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初めてのがんセンター

街の小さな乳腺科で、たった30秒ほどのエコーで7割方乳がんだと言われてから、私の毎日は癌一色になった。

あの日から、数日に渡りがんセンターで検査を重ね、確定診断が出て告知されたのが3月2日。それまでの3週間と少しの日々は、とにかくつらかった、ということ以外思い出せない。
思い出そうとすると、取り返しのつかない過ちを振り返るときによく似た胸の痛みに軽い吐き気がする。
それほどまでに感情が揺さぶられるくせに、詳細な映像は出てこない。白黒の写真に墨汁をぶちまけたような画が浮かぶ。たぶん、私の感情から色が消え去ってしまっていたからだろう。
それまでは、仕事への情熱の赤、息子を愛しく思う幸福のピンク、夫と休日を過ごす安らぎの緑、友達とお腹が痛くなるほど笑うときの黄…そしてショックな出来事にさえ藍や紫など、私の人生は色彩の洪水だったのに。
「私は癌なんだ」と思った瞬間から、何をしていてもどこにいても、何を考えていても何を感じていても、私の世界は光が届かない漆黒になってしまっていた。

あの頃何よりつらかったのは、息子の笑顔を見ることだった。
まだ3ヶ月だった息子は、楽しいから笑うわけではなかっただろうが、とにかくよく微笑む赤ん坊だった。息子が目尻に皺を作ってへらへらと笑いかけてくるたびに、「この笑顔をいつまで見られるのか」と悲観して泣いた。私は声を上げて泣いているのに、息子は静かに微笑んでいる、という状況は一度や二度ではなかった。
息子と二人きりでいると、とくにまだ頼りなくふにゃふにゃした身体を抱いていると、真っ黒な濁流のような哀しみが怒涛のように押し寄せてきて、私の腸を引っくり返すようだった。発狂しそうだった。
慟哭しながらミルクを作り、慟哭しながら授乳し、慟哭しながら寝かしつけ、眠ったら静かに啜り泣きながら乳がんのことを検索する。その繰り返しだった。
そのうち私は息子と二人きりでいられなくなり、実家と当時の住まいを行ったり来たりするようになった。車で1時間超の距離を、息子のミルクや着替え、自分の生活用品を夫の車に積み、遊牧民のように移動を繰り返した。

そう、地獄の日々だった。
癌治療をする中で、全身麻酔が怖かったり、術後病理診断の結果が悪くて落ち込んだり、抗がん剤のせいで思うように育児ができず悔し泣きしたり、つらいことはたくさんあった。
それでも私にとっては、ちょうど1年前のこの日々が一番苦しく、一番思い出したくない記憶である。


そんな消したい記憶を敢えて掘り起こしたのは、まさに去年の今日、2021年2月16日が、私が初めてがんセンターに足を踏み入れた日だったからである。

街の乳腺科から受け取った紹介状には、がんセンターの施設案内も付いていた。建物の外観などの資料はなかったが、「まず◯階◯番受付で……」などとやたら細かい案内が記されている様子から、やはりそれなりに大きな病院なのだろうと予想された。
実際、3年前から肛門管がんを治療している祖父を引率したことがある叔母からも「ほんと広いんだよねー!ビックリするよ!」と聞いていた。

街の乳腺科から乳がんの可能性を示唆されたとき、私クリニックから出た瞬間に母に報告した。
「乳がんかもしれない。がんセンターで精密検査だって」
不安で仕方なく何も考えず報告してしまったが、私が乳がんかもという報せは、母から叔母はもちろん、高齢の祖父母にまで広まっていた。母と叔母は告知されるまで終始明るく、「まだ決まったわけじゃないじゃん!それにもし癌でも、治せばいいんだから!」と言ってくれていたが、もう自分は完全に乳がんであると確信し、さらに乳がんという病気がどのようなものか予習しすぎた私にとって、彼女たちの楽観的な励ましは「残念だけど癌だろうね」と吐き捨てられる方がまだマシなくらい私の心を抉ったものだった。

