、いろいろあるアナログ時計に共通する心的イメージなどである。心理学の用語を正確には知らないが「表象」ということにしよう。もちろん、向きは決まったものとする。
そうなると、(方向を定めるより強い影響力をもつ環境がなければ)その表象の向き(上方向)に合わせて見るのが普通だ。
アナログ時計は、0時を上にしてみる。あたりまえのことだが、上固定仮説が確認できた。
普通は真上に合わせて掛けてあり、また、見る時も垂直にして見るだろうから、日常的な動作と整合的だ。ただし、おそらく、8時の方向が真上(重力負方向)になるようにかけられたアナログ時計は、実像を見る際も、鏡像を見る際も、0時の目盛りを上として見るだろう。
いずれにしても、左右が逆になるのは当たり前だ。

対象が見慣れたものである場合、外の座標ではなく、対象に固定した座標で考える傾向が強いはずだ。だから、謎の解明にとってより重要なのはこの座標で考えることの方が重要だ。もちろん、外の座標で見た場合の考察は、すんでいる。
念のため、外の座標で見た場合でも、鏡や対象の配置を実像と鏡像の両方を見えるようにする際、おそらく無意識に、向きをそろえて見えるようにすることが多いのではないだろうか。「外の座標で見たとき」の「鏡を置いて文字(実像)と鏡像を対照するとき」の例で、もう書いたことだ。

ところで、実像と鏡像の比較は、実際に見たものを照らし合わせるのが一義的にあるが、実像の代わりに表象と照らし合わせることはあるだろう。そういう場合、鏡像が表象とどの方向がそろっているかで、どの方向に反転しているか決まる。ただし、鏡像の向きを決められるなら、表象と同じ向きにするだろう。実験する時に、無意識にそう置いたら左右反転になる。その無意識の動作こそ心理学で謎の解明に関係する研究対象になるとは思う。

無意識だけれど常識的な人の動作を前提とすれば、物理としては、対象に固定された座標で見た場合、鏡映左右反転が、「左右」概念による必然だと言ってもほぼ正しい。ただし、繰り返すが、左右の定義だけが理由なのではないことは、外の座標のところですでに見た。

文字について

文字は、見る向きが決まっているため、文字の(対象に固定された)上方向を固定して見る傾向が強い。文字に固定した座標で左右を逆にした文字を「鏡文字」と言うことが、この傾向をはっきり示唆している。(ところで、筆者は、鏡文字は左右反転した文字との認識だが、環境においてそれらが上下反転と見られることも指摘しておく。)

鏡は真正面、真後ろの壁に普通に上向き(重力の逆方向)に文字が書いてあるとする。鏡に映った文字をみて、中学校で習う漢字なら、たぶん、鏡文字だと認識し、判別できる。見慣れた文字の方向で見ているからだ。12度くらい傾けた文字の鏡文字でも認識でいそうだ。上下逆の文字だとどうか。たぶん、逆だとわかる。上下に反転しているとも(私なら?)認識できる。つまり鏡文字だとも。文字をいつも見る向きで見れば、左右が反転しているとわかるのだ。

もし、文字(実像)書かれた紙を鏡に向けるとしたら、目的次第で変わるが、私だったら、文字の向き(上下)が普通に見慣れた向きになるように向きを制御するだろう。これは、私個人のクセだ。几帳面だと言われたことは自分の人生一度もないけれど。
実際、今、この原稿を印刷してチェックしているのだが、紙を裏返すとき、私は紙を左側に、文字の方向が同じになるようにしている。
机が縦長で上に紙をめくるなら、上下逆にして置く。鏡に映したら、文字の向きは逆になる。あたりまえだ。これは、謎とは関係ない。
斜め上がホッチキスで止めてあったらどうか、斜め上になり文字は90度くらい反転する。鏡に映してもそれに対応した向きになる。謎はない。
これは、そのような環境にあり、このような対象であり、このような動作をするからだ。
念のため、紙を裏返す行為は、アナログ時計で後ろを振り返る行為と同様、物理で記述できている。

身体について

「左手を伸ばしているのに、どうして鏡の中では右手を伸ばしているのか」 
                              .…(**)
これが、(*)に含意されない違和感の表明だとしたら、鏡映左右反転の謎の一部を構成するの可能性がある。
この表現は、身体を鏡に映して鏡像と実情を照らしわせる際、身体の上下(と前後)をあわせる傾向があることを示している。
これは、自分以外の他の人が、横になっているのを想定すればよいだろう。ここでも、文字と同様、対象に固定した座標を自然に用いていることが見て取れる。

