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山本五十六の評価は過大?戦死を遂げるも国葬や戦犯回避など幸運の持ち主

 2022年は国葬が大きな話題になったが、その際に対象者として戦死を遂げた山本五十六の名前が何度も挙げられた。
前線視察中に戦死したことで平民ながら国葬の対象となり、戦争回避を模索した人物として「悲運の名将」などと呼ばれることとなった。

 しかし、近代軍事史に詳しい人からは否定的な声も少なくないらしく、個人的にも名将という印象は全く持っていない。
今回はその理由や根拠について記していきたいと思う。

優れた軍政家だが名将にあらず

 山本の役職で有名なのは連合艦隊司令長官だが、それまでの経歴は海軍次官や軍縮会議(ロンドン)予備交渉の海軍側首席代表など文官・軍政畑が長く、軍人よりも知米派のテクノクラートの色合いが強い。

実際、現場での経歴は数隻の艦長や第一航空戦隊(第一艦隊麾下)の司令官を約半年やったのみという程度に過ぎず、参謀職や行政管理などデスクワークを経て連合艦隊司令長官になったのは異色といえる。

連合艦隊司令長官としても不思議な判断を下すことが多く、航空機(空母)の時代を認識しながらも真珠湾の標的を戦艦群にしてみたり、ミッドウェー作戦の際にも機動部隊を先頭にして大和など戦艦部隊を後方に配して温存するなどチグハグな采配をしている。

 人事面でもミッドウェー海戦で大敗した南雲忠一らを擁護し、山本は「責任を負うべきは自分だ」として新編された機動部隊の長官に横滑りさせている。しかも、参謀らを更迭する一方で自分たち将官はそのままという極めて凡庸な判断をしている。

参謀長だった宇垣纒から何度も「小沢(治三郎)を機動部隊の長官にしましょう」と進言されていたものの、なんとなく同意をしながら最後まで実行していない。山本と南雲は以前から不仲だったにもかかわらず擁護をしているが、これは温情からなのか、それとも自らの実戦経験の少なさによる遠慮なのかは分からない。

 指揮官としての山本が達成した唯一の功績はガダルカナル島からの撤収を決断して実施・成功させたことだが、そこに至るまで戦力の逐次投入を繰り返し、座乗する大和などを温存するなど名将とは程遠い人物といえる。

もっとも、当時の日本海軍は連合艦隊(実戦)と軍令部(軍令)、さらに海軍省(人事)までが分かれているという組織的欠陥を抱えており、全ての権限が山本の手中に有ったわけではないという点は押さえておきたい。

悲運の戦死で幸運にも戦犯にならずに済んだ

 1943年4月18日、前線の視察や兵士の慰問をするためにラバウル基地から最前線へと飛び立ったが、ブーゲンビル島の上空で搭乗機がアメリカ軍の戦闘機に撃墜されて戦死をするという「海軍甲事件」が起こった。

ちなみに、いつ山本が絶命したかについては諸説あるが、映画や漫画で描かれているような機上で戦死したという可能性は低く、墜落後も少しだけ生き延びていたという説が有力らしい。

最高指揮官の前線視察にしては戦闘機6機と護衛は少数だったが、当時のブーゲンビル島周辺は日本軍の制空権下にあり、単機の偵察機がたまに訪れる程度だったので油断もあったのだろう。

山本襲撃には必ず「暗号が解読されていた」という説明がついて回るが、実際には直前に暗号を更新していたので解読はされていない。ただ、末端に日程を知らせた際に更新前の暗号(解読済み)を使ってしまい、それを活用してアメリカ軍が待ち伏せたというのも不幸といえる。

 連合艦隊司令長官の戦死は陸海軍のみならず国民にも大きな衝撃を与えたが、身近な関係者からは運が良いという声が多く聞かれる。つまり、長年仕えた海軍の崩壊を見なくて済んだこと、そして戦犯として東京裁判の場に立たなくて良かったという点だ。

いわゆる「A級戦犯」に海軍関係者の刑死者は居ないが、仮に終戦まで山本が存命であったとすれば唯一の存在になったことは間違いない。その点からしても、不幸な戦死によって平民として初の国葬対象者となり、開戦に反対しながら亡くなった軍神として名を遺した。

結局のところ、山本に戦局を挽回するような策もなかっただろうし、ロマンチストという点からすると「一命を賭して軍を鼓舞する」という考えがなかったとも言い切れない。

 山本は指揮官として格別の才覚を持っていなかったが、軍政や理論家、そして人を惹きつける稀有な才能の持ち主だったことは疑いなく、平時であれば優れた人物として職務を全うし、退官後はラスベガスでカジノの日米対決に勝利していた姿が容易に想像できる。

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