だからというわけではないが、初めてのがんセンターは夫に付き添いを頼んだ。
これは今でもそうだが、夫は私の癌のことで泣いたことも落ち込んだ様子を見せたこともない。時に冷たく感じるほどに、「わからないことは心配しても仕方がない」というスタンスを崩さない。
そんな夫と共に寒さの厳しい、でもよく晴れたあの日、私は初めてがんセンターの自動ドアをくぐった。

これは大事になってしまった。私の人生は変わってしまうんだ。
……これが、私ががんセンターに初めて入って真っ先に直感したことだった。
そこは「病院」というにはあまりにも穏やかで暖かい色調で統一されていた。真っ白で役所のように無機質な場所を想像していたために驚いた。柔らかな日差しのようなベージュを基調とし、ところどころ優しい木々を連想させるくすんだグリーンが差し色に入った内装。解放感溢れる吹き抜けになっており、下を覗くと広場がみえた。床は小川のように蛇行したタイル張りの装飾が施され、それに沿って深いグリーンのソファが円形に何ヵ所も配置されていた。そこでは多くの人が何かを待っているのかくつろいでいるのか、思い思いに過ごしていた。
案内標示が至るところにあり、レストランや売店はもちろん、庭園、図書館、美容室、さらには展望風呂まであることがわかった。
リゾート施設のような充実した設備が、逆に私を一層不安にさせた。
そうか、こんなにも「優遇してあげなければならない重い病」に、私は罹ったのだ。

受付を済ませると、柱と柱の間に作ったテレビ鑑賞スペースに通された。
「まずはここでガイダンスのDVDを見ていただきます」
看護師なのか、案内専用の職員なのかよくわからない中年女性に言われるがまま席に着く。
ガイダンスを受けなければならないほどこれまでの日常とは変わってしまうのだ。
そして、こうしてガイダンスを受けるということは、やはり私は……
様々な思いが動悸を誘い、ただただひたすら吐き気に耐えた。
映像の内容は何も記憶に残らなかったが、そのとき一緒にDVDを観た何組かの患者とその付き添いの中で、私たち夫婦がダントツで若いことだけは鮮明に記憶に残った。

次にタブレットを渡され、生年月日から初めての飲酒年齢に至るまでこれまでの私のことを事細かに入力することになった。
こういったことに答えるのは早い方だが、ある一問で私の手が止まった。
「妊娠の希望はありますか」
……癌だとして、望んでいいのか?でもここで「いいえ」にしたら、二度と妊娠できない身体にされるんじゃないか?私がもし、もし近い将来いなくなるとして、お互い一人っ子の夫婦の元に産まれた息子はどうなる?従兄弟すらできず、夫と二人きりで取り残されるのか?
迷ったが、「息子が寂しくないように」という一点で意を決して「はい」を選んだ。考え抜いた答えであった。が、「乳がん」と闘うということがどういうことかをまだあまりにも知らなかった答えでもあったと思う。

タブレットの回答を元に、次に看護師と面談することになった。
まだここへ来たばかりなのに、癌であり治療をするのが前提かのように話が進む。
頼れる人は誰か?病気を打ち明けていいのは誰か?選ばなければいけない「キーパーソン」は誰にするのか?
風邪でもない、腸炎でもない、特別な病に侵された実感がじわじわと押し寄せる。
「何が一番気がかりですか?」
「息子の成長をいつまで見られるのか、これだけです」
即答。家ではあんなにびーびー泣きながら育児してるくせに、私の声は少し震えただけでつまりもしなかった。どうしようもなく暗い本音を包み隠さず話したのに、私は余所行きの落ち着きを崩さなかった。
このときから今に至るまで、私は医療従事者の前で取り乱したり泣いたりしたことはない。
こんなときまで見栄坊な自分に呆れながらも、頼もしく感じたのも事実だ。

その後はエコーの検査、マンモグラフィーの検査があった。
がんセンターではどこに行くにも生年月日を言う。エコーでも、マンモグラフィーでも、私の口にする「1991年」という年は異質に響いた。その響きを耳にして振り返った老婆もいた。彼女の視線は後に私のウィッグ生活に大きく影響することになる。

