『軽井沢ジャーナル』 第一章 -1-

   第一章

「その別荘には書斎があるんだ」
 高月が久しぶりに電話してきたと思ったら、いきなり軽井沢で売りに出ている別荘の話を始めてそう言った。書斎! なんと魅力的な単語だろう。
「なんでそんなものが?」
「さあな。建主が物書きだったんじゃないのか? 軽井沢の閑静な環境で文豪でも気取りたかったのかもしれない」
 本当に文豪だったかもしれないではないか。いやそれはないか。文豪の家なら簡単に売りに出ているはずがない。
「で、その書斎のある別荘がどうしたんだよ」
「買うんだ」
「はい?」
「狭いアパート暮らしも飽き飽きしたし、こっちでマンションと言ったらリゾートマンションばかりだからな。だったら思い切って中古の別荘を手に入れてしまおうかと思ってさ」
「べ…別荘を買う?」
「むろん別荘として使うわけじゃないぞ。普通に自分の家として住むんだ。今話した家は冬にも使えるように作られているから定住にも向いている」
「すごいな」
 いや、僕だって今居るマンションは分譲タイプを購入したんだし、三十歳で家を買うのは特別珍しいことじゃない。だけど軽井沢で一戸建てとなるとちょっと驚いてしまう。
「だが、やはりひとりで住むには広いんだ。だからと言ってコンパクトな建物で冬も暮らせる物件は殆どないし、だったらルームメイトを募ってみようかと思ってな」
「ルームメイト」
「なに素っ頓狂な声出してるんだよ。おまえのことだよ」
 えーと、それはつまり僕に軽井沢に引っ越せと言っているのだろうか。そう聞こえるのだが。
「そういうわけだから、一度見に来ないか? 電話でごちゃごちゃ話してたって始まらないだろう。どうせ暇なんだろ?」
 失礼な。暇なんかじゃ…いや、暇だった。過去十一年間でこんなに暇だったことがあっただろうか。あるはずがない。これでも曲がりなりにも売れっ子漫画家だったのだ。
 だった、と過去形を使ったのには理由がある。今僕は「休養中」。雑誌の巻末にひっそりと載る「作者急病のため、掲載はお休みさせていただきます」のアレではない。本当にしばらく休みを貰うことにしたのだ。

 大学在学中の十九歳で少年クリーチャー新人漫画賞を受賞し、晴れて漫画家として歩み出した僕を待っていたのは借金地獄だった。父が事業の手を広げ、それを軌道に乗せられないまま急逝してしまったのだ。莫大な負債はそのまま連帯保証人になっていた母が負うことになった。漫画家になれたのは滑り込みセーフだったのだ。
 当初の僕の計画では、学生でいられる残り三年間で漫画家としての基板を作り、ものになりそうもなければ就職、何とかやっていけそうなら専業漫画家へ、というものだったが、そんな呑気なことは言っていられなくなってしまった。二歳下の妹もいるのでその学費の問題もある。そういうわけで大学は直ちに辞め、いきなり僕の『漫画家・中道七生』としてのぶっつけ本番の人生がスタートしたのである。

 幸いなことに仕事は途切れず、駆け出しの漫画家の原稿料でも、就職して給料から細々と借金を返して行くよりは効率が良かった。母も働いてはいたが、僕の収入が徐々に上がるにつれ、母には家事に専念してもらって僕がひたすら漫画を描くほうが能率的だとわかった。アシスタントも使うようになったし、若い男ばかり五人も六人もの食事を三食作るとなるとそれなりの重労働だったのだ。
 最初に貰った連載がそこそこヒットしてコミックスが順調に四冊出て終了し、次のミステリーものの連載は僕の代表作と言われるものになった。何たってつい数か月前まで九年も続いていたのだから。
 だが、仕事の忙しさと収入が昇りカーブを描くのと反比例するように、母の身体と僕の心の健康は坂を転げ落ちるように悪くなっていった。母は腎臓を患い、僕の精神も少しづつ擦り切れてしまったのだ。

