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『稲盛和夫一日一言』 10月17日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 10月17日(火)は、「偽・私・放・奢」です。

ポイント:リーダーたるべき人は、中国の古典にあるように、「偽」「私」「放」「奢」の四つの思いから離れた、人格高潔な人間でなくてはならない。

 1998年発刊の『日本への直言 夢と志ある社会を求めて』(稲盛和夫著 PHP研究所)の中で、「偽」「私」「放」「奢」の患いから離れよ、として、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 政財界では、「コーポレート・ガバナンス」(企業統治)についての議論が盛んに行われています。これからは日本でも、監査役の強化や社外役員制などといったシステムが確実に広がっていくでしょう。

 しかし、経営者、あるいは政・官界のリーダーたちの考え方自体が荒廃していればどうしようもありません。つまり、正・不正、正邪を判断できる内的規範が確立されていなければ、そうした制度をつくったところでうまく機能しないのではないでしょうか。

 最近の不祥事を見ても、リーダーの人たちに欠如しているのは、人間として最も基本的な、ごく当たり前の倫理観です。ほんとうに不祥事が起こらないようにしようとするならば、経営を監視するシステムをつくる以前に、リーダーとしての立場に立つ人が、人間としての普遍的な価値観に基づいた、内的規範を確立することが最も大事だと思うのです。

 それでは、人間の普遍的価値観に基づいた内的規範とはどのようなものでしょうか。それは、一般的には私たちがかつて持っていた宗教心、それが教える道徳、倫理、または修身といったものに求めることができるでしょう。

 もしそのような宗教的なバックグラウンドがないとするなら、少なくとも現在の政・官・財、各界における指導者たちは、東洋でいう「道」(タオ)に沿ったものを内的規範、判断基準として持つべきです。
 つまり、「私」を立てず、自然が教える「何が正しいのか」という「道」に則り、「大道」に即した、いわば「天道」と呼ぶべき基準を持つべきだと思うのです。

 別の表現をすれば、リーダーたるべき人は、中国の古典にあるように、「偽」「私」「放」「奢」、この四つの思いから離れた人間でなくてはならりません。すなわち、偽りがあってはならないし、利己的であってはならないし、わがままであってはいけないし、奢りの心があってはならない。簡単にいえば、リーダーとなるべき人は、「私」がなく、人格高潔な人でなければならないということです。

 私たちは、実利、実用一辺倒で、迅速によき結果が出ることを求めて、器用で役に立つ人をリーダーに選んできました。その結果、その人たちが高潔な人格ではなかったために「私」が増長され、利己的に動いて現在に至ってしまった。私には、そのことが頻発する不祥事の根幹にあるように思えてなりません。(要約)

 こうした考え方の背景には、「いかに自由で民主主義の社会といえども、その中で誰もが自分の都合と利益だけを考え、自由気ままに行動してもいいというわけでは決してない。誰もが自由という状態の中で社会を正常に機能させるためには、誰もが自分自身の中に、自らの行動を制御する厳しいモラル、内的規範が必要である」との名誉会長の強い思いがあるように思います。

 つまり今日の一言では、「富を生み出し、多くの従業員を雇用している経営者は、誰から見ても正しい判断基準を心の中に確立していなければならないし、当然のことながら、それは自分の会社にとって何がよいかということでもなければ、経営者個人にとって何がよいかという基準でもない。一企業や一個人としての利害損失を超えて、人間として普遍的に正しい判断基準を持つべきである」と説かれているわけです。

 現世に生きる一人の人間として、誰から見ても正しいと思える、ブレない普遍的な判断基準を持って、残りの人生を全うしていきたいものです。



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