見出し画像

漆沢氏について考える-大釜氏と謎多き和賀多田氏(和賀氏)

あることがあり、岩手県の漆沢氏について、

緊急で調べなくてはならない事態となり、そこから調べ出しました。

メモも兼ねてまとめておきます。

1  漆沢氏←大釜氏とは

元々は、岩手県の漆沢氏について、

緊急で調べなくてはならない事態となり、

そこから調べ出しました。

あくまで諸説ありますが書いておきます。

佐々木勝宏氏の

「初代八戸藩主南部直房夫人霊松院の周辺」

(『岩手県立博物館研究報告』

第29号、37-52頁、2012年3月)

http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/kenkyu/data/kenkyu29/no29p37.pdf

同氏の

「八戸分士数と直房の官職名

-八戸藩家老中里弥次右衛門家家系からの考察-」

(『岩手県立博物館研究報告』

第31号、65-74頁、2014年3月)

http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/kenkyu/data/kenkyu31/no31p65.pdf

を参考にまとめます。

まず、南部直房夫人の霊松院は、

川口正直という武将と、

斯波氏出身の耕雲院という

女性の間に生まれた

孝という人でした。

斯波氏は清和源氏系で、

室町幕府の三管領の1つの系統です。

ここから大崎氏や

伊達政宗の伯父の最上義光に

つながる最上氏が出ています。

孝の実家の川口氏は、

藤原秀郷の子孫で、

奥州藤原氏に仕えた

川村秀清という武将でした。

秀清の代に川村氏を川口氏に

改姓しています。

『南部藩参考諸系図』によると

彼女の姉妹が

大釜彦右衛門政綱という武将と

結婚したものの、

政綱が早くに亡くなり、

改易になっています。

この時、

孝が八戸藩主夫人になっている関係で、

まだ幼い息子の政抄が漆沢氏に改姓し、

後に八戸藩士になっていると書いてあります。

なお、『書上』という文献にある、

漆沢氏の系図には、

初代の人物(政抄)のところに、

大釜彦惣の子と書かれているようです。

上記の記述でいけば、

この彦惣は政綱のことをさすと思います。

ここまでをまとめると、

漆沢氏のルーツが

大釜氏ということになります。

2 大釜氏←和賀多田氏とは?

そして、

この大釜氏とそこに至る

和賀多田氏が結構複雑です。

大釜氏については、

岩手県滝沢市教育委員会のHPに出ています。

室町時代の岩手郡

http://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/page02_chapter4.html

引用しますと、

「大釜氏は大釜邑主で、

和賀多田氏の庶流と伝えている。

『奥南落集』には、志和諸臣として扱い、

「大釜薩摩守政幸主家ニ叛キ

信直公ニ任エ五百石」とあり、

その子政綱と、

二男良重の三人をあげている。

居館は、雫石川の北岸大畑にあり、

大釜館(今の東林寺境内)と称し、

大釜氏累代の城館であった。

斯波氏全盛のころ、

多田氏の支族は斯波氏に出任し、

大釜郷その他を領地していた。

その後南部氏の臣となり、

某氏金山奉行のとき罪ありて入獄にあい、

再び断絶しようとしたが、

その子後許されて寺田に微録を食めりという。

御維新のころ、

大釜白水氏零落しているのを高橋氏に買われ、

氏の孫に至り兄を高橋寛城氏、

弟を大釜徳治氏を名のり現在に至るという。」

ということをそのまま読むと、

大釜氏のルーツは、

和賀多田氏になります。

画像1

なお、『奥南落集』は

『奥南落穂集』という文献のことで、

これは中世の伝承資料で、

南部領(盛岡藩)の中世から

近世の資料が散逸している

ことから使用されます。

なお、成立は江戸時代の

元禄15(1702)年頃と言われています。

3 全ての道は和賀氏に通ず

-和賀氏とは?

この和賀多田氏こと和賀氏に関しては、

3つの説があります。

武家家伝_和賀氏
■家紋、系図、戦国武将、武将、赤松円心、赤松満祐、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、北条早雲、島津義弘、島津義久、島津家久、毛利元就、毛利一族、島津一族、大友一族を紹介。尼子氏、大内氏、陶氏などの動向も探っています

www2.harimaya.com


①源姓説(清和源氏系)1

-頼朝の子ども説

※伝承の可能性が強いとの指摘あり

『源姓和賀氏系図』

※15世紀以後に出てきた話のようです。

源頼朝が伊東祐親の娘(八重姫)と結婚し、

生まれた子ども忠頼を祐親の

家臣斎藤氏がかくまい、

建久8(1197)年に頼朝により、

多田式部大輔忠頼となのって和賀郡を

治めさせられたという。

②源姓説2(清和源氏系)

多田行国(藤原頼長に仕えた武将)の息子

行業の子どもが

和賀氏をなのった。

③横山党小野氏(中条氏)説

武蔵国多摩郡(現在の八王子市)にいた

横山党の同族的武士団のことである。

諸説あるものの小野篁の末裔の説がある。

このうちの中条家長の息子の義季が、

和田義盛の養子となり、

平姓と改姓する。

おひらき 結局、漆沢氏とは?


変遷をまとめると、

☆血筋は源姓or横山党小野氏(中条氏)

大きな共通項:どちらも皇別氏族

・源姓であった場合

頼朝の子どもor多田氏であるが、

さかのぼれば、どちらも清和源氏系

・小野氏であった場合

孝昭天皇

→天押帯日子命

(省略)

→小野妹子

(省略)

→小野篁

→小野保衡(横山党小野氏)

(省略)

→中条家長(御成敗式目の制定に関わるなど)

→中条義季

(苅田義季、娘は北条義時の息子重時の正室である荏柄尼西妙、

西妙の息子が北条為時で、刈田北条氏の祖とされる。

刈田は刈田郡で現在の宮城県)

→義季が和田義盛(平姓)の養子になる

【外向けには平姓】

→義季の息子義行が和賀義行を称する(平姓和賀氏)

→分家の鬼柳氏が和賀郡の惣領となる

→鎌倉から義行の兄の系統の人間がくる

【外向けには源姓】

→16世紀以後、和賀多田氏(源姓和賀氏)

→大釜彦次郎

→大釜政綱

→政綱の息子政抄が漆沢氏に改姓

→漆沢氏

ということです。

ここに掲載した情報のみで

判断するのであれば、

漆沢氏とは、

実際の血筋は、

清和源氏系か小野氏系のどちらかで、

外向けの本姓は源氏ということに

なります。

このあたりは

はっきりさせておきたかったので、

調べたことをまとめておきました。

複雑でしたよ。

大変古い一族ですが、

謎が謎を呼ぶ一族であることが

よくわかりました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?