【 牡丹の花 】のレース ー ブリュッセル・ニードルレース ー
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
牡丹のレース
ー 百花の王
1730年代ごろのこのレースボーダーはおそらくブリュッセルで製作されたニードルレースでエキゾティックな植物文様、特に牡丹の花のモチーフが印象的なレースです。
牡丹は中国西北部が原産の低木で、西暦500年頃の南北朝時代には薬草として記録されて唐代には非常に人気の高い園芸種となりました。
中国では「百花の王」と称された牡丹は富貴を象徴する花として白居易が詩に詠み、舒元輿は『牡丹賦』の中で武則天が宮廷の上苑に牡丹の移植を命じたことを詠じています。
11世紀の北宋時代、欧陽修の『洛陽牡丹記』には三十余種の牡丹を採集しています。このなかで当時牡丹の栽培家として名を馳せた魏家と姚家について、魏家は八重咲きの紅花、姚家のものは黄花であると記されています。
この二家によって栽培された「姚黄」「魏花」という品種は特に名高く高値で取引されたために「姚黄魏紫」といえば牡丹を表し、「魏紫姚黄」は気品のある花を意味するようになりました。
ヨーロッパには17世紀の中頃の1656年に中国から伝わり、19世紀には栽培もはじまりました。
ー レースのデザインへの応用
また明代に各国のインド会社により輸入され人気を博した青花磁器の文様などから牡丹は東洋的でエキゾティックな花としてヨーロッパで周知されるようになり、このような背景から牡丹のモチーフが最初にレースに取り入れられたのは17世紀のオランダでした。
以前の記事でも取り上げましたが、牡丹は棘の無い薔薇と考えられていたために聖母マリアに捧げられた花となりました。
17世紀のオランダでは、青花磁器や織物の牡丹唐草文などから様式化された文様として用いられました。
18世紀の乾隆帝の治世には清の領土は最大版図となり繁栄を謳歌しました。安定した時代に人々は華やかなものを求め、磁器や衣装などの牡丹文様は写実的で優美なものが好まれました。
清代には中国の刺繍生地や絹織物がヨーロッパで珍重され衣裳などを仕立てるために輸入されました。
このブリュッセル・ニードルレースが製作された時期は雍正帝の晩年、乾隆帝の即位当時に当たりシノワズリの流行などからレースにも写実表現の牡丹文様が取り入られたと思われます。
これらのモチーフには18世紀のインドのコロマンデル海岸で製作された手描き更紗のPalamporeパランポワと呼ばれるベッドカバーに描かれた立木文様の花々の影響を見られます。
パランポワは東洋趣味が流行していたヨーロッパや、インドネシアを植民地化していた在地のオランダ人向けに作られインドから輸出されていました。
ベルモア伯爵家
ー ローリー=コリー家のコレクション
このレースは1797年の叙爵以来、代々ベルモア伯爵を世襲してきたアイルランド貴族のローリー=コリー家に伝わったコレクションのなかのひとつでした。
数年前にローリー=コリー家の所有していたレース・コレクションが売りに出され、そのいくつかが私の手元にあります。
ローリー=コリー家はスコットランドの低地地方出身の家系で、アイルランドに入植して当地の貴族の家系となりました。
北アイルランド、ファーマナ郡の郡都エニスキレン近郊のカースル・クールがローリー=コリー家の本拠地となっています。
初代ベルモア伯爵アーマー・ローリー=コリーは1768年にタイローン州選出のアイルランド庶民院議員に選出されました。
1781年にファーマナ郡のカースル・クールのベルモア男爵として初めて貴族に列します。そののち1789年にカースル・クールのベルモア男爵の爵位は子爵に陞爵し、1797年には伯爵位を授けられています。
アーマー・ローリーは1774年にコリー家のカースル・クールの地所を相続し、ローリー=コリーと複姓に改姓しています。彼はこの土地に古典主義建築家として名を馳せたジェームズ・ワイアットに依頼し、カースル・クールを建設します。
アーマーはアイルランド北西部の自治権を拡大させ、自身とその家系の権力基盤としてカースル・クールの建設を企図していたのです。アイルランド議会での北西部の発言権拡大を狙ったこの野望は、1800年の連合法により潰えることとなります。
初代ベルモア伯爵が1802年に世を去ったとき、13万3,000ポンドもの莫大な負債が遺され、そのうちカースル・クール建設や維持に起因したものが70,000ポンドも占めていたといわれています。
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