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ほんとうにつらいこと

ふざけたテンションで、ふざけた家族の愚痴ばかり書いてきた。
全員分を書き終えるまで、別のことは書かないつもりでいた。

だけど別の記事にも書いたけれど私は何かを継続する能力がないし、父のことを書いている途中だったのに父を決定的に軽蔑する出来事があってなかなかふざけたテンションで書けなくなっている。
私は「愛すべきヤバイ奴ら」を書いてきたけれど、父からその「愛すべき」が消え失せてしまったのだ。

夜中に音楽を聴いていたら、どうしても「彼女」のことを書きたくなった。

親友であり、ライバルであり、憧れであり、高嶺の花であり、そして、「親友だった」彼女。

彼女は昨年の9月に自分で自分の終わりを決めてしまった。
私が彼女に「今の貴女とは分かり合えない」と言った2ヶ月後だった。

どうしても生きたいと願う私と、
どうしても死にたいと願う彼女と。
22年に渡って腹の中全てを見せあってきても分かり合うことはできなかった。
たぶん、全てを見せあってきたからこそ、袂を別つしかなかった。

私と彼女は小2からの親友だった。
幼い頃は毎週末を一緒に過ごして、娘盛りの頃は誰にも言えないロマンスを互いにだけ打ち明けた。
私も彼女も、色恋には積極的で私は彼女のここには書けないような経験をたくさん知っているし、当然逆もまた然り。
彼女は二股を、私は乗り換えを、いつまでも誰を相手にしてもやめられなかった。時に窘め合い、時に唆し合い、ずっとそうやって爛れた恋愛を肴に何時間も飲める二人だと思っていた(私は下戸だけど)。

でも

私は仕事柄どんどん自分を「常識」に無理やり嵌め込もうとして安定を求めるようになった。安定を求め出した途端に安定を擬人化したような人の好い男が現れ、結婚した。結婚して10日程で子供を授かった。

妊娠は、私が彼女に初めて隠した秘密だった。

私がどこにでもいる主婦に向かって着々と駒を進めている一方で、彼女はやっと夢中になれた相手から、裏切りを受け傷付いていた。
その傷を埋めようとして、そしてその傷を免罪符として、彼女は娘盛りの頃以上に奔放になったけれど、そこにはもう以前のような小悪魔的な愉悦はなさそうだった。

私が母になることを打ち明けたとき、彼女は「貴女は私が知る限り一番母親が似合わない」というようなことを言った。

ここまではよくある、アラサー同士のすれ違いだろう。

私たちのそんな話を、「よくある」で済ませてくれなかった出来事、それが私の癌だった。

癌が分かったとき、私は4ヶ月の乳飲み子を抱えた新米母だった。
他の記事では至極明るく茶化して書いているけれど、私はどれだけの涙を乳癌に搾り取られたかわからない。

私はどうしても生きたかった。
よく「癌になったのが他の誰かじゃなくて私でよかった」と殊勝なことを言う患者さんも見かけるが、私は自分と息子以外なら誰が癌になっても良かった。冷たいだろう、醜いだろうと思うけれど、代ってもらえるなら母にでも夫にでも代ってほしい。だって、誰より息子の成長を見届けたいと願っているのは絶対に私だから。

そんな激しい悲しみの中にいた私に、
「私の寿命をあげられるならあげたい」
と言ったのが彼女だった。

これは患者本人にしかわからないかもしれないが、「代ってほしい」と思いつつ、「代ってあげる」と言われるのは大変不愉快である。
そんなこと、できっこないからだ。

彼女が死を願うのは10代の頃からだった。私はその願いを聞くたびに真っ向から否定し、宥めすかし、愛を語り、生きていてくれと請うた。
私は10年以上それができるほど元気だったから。

でも

致死性の病を得た私にとって、彼女の死を願う言葉はあまりに痛かった。

彼女は、何故そこまで生きたいのかわからないと言った。
彼女は、病すら羨ましいと言った。
彼女は、私が生きたいと願う気持ちがいつか息子の負担になると言った。

「生か死か、どちらでも選べる身体をどうか大事にしてね」

私が彼女に送った最後の言葉はこれだった。

私と離れても、きっと、私の悪口を誰かと言い合いながら、これまで通り強かに生きていくと信じていた。
私が5年くらい運良く生き延びられたら、きっと、また彼女と向き合う余裕が生まれると信じていた。
20年以上本音で語り合ってきたから、一度本気で怒って縁を切っても、きっと、また笑って何でも話せる日が来ると信じていた。