実際に、実像と鏡像を一致させるには、
(1)身体の上下方向を軸に、実像を空間回転する
(2)実像の横方向を反転する
という重ね合わせ操作がが必要だ。

この(1)は、重ね合わせの式である。その際、回転軸は身体の横方向でもどの方向でもいいのだが、無意識に上下方向を軸に選んでいると考えられる。
左右方向に対して上方向が特別の方向性をもっている理由は、まず、文字と同じく見慣れた身体が上方向を向いているからである。
それだけではなく、この左右を反転させれば、「身体の部分の対応を取りやすいから」という可能性が考えられる。これは、
対称性仮説「左右を反転させたのは、身体がほぼ左右対称であるから」
だと推定できる。そもそも、重ね合わせの数式は、実像と鏡像を照らし合わせるために行っているのではないか。

この(1)の段階での身体の対応操作は、反転する前だから、うまく対応がとれるとは限らない。左右を反転する前の状態の実像(左手)と鏡像の「左手」の対応付けをイメージしているからである。 次のステップ(2)ではじめて、左→<右> となるから、対応物は<右>手であるのに。

ステップを踏むことは間違いではないが、重なった像の左右は、全然別のものであり、実像の左手と鏡像の<右>足を対応づけるようなものである。実像の左手は鏡像の<右>手であり、<右>足でないのと同様に<左>手でもない。これが、(**)違和感への解答である。そうして、その背後には、身体がほぼ左右対称だからという事実がある。
「左手を伸ばしているのに、どうして鏡の中では右足を伸ばしていないのか」
と表現しないのは、上半身と下半身でだいぶん違うからだ。

念のため、身体の上下を固定する傾向は、文字で上下を固定する傾向より強いと個人的には印象をもっている。人は人の身体に特別の注意がなされるだろうというのが理由だ。
それぞれ水平横向きにした場合を考えると、文字では文字の左右反転であると認識されにくいが、身体の場合は左右別の手を伸ばしているなどと認識されやすいと想像する。

ここでは、外からの座標での上方向より、身体に固定した上方向を固定する傾向が強いことを上げ、その理由として、身体が普段見慣れていること身体の左右対称性を上げた。

ところで、自分の身体について、実像と鏡像を突き合せる場面は少なく、身体一般の表象を使って、自分の身体の心的イメージを描いて鏡に向かっているのが普通である。自分の左手を伸ばすと、鏡の中の自分が<右>手を伸ばすのを見て、自分の心的イメージを形成するとともに、左右が反転したと認識しているのだろうか。
 
外の座標で、他の人(実像)と鏡像を同時に見たときは、一般の図形とおなじであろう。立って左手を伸ばしている人(実像)の前側を鏡に映して、その鏡像(前側)の両方をみれば、鏡の中の人は<右> 手を伸ばしている。
当たり前だが、見ている者からみると、実像で伸ばしている手は右側だし、鏡像の中では左側である。この時も左右は逆になる。

ところで、身体の上側に鏡を置いた場合、鏡像が上下反転するが、日常生活ではあまり行われないことなので、どのような心的操作がなされるかなかなか想像しづらい。鏡像は上下反転しているし、それをそのまま平行移動して上半身が下半身が重なるように合わせても、前後も左右も逆になっていない。
何度も見た通り、前後の軸に空間回転して上下を合わせると、左右は反転する。(対象に固定された座標でみれば左右反転するということ。)

いずれにしろ、いわゆる「左右反転」現象は、対象が文字であれ身体であれ、対象の上向きをそろえて照らしわせる際にその直角方向が反転するという一つの物理現象として理解することができる。

対象の対称性は、左右反転に影響するか?

