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『稲盛和夫一日一言』 11月29日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 11月29日(月)は、「人間的成長の分水嶺」です。

ポイント:苦難に直面したとき、打ち負かされて夢を諦めてしまったり、いい加減なところで妥協してしまったりするのか、あるいは苦労を苦労とも思わず、ひたむきに努力を重ねることができるのか。そこに人間的成長の分水嶺がある。

 2008年発刊の『「成功」と「失敗」の法則』(稲盛和夫著 致知出版社)の中で、「試練を通じて人は成長する」として、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 人生を終えるとき、立派な人格者になっている人もいれば、そうでない人もいます。その違いは、人生を歩む中で、自らを磨き人格を高めることができたのかどうかにある、と私は考えています。

 そのことは、次のように例えることができます。
 人間はこの世に生を受けたときは原石のようなものであり、後天的に磨き上げることではじめて、光り輝く宝石のような、素晴らしい人格者になることができる。

 では、どのようにして、自分を磨いていくのでしょうか。
 私は「試練」を経験することが、人間を大きく成長させてくれるチャンスになると考えています。

 明治維新の功労者である西郷隆盛もそうです。西郷は、子どものころは「ウド」というあだ名の、目立たない子どもだったといいます。ところが、後には勝海舟をはじめとする幕末の偉人たちを感嘆させたほどの人格者となり、明治維新の偉業を成し遂げています。

 西郷は、人生において、さまざまな試練に遭遇しています。例えば、若いときには、親友であった僧月照(げっしょう)とともに、鹿児島の錦江湾に身を投げ、自分だけ蘇生するという経験をしています。

 また、遠島(えんとう)という不遇を二度も経験しています。特に二度目は、島津久光の逆鱗に触れ、鹿児島から遠く離れた沖永良部(おきのえらぶ)島に流され、風雨が直接吹き込む狭い牢獄に閉じ込められるという悲惨な目に遭っています。

 しかし、そのような逆境の中にあっても、西郷は東洋古典の耽読(たんどく)などを通じて、自らを高める努力を怠りませんでした。苦難に耐え、むしろ苦労を糧(かて)として、人格を磨く努力をひたむきに続けたのです。

 その後、許されて島を出た西郷は、高潔な人格と識見を備えた人物として人々の信望を集め、やがて明治維新の立役者となります。
 この西郷の人生は、「試練」に遭遇したとき、どのように対処するかということが、人生においていかに大切なのかということをよく表しています。

 苦難に直面したときに、打ち負かされて夢を諦めてしまったり、いい加減なところで妥協してしまうのか、それとも西郷のように、苦労を苦労とも思わず、ひたむきに努力を重ねることができるのか。そこに人間的に成長できるかどうかの分岐点があるのです。(要約)

 上記は、『稲盛和夫一日一言』10月29日「成功と失敗の分水嶺」の項でも紹介した内容です。

 「損をしてでも守るべき哲学、苦を承知で引き受けられる覚悟、そうしたものが自分の中にあるのかどうか。それこそが、本物の生き方ができるか、成功の果実を得ることができるかどうかの分水嶺になるのではないか」と名誉会長は述べられています。

 「試練を通じて人は成長する」の項のまとめは、次のようになっています。
 苦難に対しては、真正面から立ち向かい、さらに精進する。また、成功に対しては謙虚にして驕らず、さらに真摯に努力を重ねる。
 そのように日々たゆまぬ研鑚に励むことによってのみ、人間は大きく成長していくことができるのです。

 京セラ在籍40年の間、「修羅場はくぐってきたか」と幾度となく問われてきました。
 「修羅場」には、「血みどろの激しい戦いや争いの行われる場所、また、人形浄瑠璃・歌舞伎・講談などで、激しい戦いや争いの演じられる場面」といった意味がありますが、そうした壮絶ともいえる現場をどれだけくぐりぬけてきたかで、その人の人間性、人間力の高まりが変わってくる、ということを、名誉会長はじめ先輩諸氏は身を持って実感されてきたからこその問いかけであったと思っています。

 「試練」=「修羅場」とすれば、その深さと頻度と経過時間を掛けて累積したものが、それぞれの人が持って生まれた原石を磨き上げる「磨き砂」となって、その人の人生が経過していくのだろうと思われます。
 生きているうちに少しでも多くの「磨き砂」にまみれることでより人間性を高め、人生の終焉を迎えられればと願っています。


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