短編小説No.9「心=ベンチ」

この小説は堀辰雄「あいびき」のトリビュート作品です。

 一人の女が立っているのに飽きて、寄りかかった汚れの少ない段差は、かつては芸術的価値があったのかもしれなかったが、今は待ち合わせ場所の目印でしかなかったのである。女は前の用事が前倒しに終わったために待ち合わせ場所に早く着いていて、男は時間通りに現れた。「待ちました?」と、言う朗らかな表情の中に、光のない眼球が二つ、ボタンのように縫い付けられている。「少しね」「どうします?」女は無遠慮な視線を、男のつま先からつむじへ這わせている。「2回目?」言われた言葉の意味が分かると、男は憤然として、小さな声でぼそぼそ何か抗議をしたようだったが、女の耳には届かなかった。しかし、女は男のその反応に満足した。「もう行きましょ」女は体をモニュメントから引き離し、ずんずん先を歩き始める。女は自分を、この男にはもったいないくらいの女性であると自覚していたが、それは女の部屋の、埃の膜を張った鏡の世界でのみ通用する認識だった。女は、今追いついて隣を歩く男と同じように、「不潔そう」という理由で、特別な扱いを受けたことが多々あった。……心は一つのベンチである、と考える女の脚が、涼を求めてシーツの隅に泳いでゆくのだった。ベンチ、誰かが休むための椅子。長く座り続ければ、ぬくもりが座面や骨組みに伝播してゆく。誰も座る者がなければ、埃が積もり、塗装がはげ、人の重みに潰れてしまう。私のベンチは、人を座らせるほど丈夫だろうか。雨ざらしで風雨を防ぐ術がないのでは? 金属の部分は錆び、木部には虫がつく。いつ、手遅れになるほどに朽ちてしまうか分からない。……女は寝返りを打ち、ベッドの上で半身を起こし呆然としている男に視線を移す。男は、人がスマホをいじったり風景を見たり、とにかく「なにか」をしているとき、一人でよく呆然としているのだった。この男のベンチは、冷え冷えとしたままそこにあるのだろうか。男のまるく皮膚を押し上げる背骨の横に、小さな垢の跡が見える。「ベンチ?」……男は混乱したように半開きの口で言うのだった。女の発したベンチという単語と、自分の頭の中の意味が、同極の磁石のように結びつかない。心=ベンチ?「あんたには座らせないわ」女は立ち上がり服で体を隠蔽してゆく順序のあいまに、見下ろすように言った。「そんなもの、どこにあるんです?」「目に見えるわけないじゃん」ありのままに世界を見ている、といえば聞こえは良いが、単に男は唯物論者としても観念論者としても徹底していないというだけのことであった。「あんた心って分かる?」「知ってます」「どんな形か知らないでしょ。だから、どんな形にでもなるわけ」「はあ」男が思考を手放し呆然とし始めたため、女は冷や水を浴びせかける勢いで「全然分かってないの? 空っぽ。あんたの心!」男は女の脚を見ていた。秋だった。女はわざわざストッキングをはき直し、無造作に髪を束ねる。一本一本の主張の強い髪は、一度荒れると、容易には落ち着きを取り戻さないのだった。――男が感じとれていた以上に女は腹を立てていて、一人で部屋を出て行ってしまったのだった。まだ時間が残っていた。男の家の厚さ数ミリの布団が、時間ギリギリまでベッドのスプリングを楽しみたいという気持ちが勝ちを収めた要因だった。天井の照明を倦んでまぶたを閉じると、「心はベンチ」と言ったときの、女の真剣なまなざしが闇に浮かび上がってくる。……男は心について考えてみようとした。だが、冷めた笑いがこみ上げ邪魔をするのだった。道徳の授業を思い出す。優しい心、清らかな心、老人に席を譲れ、子供に乱暴するな、慎め、慎め……。代わりに、ベンチについて考えてみる。一番好きなベンチ、そんなものはない。どこにあると嬉しい、自動販売機の隣。バスや電車の停留所。屋根の下。木陰。自分用のベンチがあると嬉しい、たいてい誰かが先に座っているから。いつでも座れるベンチ。特等席。維持費がかかる。金。……男はバネ仕掛けのように勢いよくまぶたを開けた。そして延滞料に急かされるように、またたく間に身支度を終えるとホテルを出た。ベッドには、ほとんど消えてしまった女の体温と、まだこってりとした男の体温が残っている。彼ら二人はまた連絡を取り、会う約束をとりつけるのだろう。だが、決して自らのベンチを誰かに勧めることはしないのだろう。「ふう」と自分で腰をおろすか、いつか遠い過去のぬくもりをベンチの座面に探して、雪のように積もりゆく埃を必死に手で払い、ただ自分自身のために祈り、そして嘆くのだろう。「いつになればもう一度また、この空席は埋まるのですか?」理想の待ち人が必ず存在すると、信じ切った様子で。

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