環七通りで描いた夢とか理想について

叶えたい、ささやかな夢ってある?

俺には一つある。

東京に出てきた理由でもある。

もちろん、描いた夢、理想を追い続けたって多分ものにできるのはひとにぎりの人だけだってことくらい、ちゃんと分かっているつもり。

思い出がいっぱい詰まった景色だって、また破壊されるのも知っている。それは東京に限らず、だけれど。

今日当たり前に、自分の好きな風景と、好きな人が目の前にいて、触れて、感じられるっていうことは、それは特別なことなのです。それに執着してしまうと、失うのが死ぬほど、むしろ死ぬほうが楽なくらい、つらい。でも執着してしまう。失われることが分かっているのだから、それが目の前にある限りは、その一瞬の光を五感をもって焼きつける。だって私は今しか知らないから。

ここまで書いておいて、なんなのですが、俺が一番好きな東京はミスチルではなくて、くるり。だから相変わらずわけのわからないこと言ってます。次点で□□□。あっ、銀杏も捨てがたい。新幹線に乗って郡山に帰っちゃうよね。東北新幹線。たまには新幹線に乗って実家に帰ろうか。実家は郡山よりも、もっと北の仙台なのだけれど。

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話をもとに戻す。東京に出てきたからには叶えたい、ささやかな夢がある。

環七通りの内側に住むこと。

俺は環七通りっていう概念にずっと憧れを抱いている。東京という街の概念を表すものであって、エモさを含む。そんな環七通り。

銀杏の東京でも、ぽつりぽつりと環七沿いを濡れてはなるかと下唇噛んでるじゃないですか。フジファブリックも何故だか飛ばしているし、チャットモンチーだって月もない環七通りを歩いて帰ってる。

WALKMANを片手に田んぼを自転車で疾走していた東北の高校生の俺にとって、「環七通り」はディズニーランドよりも夢の国に見えていた。この国道4号線の繋がる、はるか先の東京には、環七通りという道があって、そこには幾多のドラマと悲哀が染み込んでいるのだ。そんな所で生活をしてみたいと思った。

そして田んぼのママチャリ少年は、ダンボールとともに東北道を南へ南へ、東京へとでてきた。たどり着いたのは、環七はおろか環八よりも西の西。競馬場のあたり。ユーミンにまるで滑走路にされてしまったフリーウェイが近くを通る土地。電車は12分に一度来る。東京って、思ったより広い。

東京は空と地面がある街だったし、星は見えないこともなかった。住んでいるのは人間だし、地元とは少し違うけれど、日本生まれ日本育ち、日本語を話していた。高校のときに使っていたSuicaだって、ピピッと俺を中央線に乗せてくれた。

そして、環七通りは、大きめの、交通量の多いただの道路だった。夢の国に見えていた所には、美しいドブネズミがいた。
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いろいろなことをして、いろいろな人に会って、別れて、いろいろな現実が見えてきたけれど、それでもあの頃と夢は変わらない。

やっぱり俺は、環七通りの内側に住みたい。そのくらいの、ささやかな夢、理想なら叶えられるかな。たどり着いてやる。

だから、あと少し、頑張ってみようかな。

東京も仙台も、人間の住んでいるただの日本の場所に過ぎないけれど、ここは大切な場所で、大切な人がいるみたいだから。

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