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待っていて


待っていて

 新品同様のスーツを着た青年とすれ違った。鈴村は振り返って、彼の後ろ姿を見送る。それは新しい春が来ることを、天気予報で知る気温や、カレンダーの数字よりも雄弁に物語っていた。
 鈴村は、広大な公園の中を通る。
 やがて、数人の男女が集っているのを見つけた。通り過ぎようとしたが、男女が何故か、一様に同じところを見上げているものだから、気になってしまった。鈴村は立ち止まって、一緒に見上げる。視線の先は、公園にある、なんのために存在しているのか分からない高台の上だ。円錐を中間で真っ二つに切り取ったような、石造りで無骨な高台だ。
 鈴村は訝しんで、じっと見つめていた。そこに、一体なにがあるのか。
 
 すると、唐突に男女は鈴村の方に笑顔を向けた。呆気にとられて、驚きで見開かれた目をそのままに、固まってしまった。
 どこからか男が現われる。硬直したままの鈴村の肩に手を置き、笑いかけた。その笑みは、ちょっとした悪戯を仕掛けた子供のように、照れが入り交じったようなものだった。大学生くらいに見える。男は軽く頭を下げて、喋り出した。

「すみません。ちょっと、実験中でした」
「これは、一体」
 鈴村は、ぱくぱく口を開閉させる。口を開閉することで、この奇妙な事態を飲み込めると思っているみたいに。
「僕たち、心理学的な実験をしていたんですよ。同調効果って、知ってます?」
「周りに合わせること?」
「はい、そうです」
 笑顔を絶やさず、男はフリップを胸の前に掲げた。鈴村は気がつかなかったが、ずっと手に持っていたようだ。こんな風に説明できるように、常に準備しているのだろう。
「ここに三本の線がありますよね。これ、どれが一番長いと思いますか?」
「え、えーっと」明らかに長い線を指差そうとした。
「僕たちは全員、この線を長いと思いました」
「え?」
 男は鈴村より先に線を指差してから、男女に目を向ける。なあ? とでも言うように顔を傾ける。男女は首肯する。鈴村だけが首を傾げていた。どう見てもそれは、一番長いようには見えなかった。

「どれが一番長いと思いますか」
 鈴村はしばらく逡巡してから「じゃあ」と言って、男が指差した、二番目に長いように見える線を、選んだ。
「これが同調効果ですよ」
「ええ?」
 男の顔は愉快そうに綻んでいる。
「本当は、この線が一番長い」
 それは、鈴村が最初に選ぼうとした線だ。
「じゃあなんで」
「人は、周囲の意見に流されてしまうことがあるんですよ。いくら間違っていないことだとしても、他の大勢が違う意見なら、そっちを選んでしまう」
「ああー、そういうことってありますよね」
「はい。同調効果です。あなたはここに来たとき、僕の仲間がなにもないところを見つめていたら、見事に釣られましたね。そこになにもないのに、です」
「それも?」
「僕たちはこういう場所で、同調効果の実験をしているんです。勝手に実験対象にしてしまって申し訳ありません」
 男は深々と頭を上げる。それに引っ張られるように、男女全員が頭を下げた。鈴村は戸惑い、「いやいやそんな」などと言っていた。実験対象になったことに、不快感はなかった。面白そうな実験をしているな、と羨ましくなったくらいだ。

