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大学について

 23歳にデビュー作で芥川賞を受賞した村上龍は「二十代にしか書けない小説というものがある」と他著の解説内で書いた。歳を重ねると感受性が変わる。以前良かったと思っていた音楽や小説の嗜好が簡単に変わってしまう。過去の解像度が著しく落ちる。だから今のうちに思い出せる過去をすべて回顧しきらないといけない。明日になるともう二度と思い出せないものがあるかもしれない。美しい思い出の一つとして大学の四年間があった。昔を思い出すこと、それを書くということは恥ずかしいことだと思っている。過去を何度も語ることはまるでそれに縋っているように見えて、現実を直視していないように思えてしまう。でも忘れるくらいなら、たとえ乱雑にでも書き留めておく必要がある。「大学に戻りたい/あの頃はよかった」という文章にはならないように気をつけた。

 東京から電車で二時間の場所にある辺鄙な地方の大学に進学した。親から離れて一人暮らしができるという簡単な理由だった。不動産との行き違いで備え付けだと言われていた室内灯がなく、真っ暗な部屋で廊下の音だけがやけに大きく、初日の夜にテレビを点け放しにして少し泣いて眠った(何のテレビが放送されていたかも鮮明に覚えている)。寂しく、お腹が空いているという理由だけで交流会や歓迎会に手あたり次第出席した。様々な地域から集まった学生たちで活気のある大学で、皆同じように下宿をしているから遊ぶ場所にも困らず、何より学生間の物理/心理的な距離が近かった。町自体がとても小さく、山で囲まれて閉塞感があったからより内側に意識は向かった。ドラッグ・ストアに行ってもスーパーに行っても焼肉店に行っても書店に行っても同じ大学の人間がアルバイトをしていた。友人の部屋に遊びに行くと隣の部屋が別の友人の部屋といったところで、お互いがお互いの家の場所を完全に把握していた。私は大学から徒歩10分の場所に下宿をしていたが、それは「遠い」と言われる距離だった。家賃3万1000円で電子レンジ、洗濯機、冷蔵庫、エアコン、WiFiすべてがあった。壁は薄く、夜は隣の部屋の住人がスマートフォンを充電する「フォン」という音も聞こえた。私が二年生の頃に隣人は死んだ。講義から帰ると警察が玄関前にたむろしていて、それで死んだということを知った。年に数回学生の自殺者がいた。隣人が自死を選んだのかはわからなかった。家の前にある家賃一万円の部屋にも友人が住んでいて、窓を開けると友人の部屋から光が漏れていた。

 下宿をし栄養バランスが偏った学生のために朝八時に学食が開く。そこで100円の朝食を食べて一限に出席し、空いた時間で家に帰って洗濯を回し、友人の車に乗ってマクドナルド・ハンバーガーを食べた。学生の半分以上が車を所有しており、わたしも10万を24回払いにしてダイハツのミラを購入した。車検時の代車に使われるような代物で、私は彼のことが大好きだった。彼に友人を乗せて御殿場に行き、横浜に行き、深夜の東名高速道を走り名古屋の漁港で日の出を見た。酒を飲み、授業を受け、銭湯に浸かり、鍋を囲んだ。サークルはNPO法人と連携してキャンプをするというしっかりとしたものを選んだ。森の中で時には学生同士、時には小学生の子どもらとテントを張り、火に薪をくべ、流しそうめんをし、餅をついた。全てが新鮮だった。自分が本来18歳までに得るべき体験を一から追体験しているような感覚だった。家族とろくに旅行に行ったこともなく、季節の行事などの思い出が欠落していた自身の幼少期が肯定され充足していった。初めてのことばかりで最初は何もかもに浮かれていた。端から見たら恥ずかしいくらい必死に「大学生」だった。お腹の辺りを軽くつつけば黄色のチキンのおもちゃのように「ウェーイ」と甲高く鳴いたと思う。髪をピンクに染め上げて講義に出席し、カラオケに行き、朝まで歌った。終電の概念が学生間になかった。最寄り駅を発着する単線列車は23時30分が終電で、新型コロナウイルスが蔓延すると22時台に引き上げられた。駅が標高500mほどの場所にあり、学生と教授、それと僅かな市民が乗り降りするだけだった。人口は3万人。学生の多くは住民票を移しておらず、わたしもその一人だった。市民ですらなかった。市民でもないくせにいつまでも遊んでいた。歌って、飲んで、寝そべって、笑っていた。主要な居酒屋は三店舗ほどしかなかったから、ホット・ペッパーで店を予約する必要も帰りの電車を気にする必要もなかった。一度居酒屋に入ったら数十ある席の全てにそれぞれの友人がそれぞれのグループで酒を飲んでいて挨拶周りのように巡回した日があった。夢のような日々だった。もちろん勉強もした。でも思い出すのはいつだって笑っている自分だった。大好きな教授が何人かいた。彼/彼女らの講義は最前列で受けた。講義終わりに提出するリアクション・ペーパーを裏まで書いた。難しい課題は誰かの部屋で一緒に集まって解いた。卒業単位が確定すると好きな講義を勝手に履修した。大学脇のうどん屋の裏で猟友会に撃たれたイノシシが血を流して死んでいた。私はその銃声を講義中に聞いた。友人と図書館に籠り卒業論文を書き上げた。家に帰ると電気代未払いの部屋に電気が点かず、友人の家に転がり込んで勝手に布団を借りて眠った。深夜の24時間営業のドラッグ・ストアに友人と行くと必ず知り合いがいて、そのまま一緒になってどちらかの部屋で酒を飲み、少し眠り、また講義に出席した。空きコマは家に戻りシャツを洗い、ベランダに干し、マクドナルドを食べた。アルバイトに行き、銭湯の脇にある広場でサッカーをした。毎日のように友人が増えていった。あるいは友人と絶縁をした。旅行にも行った。一生の友人らと出会った。同じテレビを見て、同じものを一緒に作って食べて(様々な創作料理をした。勿論美味しくないものもあった)、一緒に年を越した。初日の出を一緒に見た。私は家族以外と年を越すのは初めてだった。深夜の大学を散歩した。大学裏の高台で寝そべって流星群を見た。暗闇の中で鹿の目が光った。梅雨は裏山で紫陽花を眺めた。夏は駐車場で花火をして、海がなかったから川に服のまま入った。秋はピクニックをして、ハロウィンは仮装をして友人宅を練り歩いた。冬は大学のグラウンドで雪合戦をした。春は桜の下で酒を飲んだ。十二月に降り始めた雪は四月になっても時折降っていた。友人の誕生日にはパーティーをした。バーベキューをして、甘ったるいケーキを食べた。数えきれないほどの朝と夜があった。どこにでも行けるのに、どこにも行かなかった。狭い世界ですべてが完結していて、ひたすらその外周を回り続けていた。狭いカラオケ・ボックス、居酒屋の四人掛けシート、さびれたボウリング場、回転を続けるミラー・ボール、定型化されたワンルームの間取りと嬌声があった。楽しくないことも、憂鬱なこともあった。でも思い出す必要はなかった。楽しい思い出だけが、まるで継ぎ目なく続いていたかのように独立して思い出される。