対象の対称性は、直接、反転の操作に影響しない。座標変換の式を思い出せば当たり前である。
ただし、対象の前後・上下・左右とは、深く関わっているはずだ。身体の左右と呼ぶ方向が、もっとも対称性が高い(だからこそ、他の軸の方向を一致させて、左右も身体の中心線であわせて、左右を対照させられる)のは偶然ではないだろう。
重ね合わせの際、向きをそろえるにも、対象物に特別の方向がなければ指定できない。どの軸を選ぶかは任意だが、無意識で左右がどちらかというと対称的で、対応の取りやすい軸を選んでいるのかもしれない―ただし、ときに誤った対応になっていたとしても―だ。そもそも、重ね合わせは、無意識だとしても、実像と鏡像を照らし合わせているのだから。
身体については、対称性について検討した。とくに自分の身体では、身体の向きを合わせて重ね合わせ、身体の形状と固有の感覚・視線の方向などの感覚が整合的であることが重要なのだろう。もちろん、対称性が決定的といってるのではない。上方向固定仮説にとって重要なのは、身体の上方向を合わせているかどうかということだ。
文字の対称性については、深入りしない、上方向固定仮説にとって大事なのは、見る方向が決まっていることで、文字はそれを決めないことには判別できない。ただ、上下に見たときになんとなく安定し、上下よりも左右対称の文字が多そうな印象はある。(書に美しさを感じるというのはそういうところからくるのかも。)

一般的なものについて
身の回りの物をみて、上下、前後(縦)、横(左右)がどの方向かは、意外と瞬時に直観的にわかる(決められる)のではないだろうか。左右は、おそらく縦(上下)、前後にくらべて、半分に折り返したとき最も照らし合わせやすい(対称性の高い)方向なのではないか?そう言えば、対称操作は、対称性が高い方向で作用させるのだった。全然、左右の形が違った場合、それを照らし合わせるということは普通しないだろう。だから、任意の図形・立体を鏡に映して対照させると、特徴ある方向を上、前として認識し、「左右」が反対になったと考える可能性があるのではないか。

たとえば、自動車。鏡に映して斜めになっていても、どの方向が上、前、横(左右)かはわかるのではないだろうか。「あっ、左ハンドル」とかいう言い方があるから、左右方向を知っていたのは間違いない(でも、上方向と考えて右とか左とか考えてない)。鏡映反転することさえ知っていれば、ハンドルの左右が逆になることは、普通に認識できるだろう。
心理学としては、物のどんな部分を左右と言うのか、今後研究テーマとはならないだろうか。

重力について

対象を外から見る人の座標でも上方向は、見る人の向きで決まり、重力は、直接関係なかった。
しかし、重力は、普段目に入るものの方向を決めるし、見る人の動作や視線の向きにや対象や鏡、見る人の配置に影響を与える。
また、身体に対称性があるのは、重力の影響があるとは聞く。自動車も効率的に走行できるように左右対称に作られているのだろう。その意味でも間接的な要因であるに違いない。
重力は、間接的に、もっとも深いところから謎を引き起こしているというと言い過ぎだろうか。

結果

上方向固定仮説は、いくつかの状況や身体や文字など重要な対象について成立することを、常識的な経験の範囲で確認した。

前半では、鏡の中に映った像(鏡像)について、いわゆる「左右反転の謎」は、整理され、上方向を固定する場合の物理現象であることを確認した。
ただし、物理的には、鏡映反転における心理的側面や対象の対称性があるなどといった性質は、あまり深く考慮されてこなかったのではないだろうか。
 
後半では、心理についての課題を、上下を定義した上で、
 「鏡像では、上下でなく横方向の反転と認識するのはなぜか」…(*)
と設定することで、鏡像反転では上方向を固定する傾向を論じることが可能であると指摘した。あたりまえのことかもしれないが、人は、対象の心的操作をする際―ときに関連する物理的操作でさえも―横方向でなく上方向を固定する傾向があるという一般的な仮説を指摘した。(ここで議論した鏡映反転の文脈を超えて、人の一般的な傾向に言及するつもりはない。)
いわゆる「鏡文字」と言うように、文字を見る向きが決まっており、その方向で実像と鏡像を照らし合わせる傾向があること、また、身体について、同様の傾向があることに加え、身体が左右対称であることがもう一つの要因として推定された。

アナログ時計の例ように、(環境はともかく)設定が上下左右がほぼ対称な対象で、実は上下が反転しているように見ることもできることを紹介し、謎についてチコちゃんへの解答を例示した。鏡に身体を映した際、知識として左右が逆になっていることを知っていても違和感を感じる人に対して、対応関係をつけてはいけない動作をしていることを指摘し、その違和感を払拭できるようにした。