 仕事のストレスとひと口に言っても様々なものがある。単純に次の作品の構想がうまく思いつかないストレス、これはいけると思って描いたものの反応が期待したよりも悪かったときのストレス。スタッフには恵まれていたが、それでも僕が頭から絞り出すようにストーリーを考えてネームを作っているとき、仕事明けにみんなで(もちろん僕以外のみんな、だ)行く旅行の計画を立てる楽しそうな声を聞くのは辛かった。わかってる。誰も悪くない。ただ、僕があらゆることに行き詰まっていただけなのだろう。

 そんなとき、僕より先に母の限界が来た。倒れて病院で検査を受けた時にはすでに手の施しようがなく、入院三か月で帰らぬ人となってしまった。父の遺した莫大な借金も母が倒れる数年前には返済し終わっていたのがせめてもの親孝行だったろう。
 美大を卒業してデザイン会社に勤めていた妹、美緒には四年前に仕事先の印刷会社にいた人との出会いがあり、一昨年結婚して関西に越していってしまった。娘を嫁に出し、もう借金もなくなった、という状態が母の張り詰めていたものを溶かし、気が抜けてしまったから早く逝ってしまったのかもしれないが。
 そしてそれは僕自身も同様だった。借金の完済、母の死に重ねて長く続いた連載の一段落。次の仕事どころか、朝起きて何に着替えたらいいのかすらわからないような日が続き、まだ四月だというのにエアコンをかけっぱなしの部屋で曜日の感覚も失いかけたころ、高月からかかってきた電話が書斎のある家の話だった。
「とにかく来いよ。明日の10時32分東京発の北陸新幹線に乗れ。そうすれば昼前に軽井沢に着くから一緒に飯を食おう。駅までは迎えに行ってやる。わかったな?」
「わかった」
 何がわかったのか自分でもよくわからないが、取りあえずそう答えるしかないではないか。

    *

 高月について少し話しておこう。ヤツとは高校一年の時からの付き合いになる。漫画ばかり描いていた中学時代のラスト三か月だけ原稿用紙もペンもダンボール箱に詰め、都内の進学校になんとか潜り込んでホッとしていたときだった。高校ではそこそこの成績をキープしながら漫画が描ければいいと思っていた僕だったが、同じクラスになった高月の姿を見て気が変わった。彼はいわゆる優等生ではなかったが、実に要領よくレポートをこなし、休み時間に宿題を片付けて予習までしていたのだ。
 こいつは何者だろうと気になり始めると、つい目が高月を追ってしまう。そうしているうちに、彼の頭身が絵描きにとって理想的なバランスであることに気がついた。頭が小さくて胴が短く手足が長い。そのまま漫画の登場人物として絵にしてしまってもいいくらいだ。僕も身長は百七十五センチあって、決して小さいほうではないのだが、高月は百八十二、三センチはありそうだ。
 体だけじゃなくて高月は顔もけっこう良かった。ときどき女子がヒソヒソ声で「薫ちゃん、けっこうイケてるよね」「だけどあいつ、少し底意地悪くない?」「そこがいいんじゃーん」なんて話しているのも聞こえてきた。ちょっと憂いを含んだ眼差しとでも言うのか、柔らかそうな前髪をときどき鬱陶しそうに掻き上げる姿が母性本能をくすぐるらしい。髪が目にかかって邪魔なら切ればいいのに。
 僕が見ているのに気付いた高月は、
「なんだよ。俺の顔に何か付いてるか?」
 と聞いてきた。そんなお定まりの切り返しをするヤツって本当にいるんだ、と少し可笑しくなった。
「いや、いい体つきだなと思って」
「気味悪いな」
「僕、漫画描いてるんだよ。高月…だっけ? 君の体のバランスがすごくいいなって。今度デッサンさせてもらってもいいか?」
「ああ、いつも休み時間に何か描いてるなと思ってたけど漫画だったのか。プロの漫画家目指してるのか?」
「うん」
「即答だな。それだけ本気ってことか。いいな」
 そうして僕らは友達になった。つるんでどこかに遊びに行くことはあまり多くはなかったが、僕が自宅でひたすら漫画を描いていると、ふらりとやってきては部屋に積んである少年誌や自分で持って来た本を読みふけっていることがよくあった。
 あるときはふたりで部屋に籠もってあまりにも長い時間物音ひとつしないので、美緒が心配して覗きに来たことがあったほどだ。僕は投稿用の原稿の応募締切前で、高月はシリーズ物のミステリーを六冊も続けて読んでいただけだったのだが。
 ときにはうちでそのまま母の作った夕食を食べ、美緒の宿題を手伝ってやったりテレビを見ていくこともあった。高月は早く両親を亡くし、叔母さん夫婦に引き取られて暮らしていたのだが、兄妹のいる普通の家庭であるうちの居心地が良かったのだろう。叔母さん夫婦は優しい人で、高月が辛い思いをすることはなかったそうだが、それでも彼にはどことなく孤独の影がつきまとっていた。