そのすべてが、希望的観測だった。

彼女の死を知ったのは、もうとっくに彼女が荼毘に付された後だった。
彼女の恋人が探し出した私の連絡先は、もう数ヵ月に一度しか開かなくなった古いメールアドレスだったからだ。

慌てても仕方ないけれど、慌ててお線香をあげに彼女の実家へ出向いた。子供の頃毎週末を過ごした懐かしいお宅。

彼女の顔を見るのは約2年ぶりだった。
けれど、真っ平らな、四角い、動かない笑顔を見るのは初めてだった。

それでも、彼女がとんでもなく美しいことは変わらなかった。

迎えてくれたご両親とお姉さんには、最後私たちが仲違いしていたことを正直に話した。それでもご家族は、「病気で大変な人にそんなこと言うなんて、もう精神的におかしかったんだよ、ごめんね。本音を言い合える良い友達でいてくれてありがとう」と言ってくれた。啜り泣くご家族を前に、私は不思議とどんな表情にもなれなかった。泣いてしまう資格を彼女からもらえてない気がしていた。

彼女の遺書は、そういった類いのものの定例文のような文章だった。
伝えてほしい友人として、私と、もう一人高校時代からのご友人の名があった。

私の名前は旧姓で、連絡先にはもう解散して繋がらなくなった実家の電話番号が書かれていた。
今の名字も、携帯の番号も知っていたはずなのに。

たぶんそれが彼女からのメッセージなのだろう。
実家の電話番号に掛けるしかないような幼い頃の私たち。
「もしもし、◯◯ちゃんいますか?いたら代ってください」
そうしてザリガニを取って、お母さんごっこをして、セーラームーンのビデオを見ていた私たち。
5時になったら別れて、次の日また学校で会う私たち。
ねぇ、私たち、あの頃が一番幸せだったね?
そんな、彼女の声が聴こえる。

数日後、私はお姉さんにいただいた出産祝いの内祝いを届けに再び彼女の実家に出向いた。
彼女の思出話を少し交わした後、彼女のお父さんが改まった口調で切り出した。

「お願いがあるんだけど…」

きっとこうして、時々思出話をしたいという旨だろうと思った。けれどそれは、私が予想だにしない話だった。

「あの子がどんな子だったのか、その足跡がわかるような文章を書いてほしい。あなたは文章が上手だから。忙しいし病気で大変なのはわかってる…でも何年かかっても良い」

彼女のお父さんが数年前、血液の癌を患っていたのは知っていた。私が乳癌であることも、ご家族は知っている。
癌患者の「何年かかっても」がどういうことか、承知した上での悲願なのだろう。
頭を下げられて困惑していると、お父さんは続けた。

「文章だけは敵わないって、あの子もよく言ってた」

容姿端麗、頭脳明晰、そのくせ負けず嫌いな彼女だった。何一つ勝てるところがなかった。
そんな彼女が、私が一番誰にも負けたくなかったところを、認めてくれていたなんて。

帰り道、厚いノートと、ブルーブラックのインクのボールペンを買った。

あれから4ヶ月。
あのとき買ったノートには、まだ一文字も書かれていない。
癌治療に一喜一憂し、育児に孤軍奮闘し、日常を積み重ねるだけでいっぱいいっぱいだった。
そして何より頭のどこかに常に、本当に私が彼女のことを書いて良いのか、という迷いがある。
仲違いした私が。
「親友だった」私が。

それでも年が明けてしばらくしてから、彼女が頻繁に夢に現れるようになり、期が熟したのを感じてはいた。

今夜、彼女が好きだった歌手の曲を聴いていた。
眠くなるまでのつもりだった。
眠くなることはなかった。

“自分が思うより 恋をしていたあなたに”

彼女がたとえ、「親友だった」人だとしても、私にとっては永遠に、自分を切り分けた一方、そんな気がする。

寝て起きたらまた私は、重低音のように死への恐怖を抱えながら、暴れまわる1歳児に半泣きで振り回される一人の癌サバイバーママだ。
だけど、その嵐のような一日の中に5分でも、ペンを取る時間があったらいいなと思う。

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