結論

さて、皆さんは、「鏡映における左右反転の謎」の解答としてどれがふさわしいと思われただろうか?
「見方次第である。」「左右概念を考えると当然である」「対象を上向きでみるから」「対象の向きを上向きで合わせるからである。」「対称性があるから。」
人により違うであろうが、これらは個々ばらばらのものではない。物理の原理をベースにして一貫した説明をした際のレベルの違いである。

また、鏡映左右反転の謎の状況設定は、対象に固定した座標で見たとき―つまり、対象そのものに固定した左右が逆になる現象―に限定しても、問題の本質は損なわれることがないと思うが、プロローグのアナログ時計の例も含むものとした方がわかりよいかもしれないと思ったので限定しなかった。
ただし、「左右」などの言葉の定義が曖昧なまま、混乱を招かないように注意はしたい。

心理については、心理学などで個別の状況や対象について、具体的に研究する必要があるということは当然であろう。
しかし、「そうか、確かに上方向そろえて見てるものなぁ」という常識が共有されるのであれば、これで、いわゆる「鏡映における左右反転の謎」は基本的には解決されたことになるとは言えないのだろうか。

参考

堀田昌寛
「鏡の中の左右の話 :「上下反転はしていないのに、
 何故左右反転するのだろう?」という疑問への回答」
https://note.com/quantumuniverse/n/n73750bdd80a2

霜田光一
「鏡で見るとどうして左右が反対に見えるの?」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/pesj/39/2/39_KJ00005896080/_pdf

高野陽太郎
「鏡映反転の原因を特定
 ― なぜ鏡の中では左右が反対に見えるのか?― 」
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400038457.pdf

最後に

筆者は、いわゆるJTCのソフトウェア技術者である。
心理学や物理学と何の関係もない仕事であるし、研究者でもなく、普段、このような論考を作成することさえない。
物理の式を書くというのは、まったくなかったわけではないが、35年間ぶりだ。だから、間違いも多いかもしれない。やさしくご指摘いただければ幸いである。

twitterで、@hottaq(東北大学助教 堀田昌寛先生)とやりとりしたことをきっかけにこの小文をまとめた。 
筆者が「上下でなく左右が反転する理由は、身体の対称性にもよる」とつぶやいたことに端を発した、舌足らずで失礼なツイートに、丁寧に鋭くコメントいただいた。
そのおかげで、筆者は、左右の概念を自覚し鏡映の物理を整理できました。
感謝の言葉もありません。ありがとうございました。

物理としては、鏡を側面に置いたり、回れ右で後ろの実像を確認したり、文字を上向きでみたりするならば、左右反転するのは当たり前なので、とっくに謎は解決しているというのは、私も否定しない。
ただ、身体の左右を反転させる理由などは、それに含まないと思った。
物理学者の霜田光一も、見方を変えれば必ずしも左右反対にならないとしながら、重力がどう関係するのか、結局は錯覚なのか、書かれていない。おそらく、(当たり前なので)整理をつけるまでもないと考えられたのだろう。
この小文をどれだけの人が読むのかわからないが、一般の人には、左右反転に見える理由の奥底に対称性が潜んでいかもしれないというような物理の不思議な魅力に興味を持ってもらえたら、心理な人には、謎をより深く解明する何かしらのインスピレーションを感じていただけたなら、また、物理な人には、「あっ、そうだったな(当たり前だけど)」くらいに思っていただければ、そうして謎などはなく「自明だ」とつぶやいていただければ幸いです。
(霜田光一は、2023年5月に他界されたとのこと、直接面識はありませんが、謹んでご冥福をお祈りいたします。)


高野の研究について

高野は反転そのものが単なる物理現象でなく心理現象と理解されているように感じられ、当初は無視すればいいと思ったが、心理学実験により「紀元前から続いてきた議論に決着をつけ」たとあるから、その成果を流用してみる。

身体について

「たとえば、どの実験でも、2割から4割の被験者が自分自身の鏡映反転(視点反転)を認知しませんでしたが(これは世界で初めて確認された事実です)、それらの被験者も皆、文字の鏡映反転(表象反転)は認知しました。」

高野陽太郎 「鏡映反転の原因を特定 ― なぜ鏡の中では左右が反対に見えるのか?― 」

「自分自身の鏡映反転(視点反転)は、「鏡像の視点から鏡像の左右を判断する」という任意の(してもしなくてもいい)心理的操作に依存しているので、この任意の心理的操作を行わない被験者は、自分自身の鏡映反転を認知しません。」