 あるとき、僕が漫画を描いているのと同じくらいの時間本を読んでいたはずの高月が定期試験でいい結果を出したことに驚き、彼の要領の良さについて
「高月は時間の使い方が上手いんだな」
 と、褒めたことがある。だが彼は謙遜するでもなく、
「そうか? 俺から見ると好きなことに集中しているナナが羨ましいけどな」
 などと言う。いつの間にか高月は僕のことをときどきナナと呼ぶようになっていた。
「やりたいこと、ないのか?」
「あるけどおまえみたいな創作活動じゃない」
「例えば?」
「なんだろう。物事の見えているところじゃなくて、その裏側にうごめいているのが何なのかが知りたいというか…」
「石めくりかよ」
「そうかもな」高月が吹き出す。
 このとき、『石めくり』などと茶化してしまったのは失敗だったかもしれない。彼が本当は何を求めているのかを知る機会は、その後長い間訪れなかったのだから。
 ともかく彼に影響されて僕は勉強も手を抜かずに取り組むことができた。おかげで漫画を描きながらも、めでたく高月と同じ大学に合格できたのである。

 高月が本当にやりたいと思っていたことが何なのかはなかなかわからなかったが、物事の裏側を見るのが好きだということは徐々に知ることができた。時計を見たらどういう仕組みで動いているのか分解してみずにはいられない子どものように、何か起きたらその理由や原因を探る。それは時折執念を感じるほどだった。
 そんなところも僕と気が合ったのだろう。僕がこだわって描き続けていたミステリーというジャンルは、ひとことで言えば「収束の文学」である。
 例えばSFのように、想像を膨らませて世界を創っていく物語は「拡散の文学」だと言える。最初に何かアイディアを思いついたら、そこから派生する設定や、そのアイディアが展開していく課程を作り込むことで話を進めていく形だ。
 だがミステリーはそうではない。多少の例外はあるにせよ、まず事件が提示されたら、それが起きた動機や方法を掘り下げていくのが一般的な手法で、最終的には発端となる出来事を見つけ出すことが解決となる。だから高月が物事の裏側を知りたいと思う気持ちにはとても共感できたのだ。

 高校時代、高月は新聞部に所属し、大学では社会人文学を専攻していた。僕は大学は途中でドロップアウトしたが、彼はきちんと卒業して希望通りに新聞社に就職し、順調に記者としてのキャリアを積んでいたのだ。
 しかし、彼の目標はそこではなかった。四年勤めて取材のノウハウを少し覚えたところで惜しげもなく退社し、なんと軽井沢に移住して地元の情報紙を出している小さい会社に転職してしまったのだ。
 情報紙と言っても店舗などに無料で置かれている広告収入がメインのもので、載っているのは新規開店の店の案内や地元で開かれた会合やイベントの報告。その出版社では年に一度、軽井沢のガイドブックのようなムックを出したりインターネット上に観光ガイド的なページも持っているが、およそジャーナリズムとは程遠い。だが、皮肉にもその情報紙は『軽井沢ジャーナル』という紙名だという。それで本当にいいのかずいぶん問い詰めたものだが、高月は薄っすら笑って言うのだった。