「これからお仕事ですか?」
 頭を上げた男が、おもねるように尋ねてきた。人懐っこい性格なのかもしれない。
「ああ、俺は」鈴村は手提げ鞄から、中学校の教科書を取り出し「家庭教師ですよ」と言った。
「家庭教師、いいですねぇ」
 腕時計を確認すると、約束の時間が迫っていた。
「ヤバい。もう行かなきゃ」
「あ、ごめんなさい。邪魔しちゃって」
「いやいや、いいよ」
 鞄のチャックを閉じ、この場を後にしようとする。手を振って、一歩踏み出す。
 踏み出した後で、はっとしたように振り向いた。改めて、あのなにもない石造りの高台を見た。
「どうかしたんですか?」
 男が心配そうに尋ねる。鈴村は我に返ったように視線を男に戻す。「あ、いや」と口ごもる。一瞬だけ悩んで、小さな声で言った。
「あの高台って、なんのためにあるの?」
「さあ?」男は高台を見て、すぐに頭を振った。「なんかのオブジェでしょうね」
「ヒーローかなんかが現われそうじゃないか?」口にしてから、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「え、ヒーロー?」
「うん。あんな高台に立ってさ、助けに来たぞ、なんてね。似合いそうだと思って」後半の声は、気恥ずかしさで消え入りかけていた。「いや、俺、日曜朝の特撮が好きでさ」と聞かれてもいないのに、言い訳する。
 男は少し間を置いてから、笑顔で「ヒーロー、いいですねぇ」と言った。
 いいですねぇ、がきっと彼の口癖なのだと、鈴村は推測した。
「じゃあ、これで」
 鈴村が、逃げるように去って行く。時間が押しているのもあって、早足になる。ノートを開いて準備している生徒がいる。待っていてくれ、と気持ちがはやる。
 2011年の、3月7日のことだった。

「地理の勉強って、本当にいらないよな」
 新島次郎は伸びをしながら、向かいに座る鈴村に愚痴った。
 一つのちゃぶ台を挟んだ授業は、ほとんど遊びに近いような緩い雰囲気を漂わせていた。雑に広げられた教科書とノート。それらから逃れるように、隅の空いているスペースに置かれた湯飲み。緑茶の湯気が、これまた緩く空中に流れていく。
「どうして、そう思うんだ?」
 鈴村は怒るわけでもなく、少しだけ目を大きくした。
「近畿地方の工業地帯について学んだって、役立たないじゃん。数学は、なんだかんだ役に立つかもしれないけど、地理は本当にいらないよ」次郎は吐き捨てるように「そもそも、ここは関東だしさ」と続けた。
「大人にならなきゃ、役に立つかどうかなんて分からない」
 次郎はふん、と鼻を鳴らす。「絶対、役に立たない」
 彼は苛立ちを発散するように、教科書の上にぐしゃぐしゃと落書きをした。中学の、地理の教科書だ。たった今描かれた乱雑な線の他に、様々な幾何学模様が残されている。
 
 新島次郎は不登校の中学二年生だ。
 授業に出ないから、学力が周りよりも劣っている。都道府県の位置を憶えたのは、つい先週のことだった。
 いじめがあったわけではない。嫌な出来事もない。ある時、急に学校に行くことが嫌になったのだ。母親はどうしたらよいのか、解決法が思いつかず、とりあえず学力だけでもどうにかしようと家庭教師を雇ったのだった。
 やってきたのが、鈴村だ。

「先生は」次郎は鈴村に話しかける。鈴村は先生と呼ばれることに、最近ようやく慣れてきた。「どの教科が役に立つと思う?」頬杖をついて、怠そうに質問をする。
「役に立つっていうのが、曖昧な気がするけど」鈴村は少し考えて「英語とか?」と答えた。
「英語? どうして。海外に行かなきゃ役立たないよ」
 その物言いは、一生国内で過ごすと言っているようなもので、鈴村は笑いそうになった。
「あと数年後、次郎が成人する頃にはさ、日本にはもっと外国の人がやってくると思うんだよ。だから、日本語だけじゃコミュニケーションが難しくなる。俺はそう思ってるけど」
「外国人が、日本語を覚えればいいんだよ」
「それは、かなり傲慢じゃないか?」鈴村は小さく笑った。
 次郎は、完全に手を止めていた。鈴村はそれに気がついていたが、強制することはなかった。勉強したくないというのなら、いつまでも休んでいたらいい。そう考えている。
 鈴村は緑茶を飲み、言う。
「で、外国の人がたくさんやってくるとするだろ。会話をするよな。相手がカナダ出身だって自己紹介して、次郎が『それってどこの国?』なんて言ったら」
 すると次郎が遮って「カナダぐらい知ってるよ。アメリカの間にある国だろ」と口を尖らせた。
「ごめんごめん。仮の話だよ」
 鈴村は謝る。謝りながら、頭の中では「なんでカナダってアメリカに挟まれているのだろう」といったことを考えていた。
「で?」次郎は不機嫌そうだ。
「もしも、カナダってどこの国なんて聞いたとして、相手が怒り出したらどうする? 怒り出して、殴りかかってきたら? ああ地理を勉強しておけばよかったなぁ、って思うだろ?」
「嘘。カナダ人ってそんなヤバいやつらなの?」
「違う違う。でも、百人くらいいたら一人はそういう人がいても、おかしくないよ。どこの国でもさ」
 次郎は微妙に納得していない様子で、シャーペンの尾の部分をこめかみに当て、ぐしぐしと擦っている。眉間に皺が寄っていたが、鈴村にはそれが、自分は不機嫌だぞ、というあからさまな意思表示に見えた。
 渋々、といった感じで、次郎は勉強を再開した。『阪神工業地帯』と書いている。機械工業が盛んなんだっけ、と家庭教師にあるまじき疑問を、鈴村は抱いている。
 