高野陽太郎 「鏡映反転の原因を特定 ― なぜ鏡の中では左右が反対に見えるのか?― 」

鏡に映った自分と相対したとき、左右が反対になっているとは感じない人がいるというのである。自分の鏡像だけを外の座標で見た場合であろう。実像の固有感覚である左と照らし合わせるなら、鏡像でも自分の身体に固定された座標を用いて考えてみればよいだろう。あるいは、実像の自分の身体イメージを持って、それと照らし合わせれば、いいだろう。「犬」の心象イメージは、鏡像では左右反転しているのと同じで反転するはずだ。
心理学の素人としては、素朴に、普通に「右手」「左手」という言葉を使えば、このような結果がでたとは思い難い。

自分以外の人の身体についてはどうなのだろう。
その方が左手を挙げて鏡に対している。鏡像は<右>手をあげているという状況である。外の視点から見ても、上下が固定した状況であれば、左右は逆になるのは、本文(思考実験による解決)で見た通りだ。
鏡で身体の前(前面)を映すという状況を想定するのが普通だと思うが、高野の写真5は、実像を後ろから見ている。

このような実験が、いわゆる鏡映における左右反転現象にあたるのか、素朴に疑問である。一部の人は鏡の中の自分の身体と自分の身体を重ね合わせる空間回転(視点反転)という心理操作ができない人がいて、その人たちがこういう回答をするとかそういう別の心理学的な観点で見てもらいたいものだ。

ちなみに、この小文の前半で説明したが、鏡の中での左右概念、右→<左>、左→<右>とラベルのつけ方が入れかわることを理解すると、仮に身体を心的に空間回転できなくても、鏡の中の<左><右>が認識できるはずだ。

この2~4割の結果については、「左右反転」現象であるか、それに当てはまらないケースかを含めて、この小文ではこれ以上考えない。

さて残りの、6~8割の方について
なるほど、6~8割の人が鏡像側の視点を変えたことが要因であることが伺われる。この時、上下を固定して考えていることについて何の言及もない。肝心なのはここであるのに。

また、高野は皮肉にもこのように記している。 

「たとえば、物理学者のファインマン(Richard P. Feynman)は、自分自身の鏡映反転を説明するにあたって、「人体はほぼ左右対称な形をしている」という事実を利用しましたが、こうした左右の対称性に立脚した説明は、左右が明白に非対称な文字(たとえば「F」)の鏡像については、「左右の鏡映反転は生じない」と予測することになります。

高野陽太郎 「鏡映反転の原因を特定 ― なぜ鏡の中では左右が反対に見えるのか?― 」

ファインマンは、身体の左右がほぼ対称であるから反転の方向が上下でなく左右になるのだと言っているのだろう。
高野は、そもそも、鏡映反転が、物理で一般に説明現象であることを理解されていないのか。なぜ、そんな議論になるんだ。謎は、反転が前提で、上下でなく左右の理由を問うているのに。

しかし、少なくとも6~8割の人が(1)という心的な空間回転操作をしているということが見て取れる。

文字について 

文字の鏡映実験では、鏡の位置を調整しさえすれば、実像と鏡像を同時にみれるし、文字を見る向きを決める環境情報を変えたら、当然反転の方向が変わるのだが、表象と比べる実験をしたようだ。 

「他方、文字の鏡映反転(表象反転)は、そのような任意の心理的操作には
  依存していないので、すべての被験者が認知します。」

高野陽太郎 「鏡映反転の原因を特定 ― なぜ鏡の中では左右が反対に見えるのか?― 」

文字の場合、すでに表象があり、その文字が向き(上方向)を強く決める傾向にあるということを読み取っていいのではないだろうか。
これは、心的表象と鏡像の比較だと思われるが、上方向がそろった状況での結果と思われる。
左右反転の理由として、文字を書いた紙などを鏡の前に配置する際、無意識に向きをそろえるなどの動作について指摘はなさそうだ。

なお、高野が書いているわけではないが、「被験者全員が認識したことを理由に、文字の上方向を合わせる傾向が身体の上方向を合わせる傾向より強い」とは判断できないだろうことはコメントしておく。身体に対する実験についてはいろいろ指摘したとおりだ。