「いいんだ。このために俺は今まで頑張ってきたんだから」

    *

 平日とは言え、午前10時の東京駅は賑わいを見せていた。大きなキャリーバッグを引っ張ったサラリーマン。若い母親がはしゃぎまわる子どもに手を焼きながら券売機の前で四苦八苦しているのも微笑ましい。
 僕も券売機にクレジットカードを差し込み、一昨年、長野新幹線から北陸新幹線〈長野経由〉と名前を変えた路線の切符を購入した。最近では電車でもバスでも携帯電話をかざすだけで済んでいるので、堅い厚紙で出来た切符の角が手に懐かしく感じる。
 高月に教えられた新幹線はすでにホームに入っていて車内清掃も終わったところだった。
 軽井沢までは一時間少々の短い旅だ。新幹線の車両は新しく、自由席でもゆったり座れて快適である。東京駅を発車してしばらくすると車内販売のワゴンがやってきたのでホットコーヒーを買った。別に喉が渇いていたわけではないのだが、車内販売で飲み物を買うという行為そのものが旅気分で楽しかったのだ。
 高層ビルの並ぶ都心の町並みを抜け、埼玉を過ぎて群馬県に入ると少しずつ標高が上がっていくのがわかる。やがて奇岩が姿を現したと思うと、トンネルが多くなって景色も楽しめず、携帯の電波も途切れがちになってしまった。
 同時に耳がツンとして車内に子どもの泣き声が響く。小さい子は自分で耳抜きができないので違和感に驚いて泣くのだろう。飴玉か飲み物でも与えてやればいいのにな、とお節介なことを思いながらぼんやりしていたら、もう軽井沢に到着してしまった。

 寒い! ゴールデンウィーク目前の東京ではちょっと外を歩くと汗ばむくらいだったのに、ホームに降り立つと空気の冷たさに動揺する。一応バッグの中に薄いパーカーを放り込んではきたものの、これほど気温差があるとは思っていなかった。慌てて上着を羽織り、エスカレーターで改札階に上がって構内を出る。高月は北口のエレベーターを降りたところで待っていた。
「ナナ」
 高月以外に僕をナナと呼ぶ知り合いはいない。久しぶりにそう呼ばれてちょっと学生時代を思い出した。
「ちゃんと来たな」
「ああ。あっという間だったよ」
「やっぱりおまえ痩せたな。きちんと食事してないだろう」
「動かないから腹も減らなくてさ」
「そんなことだろうと思ったよ。車はあそこだ」
 見ると、駅前の小さい駐車場に高月のパジェロミニが停めてある。もう生産終了になった軽自動車だが、オフローダーとして今なお人気のある四輪駆動車だ。
「まずは飯だ。何か希望はあるか?」
「女子じゃないんだから何でもいいよ。ああ、でもせっかく信州なんだから蕎麦かな」
「よし」

 5分ほど走ったところにある鄙びた蕎麦屋の天ざる蕎麦は最高だった。舞茸や山菜の天ぷらもサクサクで旨いのだが、とにかく蕎麦そのものの香りが高い。都心にあったら間違いなく「旨い蕎麦屋」として行列が出来ているだろう。しかし蕎麦処の信州ではこれが普通だと高月は言う。
「蕎麦のためだけに引っ越ししてもいいくらいだな」
「七生がそんなに蕎麦好きだとは知らなかったよ。だが食う気があるのは何よりだ。さて、そろそろ行くぞ」

