シューベルト:第4曲「セレナーデ」(Ständchen)『白鳥の歌』(Schwanengesang)D957:965aより

Schwanengesang (Swan Song), D 957, is a collection of 14 songs written by Franz Schubert at the end of his life and published posthumously:

Liebesbotschaft (text: Ludwig Rellstab)
Kriegers Ahnung (Rellstab)
Frühlingssehnsucht (Rellstab)
Ständchen (Rellstab)
Aufenthalt (Rellstab)
In der Ferne (Rellstab)
Abschied (Rellstab)
Der Atlas (Heinrich Heine)
Ihr Bild (Heine)
Das Fischermädchen (Heine)
Die Stadt (Heine)
Am Meer (Heine)
Der Doppelgänger (Heine)
Die Taubenpost (alternative: D 965a) (Johann Gabriel Seidl)

Ständchen (No.4)

公開者情報 Boston: Isabella Stewart Gardner Museum
演奏者 Mark Padmore (voice), Jonathan Biss (piano)
著作権 Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivs 4.0

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『白鳥の歌』(はくちょうのうた、Schwanengesang)D957/965aは、フランツ・シューベルトの遺作をまとめた歌曲集。3人の詩人による14の歌曲からなるが、自身が編んだ『美しき水車小屋の娘』、『冬の旅』とは異なり、『白鳥の歌』は本人の死後に出版社や友人たちがまとめたものであり、歌曲集としての連続性は持っていない。新シューベルト全集では『レルシュタープとハイネの詩による13の歌曲』 D957と『鳩の使い』 D965aと分けられており、そもそも『白鳥の歌』という歌曲集は存在しない扱いになっている。

なお、シューベルトの『白鳥の歌』としては他人の手が入った歌曲集のほか、自身の手による同名の歌曲が2曲あり、それについても解説する。

成立の経緯
冒頭に記したように、3人の詩人による歌曲から成立しているが、使用された詩とシューベルトの出会いはさまざまである。

レルシュタープ
ルートヴィヒ・レルシュタープの詩による7曲の歌曲は、もともとはシューベルトに作曲が依頼されたものではなく、実はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに依頼したものがベートーヴェンの死により、何らかの経緯でシューベルトにまわってきたものであった。

レルシュタープとベートーヴェンの間柄と言えば、一般にレルシュタープがベートーヴェンの没後に、ピアノソナタ第14番を『月光』と「命名した」ことが挙げられるが、実際にはそれ以前に「ルドラムスの巣窟」というウィーンの名だたる著名人の夕食会に、ともにその名を連ねている。ただし、実際に接触があったかどうかは定かではない。その後、時期ははっきりしないものの、レルシュタープは『白鳥の歌』に使われた7曲分を含む詩集をベートーヴェンに送り、歌曲の作曲を依頼した。ベートーヴェンが送られた詩に実際に目を通したどうかは不明であるが、間もなく1827年3月26日にその生涯を終えたため、レルシュタープの詩による歌曲は作曲されず、レルシュタープも送った詩集はそのまま埋もれてしまったと考えていた。

ところが、『白鳥の歌』が世に出た際、レルシュタープは自分がベートーヴェンに送ったはずの詩にシューベルトが作曲していることに驚く。さらに、ベートーヴェンの信の置けない秘書アントン・シンドラーからレルシュタープが詩に添えた添え書きを渡され、詩がベートーヴェンからシューベルトのもとに渡った経緯の説明を受けた。シンドラーの説明では、ベートーヴェンは詩を受け取ったものの健康状態が芳しくなかったため、シューベルトに作曲を委ねたというが、その真偽は全く不明である。ともかく、詩はシューベルトのもとにわたって、シューベルトはレルシュタープの詩による少なくとも8曲からなる歌曲集の成立を目指して作曲に取りかかった。しかし、実際に完成したのは『白鳥の歌』所収の7曲にとどまり、歌曲集のトップに据える予定であった『生きる勇気』D937 は未完成に終わった。『生きる勇気』が完成しなかったことは、『白鳥の歌』の構成に少なからぬ影響を与えることとなる。

