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時を経て、クマをつくる

もう40年近く前、私が高校生だった時のこと。ある日、学校から帰った私に母が言った。

「あんな、ゴミ捨て場に大きなクマのぬいぐるみが捨ててあんねん。かわいそうやし、分解して型紙取って、作り直したらどうやろって思うねんけど。あんた、拾ってきてくれへん?」

当時、私たち家族はアメリカに住んでいた。アメリカ暮らしも10年目。パッチワークやキルトを習っていた母は、アメリカンカントリーが大好きで、捨ててあるクマをリメイクし、パッチワークで大きなテディベアを作ろうと思いついたようだ。母から手芸好きを受け継いだ私は、その頃、米山京子さんの人形づくりに凝っていて、部活や勉強の合間に人形を作っては友達にプレゼントしていた。「でかいクマづくり」は、想像しただけでワクワクした。

母に言われたゴミ捨て場に行くと、今ならば、コストコに売っているようなと言えばよいのだろう。ショッキングピンクの大きなクマのぬいぐるみが無造作に捨ててあった。「アメリカらしいなクマやな」と苦笑いしながら拾い上げ、両腕に抱き抱えて急足で帰ったことを、今でもよく覚えている。

母と2人、縫い目をていねいにほどき、綿を取り出し、頭、胴、腕、足、耳…と各パーツを大きな紙に当てて輪郭を写し取った。次に、それぞれのパーツを直線で分け、型紙をつくった。そして、母が持っていた、たくさんの木綿の布から茶色系のものを選んで裁断し、手分けをしてパッチワークをした。出来上がったパーツを縫い合わせ、綿を詰めて組み立てるのは私の仕事となった。フェルトの目をつけると、ちょっととぼけた感じの、まるまるとしてかわいらしいクマが出来上がった。

高校を卒業すると同時に父の転勤が決まり、私たちは大阪へ戻った。私は、その秋には進学のため東京で一人暮らしを始め、それきり実家に戻ることはなかった。だから、母と私が一緒に作品を作ったのは、後にも先にもあの時だけとなった。あの時つくったクマは実家に置いてあったのだが、後に同じ型紙を使い、私は私用にピンク系のクマをつくった。

学生時代、誕生日をクマと祝う。

その後、私は結婚し、農業を始めた。朝から晩まで農作業に追われ、針仕事からはすっかり遠ざかってしまった。ピンク系のパッチワークのクマは、益子で農業研修を始めた頃は持っていたのは確かなのだけれど、明野の小さな家に引っ越す時に、処分してしまったのか誰かにあげたのか、いつの間にかなくなっていた。

30年前、息子が生まれる半年ほど前、実家の隣に住んでいた父方の祖父が亡くなった。1人になった祖母のために、母は茶色のほわほわのクマを作った。確認したことはないが、あの時の型紙から作ったのだと思う。眠そうな顔をしたクマは、応接間の祖父が愛用していたソファに置かれ、クラシック音楽を聴きながらこっくりこっくり居眠りをしていた祖父の姿を思い出させた。私は、帰省の時には祖母の家の応接間で紅茶を飲み、クマをなでながら祖母とおしゃべりした。

12年後、祖母が亡くなると、形見として私がクマをもらった。

千葉県成田市の我が家の玄関に置かれていた、祖母の形見のクマ。当時は塾のかたわら玄関で小さな駄菓子屋を開いていたが、クマに声をかけたり遊んだりする子どもはいなかった。犬や猫がたくさんいたからかもしれない。

11年前、両親は大阪の実家を売り払い、西宮のマンションに引っ越した。母はパッチワークに刺繍と針仕事を続けていたが、指の関節の曲がりが酷くなり、針を持つことが厳しくなっていた。母の最後のパッチワーク作品は、六角形のパーツを組み合わせてつくったクマだった。

母の最後のパッチワーク作品となったクマ。大きな目と鼻が愛らしい。西宮のマンションの母の部屋に、叔母が作った日本人形や、私が小学生時代に作ったフェルト人形と並べて飾られていた。

この後、最後の刺繍の作品を完成させ、針を置いた母は、裁縫道具にたくさんの刺繍糸、ミシン糸、端切れ、キルト芯、綿、クマ用の目玉ビーズなどを段ボール箱に詰めて、私のところに送ってきた。しかし、私は相変わらず忙しく、「いつか」「いつか」と思いながらも、それらを手に取ることがなかった。

晩年の母は肺の病気に加え、帯状疱疹後神経痛にも苦しんだ。ただでさえ気難しい父は、コロナ禍で外出ができず、朝から晩まで家でウィスキーを飲む生活になり、歩くこともままならなくなった。もう限界と、母からのSOSを受けて、姉と2人、西宮に向かったのは一昨年の夏だった。両親そろってマンションの近くの施設に入所させることができてホッとしたのも束の間、翌年の1月に父、4月に母が、相次いで亡くなった。

母が亡くなるまでの数週間、姉と2人、両親のマンションに泊まり込んだ。施設の母の部屋への出入りも許可され、長い時間を母と共に過ごすことができた。思い出話をしながら、「あの時のクマ」以来、母と針仕事を共にすることがなかったことを悔やんだ。遅すぎる。間に合わなかった。せめて今、と、私はうとうとと眠る母の横で小さな布に小さな刺繍をし、「どう?」と母に見せてみたりした。「きれいにできたやん。小さな額に入れて飾るとええなあ」と母は言ってくれた。