鏡映反転は複数の理由が絡んだ現象か

「本理論では、「鏡映反転は1つの現象ではなく、3つの異なった現象の集まりである」と説明しています。」

高野陽太郎 「鏡映反転の原因を特定 ― なぜ鏡の中では左右が反対に見えるのか?― 」

自分自身の鏡映反転(視点反転)は、鏡像の左右を鏡像の視点から判断することから生じます。
文字の鏡映反転(表象反転)は、鏡像の左右(または上下)が、記憶している文字の左右または上下)とは反対になっているときに生じます。
鏡面と垂直な方向が反転して見える鏡映反転(光学反転)は、鏡の光学的な作用が原因で生じます。

高野陽太郎 「鏡映反転の原因を特定 ― なぜ鏡の中では左右が反対に見えるのか?― 」

文字は、外の視点から突き合わせているのに対して、自分の身体の場合、鏡像の視点から見るという点が違っているという。なるほど、実際の人の心理については、そういう違いがあるかもしれない。
とくに身体について、自分の実像を鏡像に重ねたという状況もそういう心的操作をする場合があるのは間違いないだろう。

しかし、これまで述べてきたように、鏡映反転そのものは、身体と文字のどちらも原理的には同じ物理現象だ。上を固定する心理的傾向性が認められるととらえれば十分だろう。

自分自身の鏡像(身体)に重ねて確認する傾向など心理現象があると思うが、それは「左右反転」の主要な要因とは必ずしも言えない。文字にしても他人の身体にしても、上下をそろえて、また身体の対称性を認識して、重ね合わせるということで十分だからだ。もちろん、重ねることによって違和感が生じるとしたら、それは、思考実験で考察した通りだ

また、心理学的には意義深い実験結果があるのだろうが、鏡映反転そのものは物理として統一して説明できる現象であるし、心理を分析するには、物理現象のどの部分に心理的要因があるかを指摘しそれがどう働いてたか明らかにして初めて意味がある。

しかし、期せずして、高野の心理実験により、向きを合わせる傾向があることが「表象反転」により、また、上下をそろえた身体の重ね合わせがあることが「視点反転」により補強された。この小文でのキーポイントと一致し、味わい深さを感じた。


心残りなこと

高野については、実験結果の内容を援用させていただきました。どうもおかしいと思った点について、一方的に指摘したことをご容赦ください。物理を前提にせず議論することは、私の力量を超えているとの感想をもちました。この小文で、普通、物理では当たり前として言わないこともなるべく言語化し丁寧に説明することで、お詫びとしたいと思います。

私には、鏡映左右反転の謎の直接の解明にはならないと思われるが、上下、左右、右手系・左手系、能動座標・受動座標の理解の難しさも、物理の学習・物理概念把握のの難しさの一部として学習心理学の研究課題になりうるだろうし、左右の認識の仕方が特殊な人、心的に空間反転する際、何らかの特殊な操作をする人などもおられてそれらの方の研究もあるのだろうと感じた。

私は、思考実験のつもりで、常識を根拠に推論した。
もし、自分が心理学として、この議論を完成させるとしたら、こういうことが不十分なのだろうなと感じながら、とりあえず小文を発表してみることにした。

・問題設定と仮説(理論)を踏まえて、検証・解釈・実験をしていない。傾向も、心理学実験するには、より正確に定義する必要があるだろう。
・今回、課題設定としては、(*)としたが、
「鏡像を見る際、どの座標をとるか、どの方向を固定するかに、
 環境や対象の何が影響が与え、どのような傾向があるか」
 と言い換えてもよい。
 そうすると、心理的な課題は、まだありそうに思われる。

そのほかにいくつかあげておくが、ほとんどは何の検討もしていない。
・「人は、対象の心的操作をする際―ときに関連する物理的操作でさえも―横方向でなく上方向を固定する傾向がある」という仮説が、鏡映反転の文脈を超えて、心理学のどこかの範囲に拡張することができるようなことなのか、筆者としてはわからなかった。
・そもそも、実像を鏡像に重ね合わせられるよう回転させるのは、なぜか?
 この小文では、それらを照らし合わせるためとした。
・文字を含めた図形の対称性の影響度
・身体は、自分の場合/他人の場合、縦向き/横向きによる影響度
・傾向性の強弱
 身体の上下を合わせる傾向性と文字の上下を合わせる傾向性は
 どちらが強いだろうか?
 鏡文字、横向きの文字を書いた身体の鏡像を見た際、それらが
 どのように干渉するか
 などは興味深い。
・環境と対象の特徴が与える影響。それらの強弱。

以上