 誰にも見せるつもりがないからか、ノートの文字は汚い。それを見下ろしながら、鈴村は考えた。そして、口を開く。
「でもさ、本当に必要なのは、人を助ける勉強だよな」
 次郎の手がまた止まる。「どういうこと?」
「いくら因数分解したって、英語の文法を憶えたって、目の前で困っている人を助けられなかったら、意味がない。人のための勉強が大切なんだよ」
「人のためって? 俺が言えたことじゃないけど、数学とか英語とかも、人のためになるんじゃないの。頭のいい大学を出た人が、よくそんなことを言ってるじゃんか。人のためっていうものの、定義が分からないよ」
「あっ、定義って言葉を使うなよ。それは、あまり頭のいい言葉じゃないぞ」
「先生って、前にもそんなこと言ったよな。そうだ。最初に来たときだ。ヒーローみたいになりたいとか。子供みたいだった」

 最初の授業は、まずお互いに心を開かなくてはならなかった。次郎は完全に心を閉ざし、檻に入れられた猛獣のような目で睨み付ける。対する鈴村は、不登校の中学生にはどう接するのが正解なのか判断できず、酷く狼狽していた。時間だけが無為に過ぎていく中、苦し紛れの一手を打つ。自分の好きなものを教えた。
 少年時代、好きだったヒーローの変身ポーズを決めて、次郎を動揺させた。結果的に、それが正解とまではいかなくても、正解への道筋をつくることになった。
「なあ次郎。お前がなにか困っているなら、すぐに俺を呼べよ。俺はすぐに駆けつけて、なんとかするから。手を振って、待っていてくれ」
 次郎は「なんて無責任で浅いことを」と鼻白んだが、鈴村の真っ直ぐな目と、あまりに幼い発言に思わず噴き出してしまった。鈴村が続けて「まあ、できる範囲で」と素直に臆したことも、逆に次郎の心を開くきっかけになった。

「今でも先生は、ヒーローになりたいと思うの?」
 次郎は尋ねた。
「ああ、もちろん」
 目尻に皺を作って、鈴村は即答した。「だって、誰かを助けるの、格好いいだろ?」座ったままで、両手を天に掲げてから、胸の前で角度を作る。
 上半身だけで、変身ポーズを決めた。
 下心があるような気もしたが、次郎はむしろそっちの方がいいと笑った。

 やがて日が暮れて、終わりの時間がくる。
 今日だけで近畿地方の全部が分かったな、と鈴村は大げさに褒めた。次郎も、口では素っ気なかったが、内心では満足していた。
「じゃ、今度は一週間後ですね」
 次郎の母親が玄関まで見送りに来た。
「次郎、来週までに、予習をしておけよ」
 手を伸ばし、次郎の肩を軽く叩いた。まるで、試合に出るスポーツ選手を、激励するかのように。優しいコーチの助言に、将来有望な選手は「まあ、それなりにね」と頷いた。
 こうして、鈴村は新島家を後にする。
 そして、次に訪れるときは一週間後ではなかった。
 四日後、東北で、未曾有の大地震が起きたのだった。

