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20年という月日

何かを得るということは何かを失うという事も同時に引き受ける事である。

そう思って来たのは私がたくさんの「失う」を経験したからかもしれない。

今、元気であればいつかは健康を失うという出来事を引き受ける。

愛する人がいれば
その愛を失うかもしれないという事も

その愛する人をいつかは見送り失う日が来るということも同時に引き受ける。

同時に、それが自然であり
自然の摂理というものなのだと思うようになった。

持っていて当たり前のものなどひとつもない。

失うことの辛さを知った後
なるべく多くのものを持たない。という選択をして来た。

それはある意味刹那的であり
人からは理解されない事でもあることを私は知っていたので
人には言わずに自分の中の美学として取り込んだ。

物への執着は無かった。

でも失わないで済むのは思い出だなと思ったから
友人や愛する人を大事にする人生を送る事に決めた。


私は、私の家族と私が21の時に離れた。

離れざるを得なかった。

理由は信教の自由が許されない
私の親の信仰していた宗教が理由だった。

私がその教えとは違った生き方を選択した途端

私はそれまでの自分のアイデンティティと引き剥がされる事になった。

親や家族や幼馴染などを一気に失うという経験を21歳の私はした。

それがどれ程の痛みを伴うものなのか
自分の、自分自身の人生を全てひっくり返されるような経験だった。

そこから私は自分を教育した。

全てを失ったと言っても過言では無かったので
自分で自分の人生を切り拓いていく事と

その教えの元でなくても
私は幸せになれると証明したくて

私は、初めて自分のための人生という船を漕ぎ出したのが21歳。

容易ではなく、私は家族に会いたかった。
家族と理解し合いたかった。

孤独との戦いと私自身を拒絶されるという
非常に苦しい時期が長く続いた。


家族の中でも、私が1番会いたかったのは
2つ下の妹だった。

特殊な家庭環境で育った私と
同じ経験をし私としか共有できない物を持っている。それは妹しかいなかった。

妹は気立ての良い子でとても素直で優しかった。

私の何倍も優しくして誠実にして心を清らかにしたような人だった。

そのため、人と心を通わせることはわりと苦手な子だった。

誰とも共感できないある意味孤独な立ち位置にいたと思う。
私達はとても仲が良かった。

私は子供の頃から妹を傷つける物を許さない強いお姉ちゃんだったし
妹は私がいれば安心。と思っていた。と思う。

私の思い出の中では
泣きながら追いかけてくる妹を私は、大丈夫。大丈夫。と安心させているイメージ。

私は、20年前から彼女とも全く交流できなくなった。
この20年、私は妹のことをとても考えていたと思う。

2度と会ったり笑い合ったり話す事はできないであろう妹と唯一会えるとすれば

彼女が私と同じく、宗教組織から出て
私の所に逃げてくる。という構想だけだった。

そして、それはあり得ない事は
私が1番理解できた。

彼女はとても強く、孤独であり、だからこそ神様の存在は必要であり
それによって生かされている人である事も。

私は傷ついても、泣いても、痛くても死にかけても自由を選んだ。

まるで北朝鮮から逃げた脱北者のようだ。

妹は姉を看取り、家の教えを守り
祖母の世話をして生きていると、叔母から伝え聞いていた。

それ以外に知る由もなく

あっという間に20年経った。

私が知っているのは19の頃まで。
その後成人した事も大学卒業した時も知らない。

私が知らないのと同時に彼女も私がどうしているか分からなかったと思う。

あの子は小さい頃から私にずっとくっ付いている子だった。
本音で人と話さない子で
唯一私にだけ気持ちを話していたから

私がいなくなった後

引き裂かれ辛かったのは妹も同じくだったとは思う。

家族を失った私は

その後家族の実態が分からなくなった。

会わないでいると存在が薄れる。
私はいつしか自分の思い込みなような気持ちにもなった。

そのくらい麻痺してくる。
みんなには当然の様にいる家族が私にはいないから、年末年始など実家に帰った?という何気ない会話も、私にはできない。

思い出は20年前で止まっている。

この先もしかしたらしわくちゃのお婆ちゃんになったら何かが起きて会える事もあるのかもしれない。いや、ないな。そのくらいの感覚だった。

今日お昼突然ショートメールが届いた。

妹からだった。

目を疑った。

内容は組織内で調整があり出て行った家族とも話せるようになった。(私たちは組織に話す事も禁じられていた。)状況を説明したいから
嫌じゃなかったら電話で話せませんか? 
という物だった。

あまりにも突然の出来事で
私は乾いた笑いが自分から湧き出てきた事に驚いた。

こんな感じに、突然、現実って起きる。


そんなこんなで私達は20年振りに電話で話をした。

妹は私の電話番号も知らず
私の住んでる場所も
仕事も知らなかった。

私もその後の妹の事が分からなかった。

20年振りの会話は呆気ないくらいで
妹も私も互いの声を聞き絞り出すように泣いていた。

同時に、くだらないことを言って笑ったりもした。

1時間話をした。

私はお互いの選択や生き方が違っても尊重して、家族らしい交流がある事は望んでいると話した。

妹は私が電話に応じた事をありがとう。と言った。
辛い時に、何もできなかった。ごめんなさい。と言っていた。

そして、繋がれて嬉しい。と言っていた。


お互いの電話番号とLINEで繋がった。

会おうねとはならなかった。

まだ会って良いかは分からないらしい。

それも変な話だけど
私は話ができただけで充分だった。


電話を切って洗面所で鏡を見たら
目の下と上が真っ赤だった。

でも力が戻って来ている感じがした。

妹は、私の一部だった。

私の一部が少しだけ戻って来た。

家族とはお守りみたいなもので
普段はいて当たり前の存在であり時には疎ましいくらいの物だと思う。
そして、他にはない当たり前に思える存在。
それが家族。
それが普通のこと。

私にはどんなに願っても手に入らないものであり
どんなに願っても愛される事も愛する事も許されないものであり
どんなに願っても拒絶される存在。

それが私の血縁の家族だった。

一部だけ戻って来た。


いつか会いたい。と言ったら
そのために頑張る。と私が言ったら

妹も振り絞るように
私も会いたい。頑張る。と言った。

できればしわくちゃになる前に
それが現実となるかもしれない。


少しだけ期待してしまう。


一部が戻るという事は
少し世界が変わって見える。

実態のなかった私の家族が20年振りに現れたから。


ここからどんな時が待ってるだろう。

私は41歳。
妹は39歳。

時は戻らない。でも今また声を聞いてお互い生き延びたことを今は喜びたい。

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