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ペットとビョーキ、そして主治医

学生時代に中古で買ったというボコボコのラクティス。後部座席にはなんとかチャイルドシートが押し込められている。その隣の隙間に身を埋め、車窓に寄りかかりながら浅く呼吸を繰り返す。狭い車内にいつになく苛立つ。少しでも車体が揺れると吐き気が込み上げる。夫はそんな私が醸し出すただならぬ空気を読んでCDを換えた。フレディ・マーキュリーが歌う。15年間愛してきた歌声でも私の動悸は止められない。
2021年3月9日、私は夫と病期説明を聞くためがんセンターに向かっていた。

病期。ビョーキ。「病気」の誤字ではない。私だって癌になるまでこんな言葉は知らなかった。病期とは、病気の進行具合の区分、つまりいわゆる「ステージ」のことである。
この4日前の3月5日、PETーCTという機械を使った検査によって、私の癌がステージⅠなのかステージⅣなのかを調べたのだ。

そもそも、癌の区分がステージがⅣまでであるということも、私は自分が罹患するまで知らなかった。そして乳がんの場合、Ⅰ~ⅢとⅣとの間にはあまりに大きな差があることも、小さな町の乳腺科で「七割方乳がん」と言われるまで調べたことすらなかった。
ステージⅣだと手術ができない。遠隔転移といって、すでに他の臓器や骨に転移している場合、手術をしてもまた別の場所に転移すると考えられ、延命にはならないと見なされるのである。その場合、手術はせずに抗がん剤やホルモン剤で進行を抑えていく治療になる。いつまで?それは一生かもしれない。じゃあその一生はいつまで?長いの?それとも…
(※患者さんの症状によってはステージⅣでも手術の対象になることはある)
告知されたあの日、乳腺画像診断科の医師は「遠隔転移の可能性はゼロとは言えない」と言った。
あの日から、胸の真ん中の骨が痛む。キリキリキリキリ何をしなくても疼く。疼く部分を押してみると虫歯のようなズキンとした鋭い痛みが走った。「骨転移」その言葉が頭を離れなかった。


吐き気の中、思い返していた。
PETーCTは辛かった。
検査室は物々しい自動ドアの向こうにあった。検査のために注射する造影剤には放射能が含まれる。そのため真っ白い待合室やトイレなどの随所にあのスズメバチのお尻を下から見たような黄色と黒のマークが掲げられていた。
こんなマーク、テレビでしか見たこと無かった。まさか病院で目にするなんて。まさか放射能を自分の身体に入れるなんて。
薬剤が行き渡るまで小一時間、リクライニングシートで安静にする。スマホも本もダメだと言われ、ひたすら荷物入れのカゴの網目を見つめていた。青い網目が滲んでいく。なんでこんなことになったのだろう。私の人生どうなるのだろう。本当なら、この育休中に2人目を作るつもりだったのに。それどころじゃなくなった。1人目である息子とさえ、いつまで一緒にいられるかわからない。だってもしこの検査で遠隔転移が見つかったら……。個室で人の目がなかったからか、初めて病院で泣きそうになった。深く細く息を吐いて涙を引っ込めた。
その後の、頭も身体も強く固定され、パニックになるのを堪えながら筒の中に閉じ込められていた時間よりも、私はそのカゴの網目を見つめていた時間を苦しく思い出す。
ペットといえば、実家の猫か、月に2度しか集めてもらえないゴミかのどっちかだったのに。この日から私にとってのペットは、孤独で苦しくて辛い時間を指す言葉になってしまった。


吐き気を引きずったまま車で40分、がんセンターに着く。ATMのような自動受付機にも慣れた、のに、診察券を差し込む指が震える。
いつもの「女性センター」に行くようにという指示。
待合室の椅子に腰かけて気付いた。告知の前より、呼吸が苦しい。告知前に言われた母の言葉がよぎる。
「もし癌でもさ、治すしかないじゃん!」
ねぇお母さん、知ってる?ステージⅣってさ…
やたら前向きな母を思い出して苛立つ。
一人で抱えるには強すぎる緊張感を紛らせたくて隣にいる夫を見ると、家にいるときと変わらない澄ました顔で参考書を読んでいた。
やたら冷静な夫にも苛立つ。
話しかけようにも口を開けば吐きそうだった。
私これからどうなるの?さぁ、治していこう、ってなれるの?それとも。
浅い呼吸に合わせて吐き気を逃がし続ける。指先がモヤモヤ痺れていく。倒れる自分を想像する。
過呼吸まで秒読みというところで、診察室に通された。

