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アーモンド・スウィート

 水元英利は学校での一日が終わり、家へ帰らないといけない分かっているけども、家に帰るのが嫌だった。いや、嫌ではないが気が重かった。三年ぶりに父が帰ってきているはずだから。父のことは離れて暮らしてる分には嫌いではない。特に好きでもないけども、スマホのビデオ通話で話すくらいが丁度良いと感じている。憎からず、愛想よく父と話せる。
 英利が早い思春期ということもあるかもしれないが、やはりわだかまっているのは信楽で父の世話をしている親子の存在だ。勝手に、父には家庭が二つあるようだと感じている。父は笑って認めないだろう。信楽の未亡人親子は他人だとか、お父さんを早くに亡くて可哀想な人達だというかもしれない。愛しているのは神田で実家を守ってくれている妻と英利と真面目な顔で言うかも知れない。でも…、英利には父に愛されているという実感がない。抱きしめられて暖められたという記憶がない。英利が物心ついたときには、父は日本中の焼き物の産地に勉強に出かけていて、家には不在だった。ハイハイから立ち上がった時も、母が母の実家の焼き鳥屋で修行するのに保育園に預けられていた時も、母が戻ってきて祖父と祖母(父の両親)と焼き鳥屋を始めたので幼稚園に預けられたときも、小学校の入学式の日にも、父兄と参加の遠足の時も一緒に来てくれたのは祖父で、父ではなかった。いつの時も父は家に居なかった。

 決心がつかず玄関の前で立ち止まり、いつもように「ただいまー」と引き戸を開けて家の中に入れないでいた。表の店では、母と祖母と祖父がまだ焼き鳥の仕込みをしているだろう。一口大の大きさに切り分けるのは終わっていて、串打ちかつくねを太い櫛に付けているかもしれない。うちのつくねは日本一美味しいと思う。いつも売れ残ったりしないけども、多めに支度して運良くあるときがあって、偶然にも残っていると店が終わったあと母が焼いて持ってきてくれる。夜中の零時過ぎの半分夢の中の時間だけれど、眠い目をこすりながらつくねを食べる。半分夢の中でも口の中に広がる鳥の脂の旨味はジワーッとたまらない。どんな楽しい夢を途中まで見ていても、あのジワーッと広がる旨味にはかなわないと思う。
 父は居間で一人、テレビを見ながらビールでも飲んで、ゴロゴロしながら英利が学校から帰って来るのを待っているのだろうか。それとも、近所の幼馴染みの家に久々に神田に帰ってきたと挨拶に回っていて今は居ないのだろうか。いったん表に回って、本当に父が帰ってきているか確かめてから、戻ってきて家に入ろうか。
 英利は意を決して、引き戸に手をかけ引いた。
「ただいまー」シーンと静まりかえっている。当然、母や祖父、祖母の返事はない。いつもことだから慣れている。しかし父の返事もない。帰ってきて居るはずなのに、ない。やっぱり近所の幼馴染みのところへ、久しぶりの挨拶をしに行っているのかもしれない。そのまま玄関に靴を脱ぎ、三和土を上がり居間に向かった。それでも居間に入る前は緊張した。英利をビックリさせようなどと悪戯心を父が出し、どこかに隠れて居て居間に入った瞬間とか、後ろから出てきて「ワーッ」と驚かそうとするかも知れない考えたから。そんなお茶目な性格ではないと分かっている。三年ぶりだし、父と子の二人だけの時間だから、クラスの友達の父親はときどき子供ような悪戯を息子に仕掛けて喜ぶらしいと聞いているから、半分怖くてソワソワと半分期待してワクワクしながら居間に入った。
 父は居間にいた。枕をして、毛布を掛けて寝ていた。寝息は小さく、死んでいるんじゃないかと思うくらい静かに寝ていた。襟がすり切れた小豆色のポロシャツ、毛布から出た足、元はクリーム色だったろうカーゴパンツ、すぐにでも穴が開きそうなくるぶしまでのナイキの靴下。登山が趣味の人なら、この姿は山男と呼ぶんだろう。でも英利は食べ物を扱う焼く鳥屋の子供だから、ただただ汚い姿だと思う。
 あのー、と声を描けるべきか英利は悩んだ。きっと夕ご飯まで寝るつもりだから枕に頭をのせて、毛布を用意して寝ているんだろう。英利を最初から待ってはいなかった。夕飯時まで会わなくていいと思っている。なら途中で起こしたら可哀想だ。父を起こさず英利は二階の自分の部屋に向かった。ランドセルを下ろしても、一階の居間には下りてくるのはよそう。
 ランドセルを下ろしたら、誰かに電話して遊びに行こうかと思いながら階段を上がった。遊びに行ってしまえば、英利も父の帰りを楽しみに待っていなかったようになる。父が英利のことなどどうでも良いと思っていようと、英利が父の帰りを楽しみに待っている様子をみせないと子供らしくないし、母が一番傷つくだろう。すでに父と息子の間に隙間風があるようで。
 自分の部屋に入って、ランドセルを下ろし、自分の机のイスに座ってじっと夕飯まで待っているのが賢明かもしれない。無駄な時間。退屈な二時間だけど、それが一番家族を傷つけない英利のありかた。
 じっと待つだけでは退屈なので勉強をしようか、漫画を読もうか、区の図書館から借りた本を読もうか。クッションを部屋の真ん中に置き、頭を載せ、漫画から読むことに決めた。仰向けに寝て、近からず遠からずの距離に漫画を持って読むのが英利にスタイルだ。逆に小説は床に座りクッションを腰の後ろの当て、いい距離に置いて読む。漫画は寝転がって、小説は起きて座って読む。ゲームをするときはうつ伏せの姿になり、クッションを顎の下から胸の辺りに置く。ゲームは得意ではないので、しばらくも時間楽しめればいいのでうつ伏せでリラックスできる。ゲームは友達が飽きた物を借りる派で、自分で買うことはない。だからクラスの中でのゲームの話題は得意ではない。
 一冊の漫画すら今日は頭に入らない。絵もセリフも上滑りして、いま読んだ箇所のコマを次には忘れている。父のせいだ。期待させておいて、英利を裏切った。