    *

 蕎麦屋を出て高月の運転する車は中軽井沢方面に進んだ。中軽井沢駅前の交差点に差しかかったとき、そこを右に曲がれば鬼押出しを経て北軽井沢、草津へと向かう道になる、と高月が説明してくれた。途中には人気のハルニレテラスや、星野リゾート、トンボの湯などの観光地が集中しているので、間近に迫ったゴールデンウイークや夏の盛りには大渋滞するらしい。だが、車はその交差点を直進する。
「軽井沢が初めてってわけじゃないんだろ?」
「初めても同然なんだよ。小学生のときに家族で来たことがあったはずだけど、虫取りに夢中で町のことは何も覚えてない」
「青春時代に女の子を誘って来たりもしてないんだな」
「脇目も振らずに仕事していた僕にそんな暇があったと思うのか」
「それもそうだな。悪かった」
 そう真面目に謝られるとこちらも居心地が悪い。
「このまま進むと追分地区だ。しなの鉄道の駅で言うと軽井沢、中軽井沢、信濃追分駅までが軽井沢町で、そこから先は御代田町となる。新幹線の駅だと軽井沢の次はもう佐久平駅で、そこは佐久市だけどな」
「で、その物件とやらはどこにあるんだ?」
「もうすぐさ」

 そう言うと信号のない路地を右に曲がる。国道を逸れた途端に道路の上を緑の屋根が覆った。
 舗装はされているが中央分離帯のない細い道だ。対向車が来たらすれ違うのがやっとだろう。しかし道路脇には、驚くほど澄んだ水がサラサラと音を立てて流れている用水路があって気持ちが高まった。
 くねくねと曲がった道をかなり登り、ようやく平らなところに出たと思ったら白壁にチャコールグレーの屋根を頂いた洋館が見えてきた。何かの間違いではないのか。洋館、でいいのか?
「さあ着いた。鍵を借りてきたから中も見られるぞ」
 マジか。豪邸ではないか。庭も小ぶりな建売住宅が十軒くらいは入りそうほど広い。まさか本当にここを高月が買おうとしているのか。

 建物は「く」の字の形をしており、その折れた中心の内側にアーチ型の庇が張り出し、そこに玄関ドアがある。鍵を開けて玄関に立つと広い玄関ホール正面に幅の広い階段があり、数段登ったところの踊り場から両翼に分かれているのが見えた。天井は吹き抜けなので、階段の手すりが上のほうまで見える。嘘だろ。中も豪邸に見えるぞ。

 一階の左側はリビングで、奥には円形のホールがあり、高月がそこを囲む窓の電動シャッターを開けると一気に中が明るくなった。庭に面した窓は出窓になっていてフリルをたっぷりとったカーテンが下がり、反対側の窓は大きなピクチャーウインドウになっている。
 窓ガラスは全てペアグラスだ。寒冷地では窓から室内の熱が逃げることを防ぐために二重窓にするのが普通らしい。サッシもしっかりしていて隙間風などを心配する必要はなさそうだ。
 壁には温風の出る暖房器具が設置してあったが、リビングには暖炉も作られていた。中に電気ストーブを置くようなお飾りのものじゃない。本当にここで火が焚けるのだ。もしかしたら僕は本物の暖炉を見るのは初めてじゃないだろうか。
 玄関の向かって右側はダイニングキッチンで、庭に面している出窓はリビングと同じだが、反対側の壁がシステムキッチンになっている。そこにも窓があるのでとても明るい。その奥の引き戸の先には風呂場とトイレがあるようだ。

「まずは二階の書斎を見てもらおうかな」
 踊り場から左の階段を上がって二階の廊下に出ると手前に小さな洋室があり、その奥が書斎だった。一階の円形のホールが二階の部屋でもそのままの形になっており、部屋のカーブに沿って作り付けの大きな机が設えられている。この部屋の暖房は一階の温風暖房と同じボイラーで温めた不凍液を使うパネルヒーターだ。作り付けのクロゼットもある。
「これは…最高だな」
「だろう?」
 窓からは木々の新芽の緑、そして家の裏手を流れる小川のせせらぎを眺めることも出来た。こんな部屋で仕事ができたらどれだけ捗ることだろう。
「手前の洋室にもクロゼットとパネルヒーターがあるからそっちが寝室だろうな。そうすれば書斎には生活臭のするものを置かなくて済む」
 と、高月に言われるまでもなく、僕の頭の中にはもう、そのイメージがくっきりと広がっていた。