「PETの結果、遠隔転移はありませんでした」
診察室に入った瞬間、あまりにアッサリと医師は告げた。
「よかったです……私、この辺の骨痛くて……」
あまりに強すぎる安堵で頭をクラクラさせながら、私は胸の真ん中を押して見せた。
「癌だとわかると、本能的に身体を守ろうとするからいろんな所が痛むんですよ」
なんだそうなのか。ホッとしていると医師が続けた。
「なので病期はティーワンエヌゼロエムゼロ、ステージⅠです。日本では早期発見とされる部類です」
途中呪文のようなものが聞こえたが、渡された書類に目を落とすとTが腫瘍の大きさ、Nがリンパ節転移の数、Mが遠隔転移の数を表すということがわかった。T1とは腫瘍が10㎜台ということである。私のしこりは18㎜であった。ただし、そのときは。
「それではこの後、主治医の先生の診察を受けていただきます」
この人は主治医ではなかったのか。そういえば診察室には「乳腺画像診断科」とあった。彼が画像診断のスペシャリストであるということに私はなぜかその時気付いた。

乳腺画像診断科の診察室を出ると、この日も以前と同じように部屋の隅で縮こまっていたあの若いメガネの看護師さんが、私を追って出てきた。忘れ物かと思い立ち止まる。看護師さんが私の目をまっすぐ見た。
「よかったです……PET、何事もなくて」
看護師さんの声はかすかに震えていた。
自分の瞳がブワッと表面張力を起こすのがわかる。
「はい。……ありがとうございました」
と言ったつもりだった。でも、最後のお礼はふつふつと吐息が漏れるだけで、声にはならなかった。
私が「この病院なら全て任せられる」と思ったのはこの時だった。あの小柄で頼りなさそうに見えた、自分よりずっと若そうな彼女が、私にとってのがんセンターを「嫌々通う場所」から「来ると強くなれるホーム」に変えてくれた。

「早期発見」と言ってもらったことで、私の心はかなり軽くなった。看護師さんの一言が嬉しかったこともあり、「病と闘う覚悟」のようなものが芽生えかけていた。
妙な高揚感を抱えたまま、私は夫と「2番」の診察室に通された。
……白い。私を待っていた医師はとにかく白かった。一点の曇りも無い見事な総白髪。タンポポの綿毛のようだった。
おじいさんだ……と思いながら腰かけると、マスクの鼻の辺りを少し摘まんで医師は口を開いた。
「青天の霹靂だったでしょう……」
心から気の毒そうな言い方、そして何よりあまりにも小さな声に私は面食らった。
「そう…ですね……」
私はもう闘志を燃やしているのだ。この1ヶ月散々泣いて、やっとついさっき向き合う覚悟ができたのだ。それをこの医師はまた悲しみに引きずり戻すような物言いをして……。
自分と医師との温度差に居心地の悪さを感じた。
医師はボソボソと続けた。
「20代でなるなんて、まず有り得ない」
それだって私自身何度も思った。でも今こうして有り得てしまってるのだ。有り得ないなら何?取り消してくれるの?
居心地の悪さは徐々に苛立ちから怒りに変わっていった。それでも、治療してくれる人の話ならとにかくちゃんと聞こう。私は様々な感情を圧し殺し真面目くさって相槌を打ち続けた。が、半分も聞き取れない。気の毒そうな声色のせいなのか、元々こういう話し方なのか、低い囁きがマスクを越えてこない。
腑に落ちないまま、術式や遺伝子検査、受精卵凍結などこれからどんな話を詰めなければいけないかだけはなんとか確認できた。
そして帰り際、部屋を出ようとする私と夫に医師はボソボソと声をかけた。
「よかったら私のYouTubeがあるので見てください」
えっ。YouTuber?

これが、私と主治医との出会いだった。
第一印象は最悪。YouTubeもやはりボソボソした語り口にイライラし10秒ほど再生してやめてしまった。(全部で40分超の動画だった)
しかし今現在、病と向き合う中で本当に参ったときに真っ先に思い浮かべるのは主治医である。
私は絶対に再発したくないし死にたくないが、この医師の治療に従ってダメなら運命だったと思える、と思う。
この日から今日までで、私にとって主治医がどれほど大きな存在になったのかは簡単には語り尽くせない。


あれから約一年後の2022年3月8日、私はまたPETーCTの結果を聞くためにがんセンターにいた。
夫に付き添ってもらっていたあの日と違い、一人で。
もうすっかり通い慣れた「2番」の部屋に入り、いつもの椅子に腰かける。
「何も問題ないね」
聞き慣れた……そしてすっかり聞き取るのに慣れたボソボソとした囁きが、私にとっての春の訪れだった。
庭園に出ると、木々が今を盛りと濃いピンクの花を付けていた。植物の知識もなければ興味もない私には、それが梅なのか、変わった品種の桜なのかはわからない。わからなくてよかった。
なんであれ、信じられないくらい眩しく、美しい。
いま、私の身体に癌細胞はない。たった今は。
産後太りが痩せないまま抗がん剤でさらに肉を付けただらしない身体。それでもなんて愛おしいのだろう。癌細胞を殺し、抑えてくれている身体。
告知の日から色を失った季節が、また色づきはじめている。

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