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90年前に描かれた"Anti-city"について読みながら、「脱密集」と「創発性」について考える。

この6年、毎週のように長野と東京を行き来していたが、東京へ行かなくなって久しい。数ヶ月以上、一度も行かないのは初めてではないだろうか。完全にリモートワークで仕事をしている。

家で仕事をし、合間に外へ出てサイクリングや散歩(人がいないので全く問題なし)、庭仕事や食事を作る。家族で話す時間や、zoomで仲間と会話する時間。リモートワークという形をフルに使いながら、6年目にして、いま最も田舎での生活を味わっているのかもしれない。そして最も健康的な生活を送れている気もする。

これまでもリモートワークでの仕事もしてきてはいたが、仕事相手がそうでないことや、やはり出向かないといけない事情などもあり、なんとなくルーティーンとして都心と行き来していた。が、ついに社会全体がビデオ会議に慣れてきたいま、「行ってはいけない状態」を通り越して「行かなくても成り立つ状態」になった。

コロナが明け、再び移動ができるようになった暁には、本当の意味で“行きたいときに行き来する”という、より完成された二拠点生活に近づくのかもしれない。


都市から離れた生活を送りながら、改めて都市での生活を考えると、いかに都市が密集を前提にデザインされているかを思い知らされる。

狭い面積の中で縦に人を密集させ、サービスを集約させ、その中を交通機関によって補いながら、仕事と生活を結ぶ。この狭い面積の中により多くの人が暮らし、生産と消費を生み出すことで、面積当たりの価値が高まる。

こうして過密化することで潤ってきた都市の大前提は、密集できないという新しいルールの中で崩れつつある。

都市の脱過密化を考えるか。それとも生活の脱過密化を考えるか。
(それとも結局何事もなかったかのように、超密集型の生活に戻るのか)

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都市の大前提を考え直す上で、歴史を遡ると興味深い提示がある。

Frank Lloyd Wrightの"Broadacre City"は、1930年代に提唱され、"Anti-city"と評された同氏の生活圏構想。
縦に過密化が進む都市部から脱し、アメリカの地方地域に居住や教育、仕事、消費などが1エーカー単位で区画された平面的な生活圏を作るというもの。

僕自身は建築が専門なわけでもないので、建築業会における正確な評価はわからないが、近代的な都市構造と交通網がどんどん整備されていくと同時に世界恐慌が起こった時代でもある30年代に、こういう提唱がされたというのはとても興味深いなと思えた。

当時は非現実的と言われたり、スケッチ図が変に未来的?であまり評価されなかったようだが、F.L.Wright氏が掲げた実現性が高くなる3つの要因は、現代の話題ともマッチする。

Broadacre City実現化のための3つのキーファクター
1. 自動車などの移動手段のとそれをささえるインフラ(道路)の発達
2. 電話や通信手段の発達
3. 標準化された小規模&大量生産可能な製造拠点

1は当時整備が進んだ高速道路などにより、都市部と地方地域の行き来がスムーズになっていったこと。
自動運転が進めば地方地域との行き来はさらに楽になるといった現代のトピックはすでにこのころから言われていたようだ。

2は、現代であれば当然インターネットの発達により、当時以上の通信手段の発達が達成されている。5Gが地方地域や鉄道・高速道路上でも普及すれば、移動時の通信環境はより快適になり、仕事や会議、日常的な会話も今以上にしやすくなるだろう。

3は当時であれば地方地域に生活必需品の生産拠点を設けるといった話なのかもしれないが、現代でいえばマイクロ・ファブリケーション的な側面も入るだろうし、1と2の物流、通信ネットワークのリッチ化により、様々なタイプの生産・製造&移送が可能になっている。氏はBroadacreによって生活者が専用の小さな畑を持つことができるとも書いていたが、これも田舎では実現可能(大変だけど)だし、今後の技術進展により、家庭用水耕栽培などの仕組みももっと身近になるかもしれない。

さらに面白いのは、F.L.Wright氏はこの時点ですでにWork from Homeを提唱していたばかりか、Broadacre Cityによって、それぞれの人にとっての小さな自己実現の機会が提供される、と謳っていたことだ。

Little farms, little homes for industry, little factories, little schools, a little university going to the people mostly by way of their interest in the ground, little laboratories on their own ground for professional men. And the farm itself, notwithstanding the animals, becomes the most attractive unit of the city.

1 acreという面積の中に、自己完結がある程度可能な自分の世界があることで、生活における自己実現を叶えられる。

それだけで足りるかどうかはさておき、自分なりの自己実現を求めて地方への移住を試みることは多くの移住検討者にとっての共通項であることを考えると、当時から都市に対する生活者の潜在的な不満と生活に対する“ここではないどこか”感は、なにも変わっていないとも考えられる。

Wright氏が唱えている3つのファクターも、技術的には現代の方がより実現しやすいわけで、結局のところ、これらを長らく妨げてきたのは人の意識や既存の慣習、固定概念だ。そしてやっと、コロナ以降のNew Normalな生活によって、その慣習や固定概念を振り払える勇気を持つ人が後に続くかもしれない。

Broadacre Cityが当時実現することはなかったようだが、コロナ以降の経済停滞を考えると、地方行政がどこまで地方地域の生活環境を再整備していくことができるかは微妙なところだ。行政に頼ることなく、より共通のマインドを持った人同士の集合体、つまり民衆の手で作られていく方が、うまくいくのかもしれない。

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その一方で、しばらく“密集”しない生活に慣れてしまった中、一つの疑問が残る。

「創発性」という言葉がある。
“ある物、人などがつながることによってより大きなものとなり、全体が獲得する新しい特質のこと”を指すこの言葉は、例えばスポーツの試合で誰かが起こしたウェーブが、会場全体に広がっていく、あれだ。
(レオ・レオニの『スイミー』で小魚が集団で集まり大きな魚と化すのも同じ)

密集は創発を生みやすい。感情や意識は人を通じて伝染しやすく、距離が近ければなおさらだ。

企業や社会組織は、人を同じ場所へ集めることで、集団意識と創発性を生み出してきた。こうすることで、個人では生み出し難かったり予想できなかったことも、より大きな形で実現可能にしてきた(もちろん同調圧力も)。

しかし、この密集という前提が取り払われ、都市生活や、これまでの既成概念の中での集団活動から脱し、“脱密集”が進んだ場合、果たして創発性は起こるのだろうか?

最も、ソーシャルメディア上で広がるムーブメントのようなものは以前から存在するし、環境問題を提起したグレタさんのようなケースも記憶に新しい。
が、リモートワークが普及すると、もっと身近で、日常的な創発の機会が必要となるのではないか。

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緊急事態宣言も解かれ、第1波もある程度抑えられたいま、人は過去のことなどすぐに忘れ、以前のような密集状態に戻ってしまうのかもしれない。
が、僕自身は、今後は近距離・遠距離がある程度ミックスされた生活スタイルももっと進んでいくのではないかと思う。
新しい生活概念の芽がせっかく出てきた中で、これを機に、脱密集と創発性の関係について、もっと試行錯誤していくのもよいのではないだろうか。

離れていても意識が伝わりやすく、
離れていても距離感が近いと思え、
離れていても協力しあえる状態。

これらをいかに実現できるかが、ワークスタイルやライフスタイルを次のステージへと進め定着させる鍵となるのではないかと思う。

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