 二階の反対側にも行ってみる。一度踊り場のところまで降りてからもう一つの階段を上るとやはり手前に小さい部屋。そして奥がいわゆる主寝室ということらしい。どちらの部屋にもクロゼットとパネルヒーターが付いていて、二階の窓ももちろんペアグラスだった。
「書斎のあるほうの二部屋をおまえが使って、こちら側を俺が使うってのはどうだ? 一階のリビングと台所は共有だが、お互いの個室には別の階段を使って上がるのでプライバシーも保てる。広さ的には十分だろう?」
「ちょ、ちょっと待て。十分とかそういう問題じゃないぞ。ここをたったふたりで使うのか? そんな贅沢なことが許されるのか?」
「俺がひとりで住むよりは贅沢じゃないじゃないか」
「いや、そうじゃなくて…」
「ここはまだ売りに出たばかりで、他に買い手がついていない今がチャンスなんだ。この場所は軽井沢駅からは少し離れているが、その分観光シーズンにも渋滞に巻き込まれる心配がない。一番近いスーパーは観光客に人気があって夏場は大混雑してしまうが、そういう時期は御代田町や佐久平まで行けば他にいくつも店がある。家具や電機や服の量販店もあるし、日常生活には何の不自由もないぞ。
 宅配便も普通に届くしインターネットの光ケーブルも引ける。建物は築十四年だが、別荘として使われていたので痛みが少なくて状態がいい。手を入れるのは風呂と暖房用のボイラー交換くらいかな。浄化槽も点検したばかりで問題ないそうだ」
「浄化槽?」
「軽井沢の別荘地には下水が通っていないんだ。だから排水はそれぞれの庭に埋められた浄化槽で処理することになる」
 そうなのか。地方ではそういう地域も多いと聞いたことがあるが、東京でしか暮らしたことがないので浄化槽には全く馴染みがなかった。だが、上水道が来ているのなら不便はないのだろう。

「だけど、いったいいくらなんだ…?」
「それはナナが心配することじゃないさ。光熱費は割り勘で家賃は五万くらいでどうだ? この辺だとそのくらい出すと普通にアパートが借りられるが、広さはこちらに分があるぞ」
 五万! この豪邸にたった五万で住めるのか? しかもあの快適そうな書斎付きで…いやいやいや。
「本当に五万でいいのか?」って、僕は何を確認している。
「ああ。実はローンのシミュレーションをしたら、ちょうど毎月十万くらいに収まりそうなんだ。つまり半分負担してくれればいいってことさ。頭金はいくらか払うから家の名義は俺だけどな」
 そんなうまい話に乗っていいのだろうか。だが、あの書斎を見てしまった今、すでにもう「帰りたくない」という気持ちが僕を支配している。
「どうする?」
「わかった。…ここに住むよ」
「後出しじゃんけんみたいだが、冬は寒いぞ」
「暑いのは苦手だ。東京では四月から十月いっぱいまでクーラーの世話になってるくらいだからな」
「この家にクーラーはないぜ」
 クーラーがない! それで大丈夫なのか。
「忘れたのか? 軽井沢は避暑地なんだよ」

 そんな話をした二週間後、僕は本当に軽井沢町に住民票を移していたのである。

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骨折日記のときはたくさんのお見舞いサポートありがとうございました。 これからはときどきクリスタ作業関係のことや、思ったことなどを書いていこうと思います。

ありがとうございます!
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野間美由紀

ミステリ専門の少女漫画家です。
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