母が亡くなり、今度は六角形をパッチワークしたクマを、形見として、私がもらった。

母の最後の作品たちを、葬儀の会場に飾った。

母の死は、私に、自分の残りの人生の生き方を考え直させた。当時は大学院に在学し、博論を書くことを目指しながら、小学校でアルバイトをしていた。しかし、「論文を書こうとすることに、これ以上時間を使いたくない」と退学を決断。7年間に及ぶ千葉と東京の二重生活にもピリオドを打った。そして、四半世紀ぶりにつくばに戻り、もう一度、自分の塾を開くことにした。

5月に開塾して間もなく、2年生の女の子、Sちゃんが午前中の時間帯に通ってくるようになった。2年生になってから学校に行かなくなったと言う。動物が大好きなSちゃんは、塾部屋のソファに座るクマを一目見て気に入り、抱っこしたり、いろんなポーズを取らせたりして遊んだ。名前をつけたいねと、2人で相談して「ころちゃん」という名前をつけた。国語の時間は、ころちゃんも一緒にソファに座り、「シロクマ・ピース」の本を読んだり、ころちゃんが主人公のお話「ころちゃんのたんじょうび」を一緒に作ったりした。

母が祖母のためにつくったクマは、30年の時を経て初めて名前をつけてもらった。

Sちゃんとの時間に5年生のMちゃんも加わり、午前中から午後にかけての時間は「フリースクールroots」になった。2人は、リビングにある棚の上に飾ってあった六角形のパッチワークのクマも塾部屋に連れてきて、ころちゃんと一緒にソファに座らせた。そして、「あずきちゃん」と名前をつけた。玄関の下駄箱の上に飾ってあった、母がつくった小さめのクマたちにも「花ちゃん」「チョコくん」「ココアちゃん」と名前をつけた。

母はアメリカの古い時代のものが好きだった
ころちゃん、あずきちゃん、花ちゃん、チョコくん、ココアちゃん。
クマたちは、みな、名前をつけてもらった。

名前をつけたことで、クマたちは、ただ飾られるだけの存在ではなく、手に取り、呼びかけ、一緒に遊ぶ存在となった。

お勉強したり
歌ったり踊ったり🎵
おつかれ〜〜〜

そして、ある日、SちゃんとMちゃんが言ったのだ。「私たちもクマをつくりたい」と。

その昔、母が送ってくれた手芸グッズを探ると、クマの型紙が見つかった。

「いつかまた」の時のために母が入れておいてくれたのであろう、クマの型紙

型紙を、私を含め3人分コピーして切り抜き、古着古布の中からクマに合いそうなものをそれぞれ選んで、制作に取り掛かった。

型紙を当てて、色鉛筆で形をかいていく。2枚組は対称になるように。
柔らかく、伸びる生地はたいへん。これは、義父のスボン。
本返し縫いを練習していざ本番!さっそく縫い始める。
柔らかい布は縫うのは楽!と発見したMちゃん。
花ちゃんをさわり、綿の詰め具合を確認する。Sちゃんは本返し縫いがとても上手になった。
遊びに来たお姉ちゃんも一緒にちくちく。
NHKオンデマンドでピラミッドの番組を見ながらちくちく。

一ヶ月間、午後の自由活動の時間に、私たちはこつこつとクマを縫い進めた。子どもたちは飽きることなく、完成を楽しみに、「まるでクマ工場だね」と言いながら地味な作業を続けた。各パーツを縫い、ひっくり返して綿を詰めてとじ、頭に耳をつけ、頭と体を縫い合わせ、腕と足をボタンでつけ、目と鼻をつけて…

ついに完成!!

左が私、右がMちゃんのクマ。同じ型紙で作ったのに出来上がりは全然ちがう。
寒そうなのでマフラーを指編みで編んだ。Mちゃんが言うには、私のは「クマ界で成功してそうなクマ」、自分のは「ずっと独身でいそうなクマ」
Sちゃんのも完成!!こちらは「山の木の実がなくなってやせてしまったヒグマ」
現実にはクマ受難の時代になってしまった。

私のは「ミント」、Mちゃんのは「マロン」、Sちゃんのは「アース」と名前もつけた。完成を記念して、集合写真をパチリ。

めんだこやきなこちゃんもお祝いにかけつけた。

自分の手でひと針ひと針縫っただけあって、完成した時の喜びも大きく、MちゃんとSちゃんはマロンやアースと一緒に、ルーツに通ってくるようになった。今二人は、クマに着せるための洋服を縫っている。Mちゃんはポンチョ、Sちゃんは花柄のワンピース。「ポンチョ難しい!時間がかかりそう」と嘆くMちゃんに、Sちゃんが言う。「時間がかかるからうれしいんだよ。アースが完成した時、私、本当にうれしかったもん」と。

そして、三十数年という時を経て、ようやく針を持ち、クマを作ることができた私。きっかけをくれて、一緒につくってくれたMちゃん、Sちゃんに感謝。

母にもクマを見せて、「つくったよ」と報告。

姉は、クマの顔が母に似ていると言う。確かにそうかも!

「えらい時間がかかったなあ」と、母が笑っているような気がして、「ほんまやなあ。なんでこんなに時間がかかったんやろなあ」と返した。



                          by Yoko K.


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