初めてということもあり、マンモグラフィーは技師と和気あいあいと進んだ。噂ほど痛みも感じなかった。
対照的に、エコーは部屋が薄暗いことも手伝って、しんとした、冷たい空気の中検査が進んだ。
エコーに写る黒く大きな金平糖は、何度もサイズを図られ、赤や青の光で色付けられた。
ジェルを拭き取り、服を着ながら私は意を決して技師に話しかけた。
「あの、結果とかって、わかるんですか?」
「それは先生から伺ってください。我々からは言えない決まりなんです」
その突き放すような、焦りを隠すような声色に、私の気持ちはまた一段沈んだ。

検査が終わると、いよいよ乳腺の医師の診察を受けることになった。
私が初めてがんセンターで出会った医師は後の主治医ではなく、「乳腺画像診断科」という画像診断の専門家だった。
黒髪を七三に撫で付け、細い黒渕メガネの中に小さい黒い目が覗いた、いかにも「医師」という風貌の男性だった。
その風貌の通り、落ち着いた、淡白な口調で今後の説明をした。
「今後はこれが悪いものかさらに調べるため、MRIをします。そしてそこでも明らかにならなかったら念のため乳房に針を指して組織を調べます」
「念のため」そう付け加えたのは、この医師の精一杯の優しさなのだろうと思った。
さらに医師は私の首や脇を痛いくらい強く押した。それまでの無機質な何の色も見えなかった医師の顔に、柔らかな弛みが見えた。
「リンパは腫れてませんね」
「癌は癌でもまだマシ」そう言われているのだろうと思いつつ、やはり私もホッとした。

この日から、日程を分けMRIと針生検を受けた。
がんセンターでもらう領収書は上半分が予約票になっており、今後の受診内容がわかるようになっている。
MRIを受けた日、針生検を前にして、当然告知もされていない時点で、私の予約票には「PET-CT」の文字が追加された。
予習しすぎた私には、何のためにその検査が組まれたかがわかった。これは癌細胞があると思われる場所───つまり私の場合は乳房以外に転移していないかを調べるものなのである。その帰り道、母に打ったLINEを今でも覚えている。
「ごめん。やっぱり癌みたい。癌じゃないとやらない検査を予定に入れられてる」
あの日、母は「まだ言われたわけじゃないんでしょ?わかんないじゃん!」といつもの呑気な調子で言ったけど、私の読みは正確だった。


先日、3ヶ月目のタモキシフェンを取りに行った。ホルモン療法の薬である。
すると今ではすっかり見慣れた広場に、七段の豪奢な雛人形が飾られているのが目に入った。
とっさに、もう20年近く見ていない自分の雛飾りを思い出した。あの男雛と女雛二人きりの寂しい飾りに比べ、こちらはなんと見応えのあるものか。自分じゃ買えるものではない。
すっかりテンションが上がった私は雛人形の正面に立ち写真を撮った。
そしてその上がったテンションに委せて院内美容室に飛び込み、黒々としてきた坊主頭をツーブロックに刈り上げてもらった。教師として生徒にツーブロックを禁止してきたが、どんなものであるかやってみたかったのである。
すっかり機嫌を良くした私は、待ち合いの椅子に腰かけて先程撮った雛人形の写真を眺めた。
すると閃光が走るように、ある記憶が甦った。

私がこの雛人形を目にするのは、二度目だったのである。
そう、あの日。2021年2月16日。
私は夫と二人、あの雛人形の前に立った。
「こんなものでは、私の哀しみも不安も癒えない」
怒りすら覚えた雛人形がこれだった。
忘れてしまっていたなんて。
「アフター癌」そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

帰宅後、私は夫に雛人形の写真を見せた。それまで馬鹿な冗談を言いながら食器を洗っていた夫の手が止まる。顔がスッと硬くなったのを私は見逃さなかった。
「その雛人形、見たの覚えてる。あの日僕も内心、いろいろうわぁって思った」
知らなかった。冷たいまでに「先のことはわからない。なるようにしかならない」と平然と構えていた夫。でもその内には、私以上に雛人形の記憶がこびりつくほどの感情が渦巻いてたのだ。

告知までの、暗闇のような日々。
光の届かない日々。
何も見えないから気付かなかったけど、その闇の中でも隣には夫がいたのだ。
きっと母も。そして微笑み続けた息子も。
癌が変えてしまうのは患者本人の人生だけではない。
雛人形の写真を見た夫の顔のこわばりが、それを物語っていた。

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