   ○

 3月24日。次郎はテレビを見ていた。ポテトチップスを頬張りながら、なにも考えていないような目で、画面を眺める。
 画面では、津波に呑まれて粉々になった家屋が映されている。画面が切り替わり、津波が押し寄せる瞬間を捉えた、過去の映像が流れ始める。もう、何度も見た映像だ。しばらく見ていたが、ため息をつき、チャンネルを変えた。そのチャンネルでも、使い回しのように似た映像が流れていたから、次郎はついにテレビの電源を切った。ゴミを捨てるように、リモコンをソファに放り投げる。リモコンはソファで弾み、鈍い音を立てて床に落下した。次郎はそれすらも、呆けた顔で眺めていた。
 地震が起きて、世界が変わった。と次郎は感じていた。
 あの日、次郎は家にいて、地理の勉強中だった。なんの因果か、東北地方のページを開いていた。
 初めのうちは、ちょっと大きな地震だな、程度に思っていたが、徐々に振動が増して、居間で食器の落ちる音が聞こえた頃には、次郎はちゃぶ台の下に潜り込んで、未知の恐怖に怯えていた。世界が変わった。思わず外に飛び出して、不自然なくらいに静まりかえった空気にあてられて、そう思わざるを得なくなっていた。
 
 余震が発生する。
 急激に動悸が激しくなる。瞬間的に身体を起こし、いつでも動ける体制を整えた。やがて大きなものでないことが分かると、長く息を吐き、腰を下ろした。
 しばらくノートも教科書も開いていない。何故か、やる気がなくなっていた。鈴村が来るようになってから、勉強への意欲が湧いていたはずなのに。地震の後、無情にも、その意欲は消し去られてしまった。勉強どころか、ちょっとした行動も億劫になっている。
 緊張が解けたからか、欠伸が漏れる。
 どうしようかな、と思っていると、唐突に電話が鳴り響いた。再び身体が跳ねる。あれ以来、物音に敏感になっているようだ。
 おそるおそる電話に出る。

「次郎か?」
「え、先生?」
 鈴村だった。どこか、切迫した雰囲気があった。
 地震の後は電話が通じないことが増えて、鈴村との、一週間後の授業の件については自然消滅していた。かなり深刻な状況だから、積極的に通話をしようとは、次郎も、母親も考えなかった。
「よかった。無事なんだな」
「大丈夫だよ。俺は自分の家に引きこもっているんだから」
「なあ、近くまで来てるから、会わないか」
 次郎は悩んだ。久しぶりだから会いたいという気持ちもあるけど、会ったからといって、なにがあるというわけでもない。どちらかというと、自分の体たらくを見られるのが恥ずかしくて、会いたくないというのが本音だった。けれど、鈴村の真面目な声と、せっかく近くに来ているのだから、という申し訳なさが勝って、出かけることに決めた。
 持っていった方がいいかな、と教科書を見下ろす。
 手を伸ばしかけ、引っ込める。

 
 駅のパン屋で、二人は待ち合わせた。食事スペースで向かい合って座る。「俺、ここのパンが好きなんだよ」と独りごちるように鈴村は言う。メロンパンをかじりながら、次郎は久しぶりの鈴村を見つめた。大きな変化はないが、以前より痩せたように思えた。
「次郎、少し太ったんじゃないか?」
 反対に、鈴村は次郎の体型を見て苦言を呈する。
「ストレスだよ」ぶっきらぼうに言う。「自分で分かるよ。ストレスで馬鹿食いしちゃってんだ」
「ストレスか。地震も、大陸のストレスだよな」
「先生。ストレスって、圧力をかけられた状態のことを言うんだって知ってた? 外からの圧力自体のことは、ストレッサーって言うんだよ」
「そうなのか? じゃあ、大陸のプレートに潜り込んでいく海のプレートは、ストレッサーか」
 鈴村は甘そうなクリームパンを食べている。
 パン屋は、地震が関係しているのか判然としないが、客がまばらだった。食事スペースにいるのは鈴村たちだけだ。なんとなく、誰もいないからといって騒ぐ気にはならない。むしろ、気を遣うように、静かに話し合った。
「どうせ、勉強してないんだろ」鈴村は茶化した。
「してたよ。地震の日まではね」
「そっか」
 どれだけ明るく振る舞おうとも、二人の脳内には地震と津波によって惨憺たる光景となった東北の街が思い浮かび、すぐ口を閉ざしてしまう。
 計画停電で暗くなった街並み、帰る家が無くなった人々。大事な子供を失った母親、父親。これを機にとばかりに、政治批判を始めるデモ隊。地震の影響、と張り紙を出してシャッターを閉める近所の商店。
 不安の黒雲が、日本全国を覆っている。

