乾杯

 缶チューハイの安い酔いに身を任せ椅子にもたれる男がここに一人 グラスに注ごうとしているジンジャエールウォッカ 酔いは人を原始に戻す

 乾杯 アルコール依存の父から教わった数少ない穏やかなコミュニケーション 酒を口にする前に、グラスをコツン と音を鳴らす それは挨拶、親愛の握手というよりは武道の前の一礼に近い 「あなたに敵意は抱いておりません」という動物的な本能のなし得る行為であるとも言える

 ただ一つ確実なのは 乾杯は他者の存在を以て成立するという事実のみである

 グラスを差し出す 目の前のテレビに オーディオに 眠りについた両親に 壁の外の冷たい暗闇に 道をオレンジに染める街灯に 慈愛を冷やす雨に 川に 雲に姿を隠す夜の隠れんぼに 食い古したキシリトールガムに ホコリを被ったコンセントプラグに よれた紙袋に 錆びた灰皿に 火打ち石弾く閃光に そして得た虚しい喫煙に

 言葉に 意思を通じ合う目的以外に用いられる言葉に 灰色の再生紙に並べられた老いた活字の羅列に 乾きを取り戻さないタオルに 潤いを忘れた植物に 冷えたグラスに纏わりつく水に それを拭った右手に ふとしたあくびに 「つまるところは?」に

 デビーに捧げられたワルツに いとも簡単に恋に落ちるチェットベイカーに クレオパトラの夢に 顔も知らないジュリアス・シーザーに ポセイドンとメデューサとのファックに 男の生首に口付けするサロメに クリムトの描くその恍惚の表情に ヤマタノオロチを倒した英雄ワカタケルの大王に 古代ロシアの踊り狂う大地に捧げられた生贄の処女に 「国家?」に 首を切られた王の座に皇帝と名乗り腰を下ろしたナポレオンに 夫のパリ凱旋を恐れながら今も若い男と情事を重ね続ける世界中のジョセフィーヌに

 ポピュリズムに 紀元前であれば英雄として名を残したであろうヒトラーに 宗教始祖になったかもしれないスターリンに 「パリは燃えているか?」 ヒトラーの妄想の中の、ガソリンと火の海に飲まれたシャンゼリゼ通りに ロンドン・チューブに パディントンステーションに ヒースローエアポートに 曇天 その下ではにかむ友人に タバコをせがむヴィクトリアアベニューの老人に 「キンダー・サプライズ・チョコレートエッグ」に テレビの向こうに映る作られた宇宙に ストレートの紅茶に チョコレートがくれた歯が溶ける程の歓迎に そして 嫌と言う程の現実味を帯びた日暮里駅のコンコースに

 新宿に 街の臭いに ガード下に 排水溝に 自然光を拒絶するサブナード新宿に 血の色を帯びた「エスパス」の光に 行き交う人間を背景にする路上生活者たちに 髪をセットした若い男たちに 彼らが想像もしなかったであろう出血に 割れたビールジョッキに 「寿司10円」に 「生中190円」に 「1時間3300円」に 安い酔いをモダンジャズのお供にする愚か者たちに 心の空洞を満たすよう宣伝されたジャンクたちの陳列する看板の集合体に 赤と青に染まる街に

 この街に友人たちが織り込んだ様々な美しく下らない思い出たちに

 「箱庭みたいな町」それを抜け出す 汚い空気に恋憧れているティーンネイジャーに 光の点滅の中酒を流し込み一晩暴れ踊り狂うマシーンになろうとした大学生に 電話 電話 電話 そしてタバコ グラハムベルとローリー卿とを呪う会社員に 今足がフラつく俺 愛 愛は循環している

 愛は循環する 介在する人同士の間を 愛おしい会話を 文字の何気ない交換を 子と両親とを 性に挟まれた埋められない隙間を 人の意思に基づく物全てを 美しい物を ジェイグレイドンの綺羅びやかなギターを ラウシェンバーグの「ゴールド・スタンダード」を オーソンウェルズの市民ケーンを 「人情紙風船」を 「ヴェロニカ」の絵に微笑む修道女を コカインを吸い込む無表情のミシェルファイファーを ニューヨークの光を白いドレスに集めるシヴィルシェパードを 娼婦のため人を殺すロバートデニーロを 社交ダンスを踊るアルパチーノを 夏の朝焼け 横転した車 泣きながら出てくる女の子 駆けつけた男 「もう大学には行かない この町に君と残るんだ」 交わす抱擁とキス、アメリカン・グラフィティを 連れ去られた女を追い走る松田優作を 青空を飛び交う戦闘機から放たれた無数のミサイルの描く上下の軌道を 戦闘用の強化人間に追い詰められながら撃つ川を劈くマシンガンを 被弾した脱出ポッドで行う宇宙要塞からの脱出を

 結局はこれらのものに触れ続けるために生きる理由はわからなくとも生きる目的をそこに見い出せるのだから少なくとも私が私自身に例えば死ぬ許可など与える訳にもうどうしてもいかないのだ


 何だったっけ?

 

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