見出し画像

【ルーツ宮城】母方祖母の実家ルーツ探し②閖上港の鎮守神さま

富主姫神社、閖上(ゆりあげ)湊神社のある日和山

閖上地区にある、日和山

日和山の上には、
富主姫神社と、閖上湊神社が
鎮座しています。

富主姫神社  

ご祭神 市杵島姫命

江戸時代、塩場より製造した塩を
幕府に献上するため、
船で江戸へ運搬する途中、
房州(千葉県南部)沖で遭難したとき、
船頭たちが竹生島弁財天に
祈願したことにより
無事帰還できたという御利益に感謝し、
竹生島弁財天を
伊藤家(製塩業)に勧請し、
塩場近くの沼に弁天島を作り
氏神様として祀られたのが
始まりとされております。

その後も豊漁守護の御利益が数々あり、
町中より参詣者が絶えないことから
富主島(宮下橋付近)に御鎮座致しました。
伊達藩の貞山運河開堀などを機に一時、
冨主旅館へ御遷座致したのち、
明治41年に
湊神社へ合祀されましたが、
日和山の築山とともに
その山頂へ御遷座致しました。

閖上湊神社

ご祭神 
健御賀豆智命 
(たけみかずちのみこと、
武甕槌大神、鹿島神宮)

伊波比主命 
(いわいぬしのみこと、
経津主神 、香取神宮)

天之児屋命、

比売神(神社の主祭神の妻や娘、
あるいは関係の深い女神を指すもの)

閖上湊神社は、
蝦夷討伐当時(8世紀、奈良時代)に、
大和朝廷では蝦夷各地の重要な川口に
水門(みなと・港)と称し、
その鎮守のために
不動明王などの五大明王を祀る風習が
ありました。
当時の「ゆりあげ浜」にも明神堂付近、
現在の名取川になっている地点に
「ゆりあげ五大明王神堂」として
祀られていたのが
湊神社の起源とされています。
後に、伊達政宗が行った河川改修により
移動を余儀なくされ、
現在のあんどん松の下、
明神堂地内に移されました。

御本尊は不動明王、降三世明王、
軍荼利明王、大威徳明王、
鳥栖渋摩明王(金剛夜叉明王)
を祀り、水上貿易の守護

とされていました。
その後、
室町時代の応永年間
(1394~1427)に、
上記五体の明王に加えて、
春日大社の御祭神を勧請し
「ゆりあげ水門神社」、
通称お明神様と呼ばれ親しまれてきました。
明暦3年(1657)神託により、
今回の東日本大震災で
流失した場所へ遷座し、
明治2年(1769)神仏分離令により
現在の「湊神社」となりました。
平成30年5月、
伊勢の神宮より賜りました鳥居を
閖上復興のシンボルとの願いを込め、
建立されました。

と、いうことは

閖上港は、
奈良時代に水門と称していたし、
室町時代に大和(奈良県)との
行き来があったと考えても
おかしくはない

港であったということです。

奈良の春日大社のご祭神が、
そっくり、
閖上湊神社のご祭神になっています。

神山である御蓋山
ミカサヤマ(三笠山)の麓に、
奈良時代の神護景雲2年(768)、
称徳天皇の勅命により
武甕槌命様、経津主命様、天児屋根命様、
比売神様の御本殿が造営されました。
現在、国家・国民の平和と
繁栄を祈る祭が
年間2200回以上斎行されています。

と、あります。

奈良時代といえば、平城京

ウィキペディアの下の
「その他」に記載がありますが、

 

近年の説としては
平城京の外港であった難波津における、
土砂の堆積と三国川(現在の神崎川)の
工事による淀川との接続が、
首都の所在地を
大和国(飛鳥京・藤原京・平城京)から
山城国(長岡京・平安京)に変えた
とする説がある。
古代の日本の東西間の交通は
西国より水路で難波津に上陸し、
奈良盆地を横断して鈴鹿関を通って
伊勢湾を横断して東国に向かう経路が
採用されており、
大和国はその中継地点であった。
ところが、8世紀に入ると、
土砂の堆積で難波に船を着けることが
困難になったことで
西国との交通に支障が生じ、
東国との交通においても
馬の同伴が困難な伊勢湾横断が敬遠され、
尾張国から美濃国の不破関を目指す
不正規な迂回ルートが
用いられるようになっていった。
こうした中で
難波津-大和国-鈴鹿関(東海道)
ルートの優位性が失われ、
代わりに
淀川-山城国-不破関(東山道)
ルートが採用されるようになると、
首都もそのルートの
中継地点である山城国に移った
とするものである。
これは三国川の工事に合わせるかのように
長岡京への遷都と
平城京・難波宮の廃止が
行われていることから指摘されている。

