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撮る時にはなにも考えない、たくない。


明日も撮影です。
撮影前日の夜は毎度ナイーブになっている。

写真を撮りに行くんだけどさ。
撮れるかもしれないし撮れないかもしれない。
何かが写るといいなとか、何か起こるといいなとか。ギャンブルか。

当日になって写真を撮り始めても、途中まではそんな気持ち。いろいろお互いに考えている間はだめなのかもしれない。

段々疲れて集中力が散漫になってきて思考の支配が薄れてくるとき。やっとそれくらいから人間の形にみえてくる。

的確な指示を出してテキパキと必要なカットを短時間で撮っていくフォトグラファーと比べると、随分鈍臭いスタイルだなぁといつも思って、それに付き合ってくれる人達には申し訳ない気持ち。なんだけど、前述のスタイルできまった写真がどれだけあっても、セレクトの時に全部はずされる。

まだね。相手に遠慮がある。

これはサービスした写真でしょ?
作家としてのあなたが写したいことではないでしょう?

写真を見る玄人達はそれをやすやすと見破ってくる。

今日は何の写真だったのか。何が写ったのか。
帰ってきてから考える。考えすぎて2~3日寝込んだりする。録音したインタビューをききながら文字起こしをして、文章を書き始めるとその実体が少しだけ見え始める。

それに沿って必要な写真とそうでないものを選択していく。そうしているうちにやっと、あの日写真を撮れたのか撮れなかったのかの答えが出る時もある。

インタビューは先にすることもあれば、撮影後になることもある。前と後でするときもある。その時は大体内容が変わっていたりする。撮影後の方がより真実味のある話になる場合もあれば、高揚してるから普段と違う気持ちになって違うことを言っている時もある。だからどっちがいいかは、人によるしその時によるし両方やってみなければ分からないの。あるいは、2回、3回と必要なのかもしれない。

ちゃんと撮れている時は、撮った後にインタビューをしていても、必要なピースが写真の中にあったりする。そんな時は、ほんとにありがとうっていう気持ち。

撮ってる時に何も考えずにいたい。腕にカメラがくっついた動物かなんかになりたい。家で1人になってはじめて人間に戻ってそれからは思考の作業。

自分の人間力も育てる必要があるんだろう。

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