鏡映左右反転の謎(キーポイント5)

「左手を伸ばしているのに、どうして鏡の中では右手を伸ばしているのか」 
                              .…(**)
に答えたい。
まずは、文字での答え(キーポイント3)と全く同じように答えよう。
ここでは、人(身体)の視点から前後・上下・左右という方向を使う。ごく日常的に行われていることだ。「右手」「左手」とか言う、見方だ。
鏡の中では身体の像は、実像に対して一つの方向が反転する。これは前提としよう。

身体は、見慣れた、あるいは習慣として―上下、前後、左右―が決まっている。
ここで、上下、前後の向きを先に決めるから、左右にしわ寄せが行き、
左右が反転する―つまり、左手と言っていたものが右手となる。右手と言っていたものが左手となる。
肝心のことには、答えてないが、ここまでは一致を見るはずだ。

肝心なことは、上下・前後の向きを先に決めるのはなぜか?だ。

一つの答えは、言葉の定義によるということ。左右は、上下・前後が決まってから決まるからというもの。
もう一つの答えは、文字の向きが上方向で決まるのと同様、身体の向きが左右より優先して上下・前後で決まるからというものだ。
実際に対象(や環境)に向きを決める理由があるということだ。これまで、アナログ時計や文字で採った考え方だ。

ただし、身体については、もう少し深い理由があるのだろうと思う。
それは、(Feynmanも同じようなことを言ってたらしいが)身体がほぼ左右対称だからというものだ。左右がほぼ線対称(面対称)だから、左右方向にしわ寄せをしても違和感が少ないだろうという無意識の心的な理由が働いているだろうということだ。
実際、自分が鏡に映っているところを想像してほしい。その像に自分の心的イメージを重ねないだろうか。―その自分の心的イメージは、自分の身体に感じる固有感覚を統合して、鏡を見ることで形成された像だろうけれど―。その時に、上下や前後を逆にして重ねるより左右を逆にして重ねた方が違和感が少ないのではないだろうか。
ただし、これだけで決まるということではなく、身体の向きは上下・前後で決まるという理由と整合的であることが重要だ。

この身体については、筆者の意見であるので、確立された事実なのだと受け取らないでいただきたい。
皆さんは、鏡に映った自分に自分のイメージを重ねますか?
左手を上げたときに鏡の中の自分が右手を挙げていることに、違和感を感じたりしませんか?(もちろん、知識としては逆になることは、承知だと思いますが。)