「先生は、なにをしてたの?」
 次郎は勉強していなかった後ろめたさもあって、目を逸らしながら尋ねた。
「俺は、なにもできなかったよ」
「そうなんだ」
「テレビのニュースを見て、インターネットを見て、だけど行動はできなくて。歯がゆい思いをしてたって感じだ」
「ヒーローを目指してるのに?」
 鈴村は、痛いところを突かれたとばかりに顔を歪める。
 からかうように言うつもりだったのに、思わず糾弾するような声色になってしまった。次郎は、自分で自分の発言に、大きな違和感を持った。

「そうだよなぁ」
 鈴村はクリームパンを食べ終え、手をぱっぱと払って屑を落とす。
 その様子が、なんだか淡泊で、ヒーローとは無縁の諦観を感じさせた。次郎は妙に嫌な気分になって、つい声を荒げてしまう。
「ヒーローは、人を助けるんじゃなかったのかよ」
 鈴村は驚いた表情をした。
「できる範囲で、なんて言って誤魔化さないでよね」
「そんなつもりはないよ」
「なにもできなかったんでしょ?」
「そうだけどさ」
「困ったときには、すぐに駆けつけるとか言っておいて」
 そこまで勢いで言ってから、次郎は後悔した。これではただの愚痴だ。もしくは自制することを知らない子供の我が儘、感情の吐露。馬鹿馬鹿しい。
 鈴村を見ると、やっぱり当惑している。次郎は「もう、いっそのこと吐き出そう」と開き直る。
「ヒーローなんて、創作でしかないよ」
「次郎?」
 鈴村は、思いもよらない言葉を浴びせられたかのように狼狽え、目を泳がせた。これは、まるで最初に出会った時のようだった。お互いの心が、再び閉じ始めている。

「ご両親はどうしてる?」
「別に。普通だよ」言ってから、言葉が足りていないと気づく。「俺が不登校だってことに、ついこの間キレたけどね。ああ、あれもストレスだね。地震と同じ。ストレスの爆発」
「ごめん」
 鈴村は、次郎が喋り終える否や、頭を下げた。今度は次郎が困惑し、「なんで謝るの」と口をもごもごさせながら言った。鈴村はしばらく頭を下げていた。
「先生、謝ってほしいなんて言ってないでしょ」
「駆けつけるって言ったくせに、約束、守れなかった」
「約束なんてしてないって」
「いや、違う。約束していなくたって、駆けつけるべきなんだ」
 鈴村の表情は真剣そのもので、次郎は気圧された。
 自分の不用意な発言が、過ちだった。次郎は咄嗟にそう思った。先生は、そういう人だ。大真面目に、人を助けたいと思って、ヒーローに憧れている。自分が愚痴を言っても、苦しめるだけだ。
「先生、俺、大丈夫だよ」
 次郎は椅子から立ち上がった。静かなパン屋に、椅子の脚で床を擦る音が響く。
「次郎、待って」
「大丈夫だって。先生も忙しいでしょ。俺のことよりも、自分のことを気にしてよ」
 次郎が改めて観察すると、鈴村の頬はこけていて、この数日間で精神が摩耗していることを推測させた。この人に不平を漏らすのは、間違っている。
「先生、しばらく家庭教師はお休みだよ。落ち着いたら、また頼むね」
「おい」
 鈴村は手を伸ばすが、その手の行き場はどこにもないと悟り、弱々しく下ろした。
 ドアから出て行く次郎の背中に、鈴村は声をかける。
「次郎」
「なに?」
「待っていてくれ。ヒーローは、必ずやってくるから」
 次郎は、曖昧に笑った。
「期待しているよ」
 
