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38 years later。

昨日の続き。

かもめのジョナサンの話です。

実際にはたくさんの写真ページ(空飛ぶかもめの姿)があるため、話そのものは読み通すのに長時間かかるようなものではありません。

パート3までは、ああそうだった、と思い出しながら――この話を読んだのは18歳の時でした。東横線の菊名に住んでいて。今は駅も駅周辺もすっかり様変わりしていますが、当時は改札出ると正面に東急ストアがあって、その店頭でよく古本を売っていた。貧乏学生ですから、そこで良く文庫本を買っていました。かもめのジョナサンなんて、名前しか知らなかったものが文庫としてあるなんて、という感じで買った。同じような感じである愛の詩も買ったなあ。タイムマシンのようにそこに置き去りになっていたものを手にしていた感じ。…思い出してきた。極めつけはキャンディキャンディでした^^;

当時は何もわかっていないただの大学1年生で、こういう感じの本を読んだのが初めてで、その時の衝撃はけっこうありました。「哲学」だ、と思った。「生きるとは」とか「人生とは」とかそんなことは考えたこともなくて、そういうのも流行らない時代だったと思う。まあほかの人はそれなりにというかみんないろいろ考えていたんだと思うけど、僕は人一倍バカだったんですね。なーんにも考えていなかったと思う。自動的に何かが降ってくるとさえも思っていないのんきな学生でした。自分で何かを求めるというのがなかったなあ。文学部だったんだけど、自分にとって本はエンターテインメントでしかなかったから、そこから何かを学び取るという経験がありませんでした。文学部失格ですね。そういう意味で、初めてそういう人生哲学的な(と思った)文章に触れて、それが衝撃だったんだった。

あれから38年経って。改めて読み返すと、ああそうだったのか、と思うことが多くて。経験というものがその文を肚に落としてくれるというか、あの頃はわからなかったことがいやというほど身に沁みますね。何も知らないうちに読める方が幸せなのは、間違いなく自分を主人公に寄せて読めるからでしょう。今読むと残念ながら自分は理想を求めてひとりで生きることなどできないその他大勢の群れの一羽である、というかその道を選んでしまっていることを思い知らされます。ていうか厳密にはその道も選べず、どこにも入れずにいるという感じかな。リチャードバックもまさかそういうやつがいるとは予想しなかったのでは…ていうかそんな中途半端なやつがいると話がややこしいですよね(笑)。

追加された、というかもともとあったけれど当時は収録されなかったパート4は、ネタバレするからあまり書けませんけど、この部分にもそうだったのかという感じは受けます。これは僕が年を取ったからだろうと思う。18歳の時にこのパートを読んでも意味が分からなかったかもしれない。

前に眉村卓の「通り過ぎた奴」の話を書いたことがありますけど、あれと通じるものですね。ただ「好き」でやっていることが「すごい」ことになり、やがて「神格化」され、宗教になっていく。宗教になると、本人の意図は関係なく、大衆がその存在の在り方を決める。そして当事者を追い詰めてしまう。どこの世界でもそういう流れは避けられないのでしょうか。

ジョナサンの話はそこで終わらず、ラストには救いがあります。ただし、それは読む人によって救いと取れるか、終わらない絶望と取るかは違うかもしれません。僕は救いと取りたいなあ。

38年経って、いたたまれず本を閉じてしまうことなく最後まで読めてよかった。

改めて読み返して、気に入った言葉。

「ほかのことと全部おんなじさ、フレッチャー。練習だよ。」

座右の銘にしたいと思います^^

余談ですけど、このトップの写真は挿絵の1ページなんだけど、日高くんに見せたら、一発でかもめですねって。僕これ見せられてかもめって言えるかなあ?みなさんすぐわかります?

さて。練習しましょう^^


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