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恋愛感情に染められた自分たち

昨日の朝、こんな記事を目にした。


ある区議が、「偏向した教材や偏った指導が同性愛へ誘導しかねない」と主張していたという。


自分がアロマンティックでアセクシャルを自認したのは、大学生の時だった。
それまで、自分が性的少数者であるなんて想像したこともなかった。

中高生の頃を思い出す。
何を喋ってたっけ。好きな本とか、試験嫌だとか、将来どんなことしたいとか……いや、もっとしょうもないことの方が多かった(笑)
電車の中でよく爆笑していたなあ。

恋愛の話はほとんどなかったと思う。
女子校だったというのもあり、そもそも恋愛が絡む機会がなかった。あるとしても、おそらく教科書や小説の中だけ。空想の世界のような感じだった。
実際は、塾などに通っている子たちはそちらでいろいろあったらしい。卒業してから知った。

そう、当時の自分にとって、恋愛は物語の世界だった。
たまに流行りに乗っかって「恋バナ」なるものをしてみたこともあったが、所詮自分にとっては「他人事」だった。

それでも、長いこと自分は異性愛者だと思っていた。大学に入っても、しばらくはそんな感じだった。
確信があったわけではない。消去法的に「異性愛者しかなくない……?」という感じだった。性的少数者はLGBTしか教わらなかったし、性的少数者は居れど、誰しもが誰かしらに恋愛感情や性的欲求を向けるものだと思い込んでいた。
中高は恋愛事に接することがなかった以上、自分の性的指向なんてピンと来なかったし、大学に入ってもそれは変わることはなかったが、「自分の性的指向はLでもGでもBでもない=自分は異性愛者だ」という考え方をしていた。いつかは誰かを好きになるのかもしれない、そんな淡い期待を抱いていたが、同時に「好きな人を作らないといけない」という不安も広がっていた。

正直きつかった。
自分が恋バナや恋のタイプ論争に全くついていけないこと、サークルで一緒に練習していただいた先輩と噂にされたこと、何よりこんな自分が「いつかは恋愛する人」だと思われること。
一つ一つが重りになって、自分にのしかかってくる感じだった。
自分もいつかは誰かを好きになる、誰かとそういうことをする。そういうもんだと自分に言い聞かせるが、その想像すら寒気がするくらい嫌だった。
でもみんなそうしてるし、したくないのは自分の「幼稚さ」「わがまま」だと思い込んでいた。

☁️☁️☁️

自認して3年以上経った今、
「恋愛指向や性的指向は他人に向かない人もある」ということを幼い頃、特に小中学生の頃に知っていたら、自分はどのように成長していただろうと考えることがある。
前述の議員には、「それは偏った教育だ」と言われるかもしれない。
でも、恋愛しなくてもいい、子どもを作らなくてもいい、そういう視点を子どものうちから知ることができたら、どうだっただろう。……ちょっと、楽だったかもしれない。

自分は、今の時代でもわりと自由度の高い生活を送らせてもらってると思う。環境にもかなり恵まれている。他の性的少数者に比べたら、温室育ちでぬくぬくなのかもしれない。
それでも、大学に入ってからのあの戸惑いや苦悩はしんどかった。正直今でも、あの時期は無くてもよかったんじゃない?(笑)と思うこともある。
笑い話にできるくらい図太くはなってきたが、それでも、ちょっと振り返りたくないくらい自分が迷走していたな……と思う。

もし、アロマンティックやアセクシャルのことについて辿り着いていなければ、……なんて、本当考えたくもない。

性教育はまだ確立しきってはいないのかもしれない。(詳しくは追えていないので、今の教育現場がどうなっているのか分かりません。ごめんなさい)
だから、中途半端な教育をするくらいなら、『成熟』してから……と考える人も多いのかもしれない。

でも、当事者の一人として思うことは、「もっと早くに知りたかったなあ」というちょっとした後悔だ。
せめて、「恋愛はしなくてもいい」「結婚や子育てを夢に加えなくていい」ということをもっと早く知ることができていたら、恋愛当たり前の空間に放り込まれた大学1、2回生の時でも、ニコニコと「自分は恋愛に興味ないんです」と言い切れたのかもしれない。
「早くに生き方を固定しなくてもいいじゃないか」と言われそうな気もするが、結婚や子育てはともかくとして、恋愛しないという生き方があると知るだけでも、(まあこういう人もいるから焦らなくていいな)という余裕ができるのだ。少なくとも私にはそういう余裕がかなり必要だった。

大袈裟なのかもしれないけれど、冒頭の記事の文章に、つらつらとそんなことを思い返していた。

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