 そして、今すべてを失った状態にいる。いや、失った、というのは違うかもしれない。友人は変わらずいてくれて、連絡をすると忙しい中で返事をくれる。東京で毎月のように遊んでくれる友人も数名いる。年に一度は最愛であるサークルの友人らと同窓会のようなこともする。卒業時に取得したいくつかの資格も正常に機能してくれている。ただ、失ったと感じてしまうのは、2018年の4月から2022年の3月まであの場所に留まっていた人の群れが、もうあの場所にはいないからだった。自分を含め、あの期間、あの場所、あの時間にあった何もかもがきれいさっぱり過ぎ去ってしまった。それは卒業してからずっとわかっていて、言うなら卒業する前からわかっていて、それが今の今までずっと、思い出す度にただうっすらと悲しかった。ひどい慟哭の中に在る訳ではなく、ただ薄い膜に覆われているみたいに寂しさだけがずっと纏わりついている。手元にあったすべては猛スピードで駆け抜けていく列車の車窓のように後方に流れてしまった。もう残像すらうまく像を結べず、目の前の景色が正しく識別できない。ただ取り残されているという感覚もない。自分なりに選択を続け、息つく暇もなく今にいる。残された友人らと資格がある。

 あの日々をどう捉えたらいいのかわからず、消化不良のまま立ち尽くしている気分になる。友人らは(決してそうではないのかもしれないけれど)自分なりにあの日々を上手に咀嚼し、きちんと飲み下し前を向いているように見える。上手に消化するには多くの時間が必要だと思う。ただ30歳になっても「大学が~」なんて言う人間にはなりたくなかった。今までなにをしてきたんだと思う。自分の人生と、現在自分の周りにいる人間に対して失礼だと思う。だから過去を執拗に振り返り後ろ髪を引こうとする行為は不義理だと思っている。現在地の全てに対して失礼であり冒涜であると思うから。だからここに書いて残す。今を慈しむことと過去を憂うことは両立すると信じている。この文章を読んだ誰かは「情けない思い出だ」と思うだろう。でもわたしはこれが限界だった。あの体験を文章に完全に起こし切ることは不可能だった。同級生が読んだら恥ずかしく思うくらい情けない文章だと思う。あの日々を一緒に過ごした人らからは「こう見えていたんだ」と思われるかもしれないという恐怖がある。言葉にするのは怖い。でも今しか思い出せない。忘れてしまう。些細な機微を、表情を忘れてしまう。「あの頃はよかった」なんて死んでも言いたくない。いつだって今がいちばん楽しいと思う。大学の日々に戻れますよと言われてもきっと戻らない。でも楽しかった。その事実を受け止めて、いつかきちんと自分の中に消化して落とし込みたい。映画も小説もそうだった。享受したものを自分の中に落とし込むのに私はひどく時間がかかる。卒業してもうすぐ三年になる。もう少し早く言葉にしておくべきだった。いいかげんにしないといけなかった。

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