 どうしたらよかったのか。どうすれば鈴村の優しさに報いることができるのか。帰り道、次郎はそのことについて深く頭を悩ませた。小石を蹴って、自分の発言を省みる。やがて小石は側溝に落ちて、下水に流されていった。自分は、あの流れていく小石のように、時代に飲まれていくしかないのだろうか。そう考えると、ますます気分が落ち込み、景色がむなしいものに見えてきた。ローリングストーン。そんな単語を思い出した。
 流されるままに生きる。いや、そんな意味ではなかった気がする。
 次郎は、鈴村の「英語は役に立つ」という発言を思い返していた。ローリングストーンって、どんな意味だったか。
 英語を勉強したいな、と思い始めた。
 そんな矢先に、また余震が起きた。次郎は、肩をふるわせてから、気分を晴らすために、むりやり頭を振った。
 黒雲が覆っている。

 地震が起きて、一年と三ヶ月が経過した。
 鈴村は老人ホームから家に帰ろうとしていた。
 自動販売機で微糖の缶コーヒーを買って、座るところでもないかと散策していた。すると、一人の男が視界に入った。どこかで見た顔だ、と目を凝らしていると、男がこっちに向かってきた。慌てて顔を背けるが、もう遅い。
「あの」と、男は鈴村に声をかけた。
「あ、はい、なんでしょう」
 鈴村の間の抜けた声に、男は微笑した。
「懐かしいなぁ。憶えてますか? ちょうど一年前くらいに、同調効果の実験に付き合ってもらったんですけど」
 やや間を置いてから、「ああ!」と声をあげる。男の微笑みには、憶えがあった。
 公園で、テレビのバラエティじみた実験をしていた。面白い実験をしているものだと、鈴村は思っていた。
「実験は、あれからどうですか」
 男は首を横に振る。
「地震で、大学も休講で。なんだかよく分からないままに、なかったことにされました」
「それは」鈴村はどこで言葉を失った。残念だ、と薄ら暗い気持ちになる。
「家庭教師はどうですか」反対に、男が尋ねる。
「あれから、仕事はなくなりましたよ」
 パン屋での会話が、鈴村の頭の中にはあった。仕事はなくなった。それだけだ。
 男は、まるで鈴村の身内が死んだかのように、目を伏せて同情した。大げさな、と手を振る鈴村の顔は、彼自身が思ったよりも明るくならず、神妙な雰囲気が二人を包んでしまった。

「老人ホームには、ご家族が?」
 鈴村は話題を切り替えた。口にしてから、どっちにしても明るい話題にはならないな、と思った。
「ええ、祖母が。ああ、そう考えると偶然ですね。あなたもこの老人ホームに、家族が?」
「ああ、いや。俺はボランティアですよ」
 男は驚いて、「ボランティア、いいですねぇ」と顔を綻ばせた。「いつからやってるんですか? 地震の後に?」
「一応、家庭教師の仕事があった頃から並行してやっていたんですけどね。地震が起きてから、仕事が増えたんですよ。不安になるお年寄りが多くてね」
 男は黙し、鈴村の話を聞いていた。それから、重い話を打ち明けるように、ゆっくりと口を開いた。

「知っていますか。地震の後、自殺者が減ったんですよ」
「えっ?」
「それは、同調の論文を漁っていて知ったことなんですけどね」
「ああ、まだ研究自体はしているんだ」
「過去の災害でも、事例はありました。おそらく、連帯感が影響しているのではないかといわれています。みんなが不幸になって、復興のために力を合わせる。そのときには、それまで苦しんでいた人でも、自殺を思いとどまるらしいです」
 その話を聞いて、鈴村は少し思索に耽った。苦しんでいる人が、周りに合わせて死から遠ざかる。なるほど、一種の同調効果か、と。それから、不登校の少年を、思い出した。
「だけど、復興したらどうなる?」
「残念なことに、ある程度事態が収束したら、自殺者は増えるらしいですよ。それは、当たり前かもしれません。ただでさえ苦悩しているのに、酷い災害が起きたんですから。連帯感が消えたら、後に残るのは、今まで以上の苦痛でしょう」
 鈴村は、無意識のうちに歯を噛みしめていた。手に持っていた缶コーヒーが、べこり、という音を立てる。頭の中で、サイレンのようなものが鳴っている。災害の後に散々聞いたような、災害警報の音ではない。ヒーローの基地で鳴り響く、怪人が現われたと知らせるサイレンだ。それは、SOSのサイレンといってもよかった。

