短編小説No.10[渋谷を歩く]

この小説は葉山嘉樹「淫売婦」のトリビュート作品です。

 渋谷駅に降る薄い雨は、人間が燃焼する熱で降ったそばからほどけて、くさい煙になった。男や女が歩いているが、私と同じ目的で歩く者は一人もいないように思えた。それらは有機体という点で、プラスチックやセルロースと同じものに過ぎなかった。
 私は小説家になろうとしていた。だからひとりぼっちで都合が良かった。
 駅前の広告には、平均的な顔や体格ばかりが映し出されていた。たまに特徴的な顔が私たちに流し目を送るが、常に集合写真のなかの一人に過ぎずそして広告のテーマは「多様性」だった。すべての広告が保守的であるといえた。こう言い換えることもできるだろう、すべての消費活動は保守運動である。
 現状維持を至上目的としている。
 旅行かばんのパッキングのように、小さな人間たちが駅前の茫漠とした隙間へ気持ちよく詰めこまれてゆくのを見るたび、都市は人間に合わせたつくりをしていないと私は感じた。都市は、大衆という一つの溶解物、肉の流動体のために存在する配水管だ。このような小市民の分子結合は、個々人の尊厳の廃棄が反応開始点となる。私は「マルテの手記」の一節を思い出す。場所はパリだ。街中で驚かされた女が埋めた両手から顔を上げたとたん、(余りに慌てたために)その顔を両手の平のなかに置き忘れてそのまま、顔を失ってしまうあの恐ろしい場面。あのとき、マルテは鋳型のようにへこんだ、置き忘れられた顔を見たのだっただろうか。
 私は道玄坂方面ではなく、センター街へ向かって、自らの体を人波に溶かし込んでゆく。アーチの横には大盛堂書店がある。どんな出版不況でもこの本屋だけは潰れないだろう。アーチをくぐると生乾きの匂いがより強く意識させられめまいがした。あるいはマスクの内側で自分の口臭を嗅いでいるのではないかとの不安もよぎった。不審がられない程度にこっそりマスクをずらすと、さらに濃い匂い、心臓の熱によって蒸発した人間たちの汗が鼻孔を刺すのだった。すぐにマスクをつけ直した。
 薬局、カラオケ、タピオカ。外付けのアルミでできたような階段の3階で、黒子の格好をした男がもたれかかって人間河川を見下ろしていた。マスクを付けていないところから、ビルの中から一時的に出てきたのだろう。たたずまいからは、失望も希望も見いだせない。情緒を感じさせないその存在は、通り過ぎてきたセンター街のアーチや、あるいは同じように通り過ぎてきた駅前の犬の像と同じように、ただそこにあるだけの物体にすぎなかった。
 飲食店の看板が増える。夜は時短要請の時間帯の不便さや、周囲の視線があってためらうが、ランチタイムなら、と考える人間たちが人間河川の主流から離れ入店していく。交差点によって流れがまた分かれた。一方の突き当たりに「Bershka」が見える。この建物はこんなに印象的なのに、いつの間にか気づいたらそこに建っていた。反対側には「LABI」がある。どちらも、夜の派手さに比して、昼間は黙りこくって、地味にたたずんでいるのだった。このまま「Bunkamura」を通り過ぎて代々木公園へと流れていこうと考えていたが、髪の毛先に水滴がたまろうとしているのに気づき、私はようやく雨脚が強まっていることを知った。
 急遽道を折れ、タワーレコードに入った。ブラウスはもう水を吸い込む余地のないほど濡れそぼっていて「Bershka」で新しく服を買うことを検討してもよかった。雨は予兆なく、その態度を変えたらしかった。怒りや悲しみをコントロールできない人間のように。私と同じようなびしょ濡れが大勢いた。ハンカチで拭う人や、濡れそぼった服のまだ乾いている部分の布で、健気に肌の雨を吸い取る人、立ったままうつむき、ぽとぽとと床に落ちる水滴を目で追う人もいた。
 雨音が激しさを増すのを聴きながら、私は国木田独歩の住居跡がこの付近にあったことを思いだした。だが、どこにあったのか、正確な場所は忘れてしまった。店内の宣伝用の小型ディスプレイの中で、アイドルか歌手か、あるいはその両方を兼ねる「多才な」人間が、自分の作品を宣伝していた。私はあまりにも黄色すぎる空間で、国木田独歩について考え続けた。
 だが、その思考は奇妙な違和感に阻害された。
 私は外へ意識を向け直し、違和感の原因はすぐに把握された。店内には雨のためにマスクを濡らした人が大勢いた。彼ら彼女らは、水っぽい呼吸を嫌って、マスクを外していた。それまで眼球と鼻梁のみに集約され、抑圧されていた顔の表情がむきだしになったばかりでなく、それら凶暴な表情は、店内をうろうろ自由に移動していた。私もまた、息苦しさのためマスクを外し、自らの表情を外気に晒した。単一な表情は一つもなかった。表情は精神的不安と肉体的開放感を、刻一刻と変化し決して固まるこのない柔軟な筋肉の動きによって、複雑に表現し続けていた。無意識的であると同時に、自覚的に。
 ひとしきり降り終わると、雨はまた気弱になった。私を含めた小市民たちは、また外に繰り出してゆき、人間河川は決して枯れることがないように思える。なかには短時間のうちに見繕ったCDを買ってゆく、そんな勇姿も見られた。

 

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