「ごはんだよー」と下から母の声がする。
「はーい」ついに父との対面の時がきた。まさか夕飯時には起きているだろう。まさか、ちょっと一杯と外に出って行ったりしてないだろう。
 下におりて居間に入ると、父は風呂上がりのさっぱりした顔で、真新しい下着、上に綿入れを羽織った姿でちゃぶ台の前にあぐらをかいていた。
「おう! 起きたか」それはぼくのセリフだと思った。
「いや、寝てないよ。起きてた」
「お帰りが先でしょ。…ちょっと、久しぶりのお父さんだから照れてるの?」母がいつも以上に陽気に、英利をからかうことを言った。
「おかえり。お父さんこそ、ぼくが帰って来た時に寝てたね。疲れてるの。大丈夫?」
「そうか寝てたかぁ。…いまご飯前にお風呂に入ってさっぱりしたらから、大丈夫。盛り盛り食べて、英利の話を一晩中でも聞いて上げられるぞ」
 父も陽気に英利に答えた。なんだか無理しているようだ。
「いいよ。とくに話して聞かせるような面白い話しもないし。早く寝ていいよ」と英利はそっけなく言った。母も父も、父が帰ってきたことに無条件で喜んでいない息子の反応に傷ついたようで、二人とも暗い表情になった。
「お土産があるんだ。父さんの焼き物じゃないぞ。ちゃんとしたお土産だぞ。信楽にある山田○場の贅沢チーズケーキ、これ美味しいんだぞ。もう一つスイーツで、滋賀県といえばクラ○ハリ○のバームクーヘンだよな。甘い物二つだけど、今日チーズケーキ、明日バームクーヘンと食べれば良いよな」再び陽気な顔になり、父は母と英利の顔を交互に見て言った。
「おじいちゃんとおばあちゃんは?」祖父と祖母の姿がない。母と自分よりも、息子である父に会いたいと待っていたのを知っている。
「ちょっといま店が忙しいの。今日だからって閉店するのもアレだから。お父さんと英くんにご飯持ってくる間お母さんが抜けて来ただけなのよ。またすぐに店に戻らないと」父と英利の好物のつくねと、いつ作ったのか鳥の唐揚げと、ご飯と鳥出汁のお吸い物を置いて母は店に戻っていった。
 また、父と英利の二人だけが残った。母が忙しいからと店に行っても、何かオレに手伝えることある? と言って焼く鳥屋を手伝うわけでもない父と、ぼく何か手伝えることない? と言って母の後を追って店に逃げたいけれど、何も出来ないことを分かってる密かに悔しい英利。
 黙って向き合って、二人とも何もしゃべることもなく黙って食べる。
「学校どう?」くらい聞いてよさそうだけど思いながら、ときどき父をチラ見する。父はさっきは陽気に「はなし聞いてやるぞ」とか言っていたのに、父の方からは英利に問いかけることも、話しかけるつもりもないらしい。
よっぽど、信楽の子供たちはお父さんに何を話して聞かせてるの? お父さんはその時、今と違ってニコニコと話しを聞いてあげるの? と問いかけてみたかった。未亡人はお父さんの横に居て、やっぱりニコニコと笑って一緒に夕ご飯を食べてるの?
「明後日、遊園地にでも行くか?」先に食べ終わった父が、沈黙にたまりかねて、思いついたように言った。
「明後日も平日だから学校。それに母さんも焼き鳥屋だと思う」
「英くんと二人で行こうって…思ったんだ。そうだな、学校は大事だよな」
 父と二人で何所かに行くなんて初めてのことだ。想像すれば嬉しいが半分、母と三人じゃないんだと悲しいのが半分。
「明後日には帰るんでしょ?」
「いやぁ……、もう一日くらい東京に居てもいいと思ってる。なんなら一週間くらい居ても」
「あっち(信楽)は忙しくないの? 土こねたり、ろくろを回したり、乾燥させたり、窯の世話とか何か……」
「毎日器作りしている。でも忙しいと言うわけじゃない。決まったルーティンはあるけども、一週間東京に居たからって狂うようなものじゃない」
「あっちの家族が寂しがるんじゃない?」
 言ってしまってから、言葉に出してはいけないことを言ったとすぐに気付いた。父の顔が能面のように、白く固い表情に変わった。
「ごめん」消え入りそうな細い声で英利は謝った。
 固い表情のままの父は返事をしなかった。その代わり、初めてテレビを点けた。お笑い芸人たちのよる大喜利コーナーが映し出された。父は溜まらずテレビから目線を外した。
 英利も溜まらなくなって、食べ終わった器をそのままにして自分の部屋に向かった。居間から出て、階段を上がるとテレビは消されたようだった。

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