「同調効果というものは、強い力を持っているんですよ」
 男は、自嘲気味に笑った。自分の調べていたテーマが、災害と関係していることが滑稽に思えてしまったのかもしれない。
「俺は違う」
「え?」
 鈴村は、力強い声色で答えていた。
「俺は負けませんよ。今、俺にできることはまだありますから」
「あなた、僕たちの実験に引っかかったじゃないですか」
 男は鈴村の発言を冗談と受け取り、茶化すように言ったのだが、鈴村が表情を変えなかったので、すぐに考えを改めた。
「なにをする気なんですか?」
「助けに行かなくちゃいけない気がして」
「誰を?」
「あ、いや、特に誰というわけでもないんですけど」途端に目が泳ぎだす。しかし、意志は相変わらずはっきりしている。「ヒーローを目指しているので」
「いいですねぇ」男も、笑うことはしなかった。「負けないでくださいよ。震災にも、同調にも」
「はい」
 力強く答える。
 
 鈴村は、自分の中で響き渡るサイレンに応えていた。頼むよ。今から向かうから。家に帰れなくなった人も、苦しみが増した人も、不登校の少年も。必ず、駆けつけるから。
 具体的な方法が思い浮かばないことに、鈴村は苦笑してしまう。しかし、地上の暗澹たる様子とは裏腹に澄み渡る青空を見上げ、気合いを入れた。男が見えなくなってから、一人で、昔一番好きだったヒーローの変身ポーズを決めてみた。
「待っていてくれ。駆けつけるから」
 

 男が言った「同調に負けるな」という応援に、鈴村は応えた。
 鈴村はそれから約一年後、駅のホームで、線路に落っこちた中年を助けた。酔っ払いだった。線路に落ちても、前後不覚の状態で呻き声を上げる中年を、誰も助けようとはしなかった。
 すでに電車到着のアナウンスが鳴った後だからだ。
 人々が、為す術なく中年を見下ろす。
 鈴村は、停止ボタンが押されるよりも早く線路に降り立った。
 颯爽と中年に駆け寄り、肩を貸して、ホームに戻ろうとした。手をさしのべる人々に、中年を預けて、自分も上ろうと手を伸ばす。
 が、間に合うことはなかった。
 そのまま、鈴村は電車に轢かれて命を落とした。
 
 後の取材で、目撃者の一人は語った。
「ヒーローみたいだった」と。
 まるで創作だと、人々は鼻白んだ。

 次郎は、通信制の高校に入学した。
 それは、両親に対する謝罪を含めた勇気だった。頑張って、外に出るからという意思表示でもある。
 震災から三年が経った。地震の話題は少なくなり、東北以外では、平和な日常が戻っているように見える。それでも、東北の復興の様子だったり、チャリティのイベント開催であったり、決して忘れてはいけないのだ、と告げるように映像が流れる。次郎はそれらを見ながら、どこかで痛みを感じていた。

 高校に入ってから、体重は減った。せっかくだから、ランニングでも始めてみたら、と母親からの提案だ。最初は毛嫌いしていたが、やっていくうちに、気分が晴れて、続けようという気になっていた。
 社会には、未だ慣れない。人間関係は煩わしい。自分は、どこかでズレている部分があって、それが摩擦になるんだ。疲れるから、なるべく人から遠ざかりたいんだ。次郎は、そう自己分析していた。
 同時に、自分はいつかまた駄目になる、とも感じている。根本が解決していないのだからどうしようもない。紙飛行機が風に乗って、一時的に上昇したとしても、いつかは必ず地に落ちる。それと同じだ。
「ちゃんと勉強してる?」
 次郎の母親が、咎めるように声をかける。
 学校の課題が、テーブルに並んでいる。ペンは止まっていた。大丈夫だよ、なんて嘘をついて、次郎は急いで教科書を開いた。それを、母親は見逃さない。
「家庭教師、また雇おうか」
 次郎の肩が、ぴくりと動く。
「先生?」
「そりゃ、家庭教師だから一応は先生ね」
「ああ、そうじゃなくて。また、鈴村先生? ってこと」
「鈴村」母親は一瞬だけ記憶を探した。早い段階で、顔と名前が一致した。「ああ、でも、あの人は電話も繋がらなくなっちゃったし」
「そっか」露骨に、落胆する。
「どこに行っちゃったんだろうね」
 