と、あります。

しかも、この平城京を造成するにあたり、

平城京遷都に際しては
田上山(たなかみやま、現在の大津市)の
ヒノキを大量に伐採して用いた。
このため田上山ははげ山となり、
江戸時代から現在に至るまで
緑化が続けられているが
いまだ植生は回復していない。

と、あります。


日和山から見た、太平洋側、閖上港

東日本大震災 大津波慰霊塔と、閖上市場

海岸部に、
住宅建築許可は、法律的に下りません。
牡鹿半島方面。

日和山の松

大津波は、この日和山よりも高く、
何人かの人々が、
この松にすがりつきましたが、
耐えることができず、
生き残った人は、
たった1人であったという。

遠くに、蔵王連峰と、阿武隈山地

土地をかさ上げして、
閖上地区復興住宅と団地、
東禅寺、持法院、閖上湊神社があります。
この日和山との間には、
日本一の運河、貞山運河が流れています。

日和山の下には、名取市震災メモリアル公園

昭和8年3月3日の大津波の碑です。

程近く、閖上市場。
土日には早朝から賑わいます。

貞山運河沿いに、
サイクリングロードがあります。

https://www.natori-cycle.com/


閖上港 そばに名取川が流れていて、
汽水域となっています。
赤貝は日本一。
特産は、しじみ、あさり、天然ヒラメ、
天然カレイ、シャコ海老など、
水産漁獲は豊富です。
かまぼこ工場、しらすも有名です。

仙台新港、松島方面

岩沼市、天気が良ければ、
福島県相馬市の工場地帯も見えます。

天気が良ければ、
牡鹿半島の島や突端も見えます

閖上の浜は、
浜の植物の群生も見られます。
大津波のあと、絶えてしまったのでは、
と思われましたが、生き残りました。

ハマヒルガオ。

ハマボウフウ。
食用としては、新芽が、
酢味噌和え(ほんの軽く茹でるのみ)、
天麩羅、生食、主に刺身のつま等に
利用されてきた。

ハマボウフウの根は、
漢方では「北沙参」と呼ばれ、
去痰、解熱、鎮咳薬などとして利用される。 
日本では、生薬の一種、
防風の代用品として利用される。
効能は防風と同じか、
それより劣るとされている。
ハマボウフウの根や根茎などには
クマリン配糖体が含まれ、
発汗、解熱、鎮痛などに用いられる。
また、民間療法では婦人病の薬と
されるうえ、
最近では糖尿病に効能を示すとも
いわれている。
しかし、糖尿病については
俗説の域をでておらず、
効能があるかは定かでない。

(ウィキペディアより)

ハマエンドウ。
食用不可。毒性。

コウボウムギ。
名前の弘法麦の由来は、
かつて茎の基部の分解した
葉鞘の繊維が筆を作るのに
使われた事から、
筆ならば弘法大師(空海)様だ、と
いうようなことであるらしいです。

奈良時代から、
近畿、東海、関西との行き来があった、
閖上港。

五十猛神さまは、
朝鮮の新羅から、島根に行き、
和歌山で定住したという。

母方祖母の実家、「山司」が、

この名取市の発祥、ならば、
祖先は、もしかすると、
和歌山から流入して、
この地に定住したものとも、考えられる。

なぜ、和歌山、なのか。

「山司」は、全国的に見ても、
140人ほどしか名乗っていない。
宮城県が多く、
次に多いのが、
和歌山県紀の川市、だからだ。
ここで定住した者が、何人か、
和歌山に帰り、
その子々孫々を増やしたものとも、
考えられる。

コロナ禍がなければ、
昨年、わたしは、和歌山県に数日、
調査に行く予定でした。
残念です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?