radish

🤐外では言えないことをここでは書くことが多いです

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最近の記事

人間ぎらい(日本にて)

彼はやっぱり人間が嫌いだ。 彼の人間嫌いは小さな頃から変わらない。 あまり人間との良い経験(関わり)がなかったから、その乏しい自分の経験によるバイアスのせいで人嫌いになっていると解説するものもあり、彼もいくらかそれはあっていると思っている。 ただ日本人?は人間(あるいは社交)に対して無邪気なところがあるのではないかと思ってしまうところがあるとのこと。 人間と関わることはやっぱり厄介だと彼は思う。それは、日本人同士であってもバックグラウンドがまったく違い、違う価値観を形成し

    • あえて個性に没頭(DIR EN GREYの再燃)——自己肯定のはなし

      最近、以前よりも自己肯定に成功してきている。 まあリアリストなこと(遺伝子や偶然は受け入れるしかなく自分は自分であるしかないことの自覚)や内向性の高さ(自分の内面がきになること)、何かしら信念があるタイプであることから、もとから肯定的ではあった。 単純に年をとったこともあるだろう。しかし以前は頭ではわかっていても認められなかった。 認められるようになった理由はいくつかある。 まず、保守的態度(小林秀雄がいう古典主義の立場から見た個性)で見ると、ただの珍奇な特殊性である個性

      • 合理に救われ、合理に泣かされ、平衡を模索する

          勉強不足(宮台真司がいつも言っているギリシャでの主意主義の考え方のこと。覚悟/選択の話)ゆえ陥ったといえば、それまでだが。慎重に真剣に向き合い調整しないと(油断すると)すぐに不均衡に陥ってしまい内面生活や普段の振る舞いに悪影響を及ぼすようになるのが、「合理的(個人にとって有用に生きること)に生きる」ことの問題だ。 読書や作品消費、美、食など感覚的快楽追求(これも合理的に安全圏で行うのだが)以外は合理的に済ませようと思っていた。しかし、最近ある個人と本気で向き合うことを

        • 恋愛からの結婚について

          ※PCに反し本音で書いたため、この文章で気を悪くする方がいるかもしれません。ご注意ください。 70年代以後、しばしば結婚の原動力ということにされている恋愛というもの。 時間の余裕なく、感情をプロテクトしまくりの外部(社会生活)において現代でそんな幻想やリビドーにつき合っていられないことは多い。 法や時間のなさ、生活圏の狭さに妨げられるその観念をほんとうに体験した人はどれほどいるのか? なかなか疑わしいものであると思う...。 大多数の経済が落ち込む今、結婚は生活に迫る

        人間ぎらい(日本にて)

          会社でのブログ作成の闇

          疎外あらゆる情報を揃えていなければならなくて、それがどうしても追いつかなくて。 だから、あらゆるテーマから疎外されているように思える...。 あらゆる分野からの疎外... 急いで、あり合わせでその場しのぎ、内容のクオリティをなんとか保とうとする。 それはとても大変なことだ。わりと上手く、あり合わせの情報のブリコラージュで対応できても、たいした報酬はない...。 専門分野があるようでない企業での、あらゆるテーマに関するブログ作成は大変。

          会社でのブログ作成の闇

          デリダ入門で、自己からの逃走

          あなたは「同一性」を望むか? 私が何年かずっと「自己」と呼んでいるものは、理想とする(想像上の)自分のことだった。 それは、同一性を求める。理想と現実の同一性。あるいは、「自分はこういう人だ」という自覚と実際との同一性。 それにひびが入るときとは、例えば、自分が知らずにいた、自分の認めたくない部分を知ったときだ。 意識が強く神経質な人は、自分の理想とすることを「ものさし」とし、現状の自分と照らし合わせる。「ものさし」からずれている程度を確認し、その都調整することの繰り返し

          デリダ入門で、自己からの逃走

          自己からの逃走—序

          読むのを後回しにしてきた現代思想。去年の12月くらいから、やっと入門。 最初に読んだのは、浅田彰の『構造と力』だった。 『図解・標準 哲学史』を参照しながら…。 この本は、自分が描いていた勝手なイメージ(または何者かに押し付けられていたイメージ)とはまったく違っていた。 浅田彰の『構造と力』の一部にふれるフランス現代思想の入門書だ。 ひたすら無味乾燥に解説するのでは全くないところがおもしろい。また、わかりやすく実用的な解説書とも対照であるといえる。 内容は硬くはなく、構

          自己からの逃走—序

          自己からの逃走—その土壌

          自分の周辺のもの・こと、こだわることすべてに自分の血を通わせたい。 ここ数年は、サルトルやヘーゲル的な自由を重んじる者だった...。 遡ると、私は、2000年代の総合的な学習の時間を取り入れた時期に公立の学校にいた。個性を伸ばせと推奨された一方で、校内では、「気をつけ・礼・着席」が何度も叫ばれ、従ってきた世代である。すでに様々な人に論じられてきたかもしれないが、ダブルバインドのもとに、どこかシラけて生きてきた世代だ。 このような環境で自由意志を取り入れた人はどれほどいた

          自己からの逃走—その土壌