ハイネ
ハインリヒ・ハイネの詩による6曲の歌曲は、いずれも1826年出版の『歌の本(ドイツ語版)』に拠るものである。

従来「シューベルティアーデ」と呼ばれる内輪な音楽会を開いていたシューベルトの友人たちは、「シューベルティアーデ」が最終回を迎える直前の1828年1月12日に読書会を開き、そこでシューベルトは『歌の本』と出会う。『歌の本』から選び出された詩による6曲の歌曲は8月ごろにはすべて完成し、10月に入ってライプツィヒの出版社プロープストに歌曲の出版を要請する手紙が出されている。シューベルトが当時、金銭的に困窮していたからであった。

なお、ハイネはシューベルトが自分の詩に作曲したことは耳にしており、のちにヨハネス・ブラームスの師となるエドゥアルト・マルクスゼンに宛てた1830年11月18日付の手紙の中で、「死の直前に私の詩にすばらしい音楽を作曲をしたそうだが、残念ながら私はまだ聴いていない」と記している。ハイネが実際に聴く機会があったのか、またその評価のほどなどは一切不明である。

ザイドル
ヨハン・ガブリエル・ザイドルはレルシュタープ、ハイネ両人とは違ってシューベルトの仲間の一人であり、過去にはザイドルの詩による『さすらい人が月に寄せて』D870、『ちがい』D866-1および『男はたちの悪いもの』D866-2といった作品が生まれている。シューベルトにまつわる俗説としては「優れた詩を選ぶ能力に欠けていた」というものがあるが、そもそもシューベルトは自分の感性を刺激する詩に出会えば、憑き物がついたかのように作曲するのが常であったし、詩の選択に関して言えば、シューベルトはむしろ厳しい目を持っていた。それがたとえヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの詩であっても、感性が刺激されなければ作曲する気が起こらなかった。ザイドルも1828年に、シューベルトの拒否を受けた一人として記録されることとなる。

出版
『白鳥の歌』所収の14曲は、おおむね1828年8月ごろには完成した。しかし、シューベルトは1828年11月19日に亡くなり、作曲された14曲は遺作として残されることとなった。遺作は死の翌年の1829年4月、出版商トビアス・ハスリンガーの手によって出版されることとなるが、その背景にはシューベルトの借金を少しでも返済したいという実兄フェルディナント・シューベルトの計らいがあった。『白鳥の歌』の題名はイソップ寓話に由来する。

もともとシューベルトは、レルシュタープとハイネによる歌曲集を作家別あるいはひとまとめにして世に出そうと考えていたという説がある。上述のように、レルシュタープの詩による歌曲集を最低8曲構成で計画したり、金銭的な理由によりハイネの詩による歌曲集だけを先立って出版しようと試みた、あるいはハイネの歌曲集にあと数曲追加する意図があった背景もある。ところが、ハスリンガーは遺された未完の歌曲集を「吟味もせず結びつけ」、また『生きる勇気』が未完成だったこともあって、代わりにザイドルの詩による歌曲を1曲付け加えて「内容とは無関係の表題のもとに集められることになった」。シューベルトの重要な友人の一人であるヨーゼフ・フォン・シュパウン(英語版)の回想によれば、(ハスリンガーの手が入らない)歌曲集は友人に献呈する予定であった。

構成
レルシュタープの詩による歌曲(7 Lieder nach Gedichten von Ludwig Rellstab)
全体として抒情性が基調となっている。

第4曲「セレナーデ」(Ständchen)
ニ短調、4分の3拍子
シューベルトの歌曲の中で最も有名なものの一つ。恋人に対する切々たる思いを、マンドリンを模した伴奏の上に歌いあげる。

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