 英語の教科書をぺらぺらめくりながら、彼と最後に話したことを思い出す。自分は、なんて馬鹿げたことを言ったのだろう。撤回できる機会は、やってこないのか。また、勉強を教えてくれないだろうか。先生だって、震災で気分が塞ぎ込んでいたはずなのに。自分の方が辛いみたいに、八つ当たりをしてしまった。どうにかして謝りたい。
 次郎は少し英文を書いただけで、すぐに突っ伏してしまった。
「どうしたらいいんだろ」
 誰に向けたものではない。自分に向けて、弱く呟いた。
 テレビを点けて、適当にチャンネルを回す。母親が「テレビ見ている場合じゃないでしょ」と釘を刺したが、構わず見続ける。震災の映像が、流れていた。
 ボランティアの人々が映されていた。次郎は特に興味があったわけでもないが、リモコンをゆっくり置いて、放置した。
 
 家屋の中の、瓦礫や泥を袋に詰めて、外に運び出しているようだ。複数の人が協力している。頭に手ぬぐいを巻いた、いかにも土木作業が得意、という雰囲気をしている人もいた。
 被災者だろうか。老婆が側でその様子を眺めている。カメラがその人に近寄ると、泣いていることが分かった。次郎は、再び痛みを覚えた。やはり、チャンネルを変えようかと、手をリモコンに伸ばす。
 一人の男が、老婆に駆け寄った。
「大丈夫ですよ。大切なものがあったら、ちゃんと取ってきますから」
 老婆の手を握り、必死に慰めている。そのまま振り向いて、他のボランティアの人に指示を出している。指示を出し終わるとすぐに老婆に向き直って、慰める。忙しそうだな、と思って見ていると、その顔が見覚えのあるものだと気がついた。
 
 男は老婆に話し続ける。
「大丈夫。これからも、なにか困ったことがあったら呼んでください。手を振ってさ。俺が、いや、俺たちが駆けつけるからさ」
 次郎は、目を離せなくなっていた。
 画面の右上にテロップが表示される。この映像は数ヶ月前に撮影されたものだ、と知らせている。次郎はちらりとそれを見ただけで、あとは男だけを注視していた。
「絶対に助けるから」
 視界が滲む。どうしてだ、と手を目にやると、指先が濡れた。
 母親が「ちょっと、テレビ消しなさいって」と言って次郎の方を向く。すぐに異変に気がついた。息子が泣いているのだ。動揺して、近くに寄る。
「ねぇ、どうしたの?」
 次郎は袖で涙を拭う。しかし、目は決して離さなかった。母親は不思議がりながらテレビを見る。しばらくしてから、「あっ」と声をあげた。
 次郎は、遅れて「分からない」と答えた。声は震えていた。鼻水も垂れる。わけも分からず、泣いていた。
「待っていて」
 男は、鈴村は、画面の向こうで、力強く老婆に声をかけていた。優しい顔で、少年のように強い光を瞳に宿していた。
「また、会えるといいね」
 母親は、次郎に言った。
 うん、と次郎は頷いた。「先生」と言った。「俺、ちゃんと勉強するから」震える声で、けれど確かな調子で、鈴村に向けて声を放った。
「予習しておくから」
 
 鈴村はテレビのカメラに気がついた。はっとした顔で、次郎たちの方を見る。戸惑った顔をしてから、腕だけを天に掲げる。くるりと回転させ、胸の前で角度を作る。昔のヒーローの変身ポーズを決めた。
 少しだけ恥ずかしそうだった。
 

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