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ガテマラからメキシコ 突きつけられた銃口(後半)

昔の中米の旅行記、後半です。

サンペドロスーラからティカル遺跡へ

コスタリカでは、首都サンホセから北に100kmくらいのところにあるサン・ラモンという村で数日お世話になる。

大学4年になって就職が決まった時に顔合わせで翌年から同期となる中にラテンアメリカ好きがいて、そいつが前年にお世話になったコスタリカ人の家に泊めてもらった。その人物もケンという名前だったので、otro Ken(もうひとりのKen)が来たと大歓迎を受けた。たぶん、その知り合いが愉快なやつで彼らから好かれていたということと、たまたま名前がいっしょだったので面白いと思ったのか、えらくフレンドリーで歓待してくれた。

その村はとても牧歌的で、スペインの田舎というようなところだった。お世話になったゴンサレス家の住所がたしか、「郵便局の北120m・市役所の東50m」とかいう住所(そうやって郵便宛名に書く)だったのがおもしろくて記憶に残っている。

話はそれるが、ちょっとした後日談があって、このときから6年後くらいに、名古屋で国際会議があって年配のコスタリカ人に会った。ある中米の国際機関のトップの人であった。会合で簡単な通訳をしたので顔を覚えられたのか、夜、ホテルのロビーのバーの横を通ると一行数人で酒を飲んでいて、おお、ちょっと一杯飲めよと招かれる。

コスタリカ行ったことがあるというと、どこかと聞かれたので、首都サンホセと小さな村に行った、たしかサン・ラモンと答えると、なんとなんとナントの勅令、その人はサンラモン出身だった。それでゴンサレスさんの家にお世話になったと行ったら、あ、あの鳥好きのゴンサレスか!と。知り合い同士。世の中狭い。サン・ラモン狭い(事実、狭い)。たしかにあの家には鳥かごがいくつかあって綺麗な熱帯の鳥が何羽か飼われていて、物静かなゴンサレスおやじさんが世話していた。なんとも、コスタリカ人口500万人なので500万分の2くらいの確率の偶然ではあった。

コスタリカは内戦も無縁で中米ではそれなりに豊かな国。スペインのような先進国?的な経済も安定して、白人率の高い国。百キロちょっと先の国境を越えれば紛争の地があるのに、そのプンタアレナスというビーチにでは若者が踊って青春を謳歌していた。したたかビールを飲んだ。

国境といえば、何年も後に韓国ソウルに行ったときも、北朝鮮からほんの100キロも離れてないのにまったく街には緊張感がなかったのに調子抜けした。このコスタリカの経験や、米墨国境越え、南米でも最貧国ボリビアから南米先進国?アルゼンチン入りしたら街の風景が一転したのを思い出したが、国家や国境についていろいろ考えさせられる。けっこう重たいテーマ。人為的な国境という線のどちらかにいるだけで、天国と地獄くらい、人々の人生にとても大きな格差がある。

南のテグシガルパ(ホンジュラス首都)からバスでサンペドロスーラ経由ティカルのあるガテマラのフローレスへ。そしてそこから陸路+川をボートでガテマラ・メキシコ国境を越えてパレンケへと向かった(Google Mapから)

コスタリカから今度は直行便でホンジュラス首都のテグシガルパに戻る。そこからバスで、今度はカリブ海側のサンペドロ・スーラという街へ向かう。頼りにしていた旅のバイブル、South American Handbookにもたしか治安が悪い街とあったので、ターミナルでガテマラのティカル遺跡のある街フローレス方面に行くバスを探して、それが数時間後に出るとわかると街に出歩かずターミナルで時間をつぶして、さっさと街をおさらばする。勇ましいことを言いながら、実は、根はビビリのバックパッカー。

サンペドロから乗ったバスは、おんぼろの、前が出っ張っていてそこにエンジンがある30人くらい乗れるタイプで、大きな荷物は屋根の上の荷台に乗せる。どうやって、ホンジュラス・ガテマラの国境を越えたか記憶にないので、たぶん、8時間くらいかけてフローレスまでそのバスで直行で行ったんだと思う。

なにか規制があるのか、街中では乗客はバスの中に座っていないといけないのだが、郊外の山道にでると屋根の上に乗っていいという。車内はエアコンなどないので、喜んで僕を含めた10人くらいの外国人旅行者はバスの横についたはしごを登って屋根に上がる。

日差しが暑いが、山道を30キロくらいのスピードでちんたら走るバスの屋根の上はけっこう気持ちがよかった。緑豊かな中米のこんもりした山々の舗装されていない山道をバスはゆっくり行く。

揺れるバスの屋根の上で、クリント・イーストウッドを小柄にしたような初老のアメリカ人旅行者が、当時の僕くらいの20才前後のアメリカ人バックパッカー数人相手に冒険談を話し出す。隣にいたのでそれが聞こえてきた。

「(このバスの屋根の上に乗るっていうのはとても大事なんだよな。。。タンザニアでさ、こういうバスに乗っていたら山道の崖からバスごと落ちてしまって大変だった。屋根の上だったんで助かったんだよね。。。)」とイーストウッドが言う。

「(へぇー、そんなことがあったんですか)」若者は興味深そうな顔をしてうなずいている。僕は聞いていて、あれ?車の中にいたほうが放り出されなくて安全だったんじゃないかな?と思うが口は出さない。

「(そうそう、バスは谷へと真っ逆さまさ。おれは屋根の上だったんで木に掴まって落ちずにすんだ。それ以来、こういう国ではバスは屋根の上に乗っているんだよ)」

「(すごいな。それがあなたの、バス・ルーフトップ・ストーリーなんですね)」と若者は相槌を打つ。「(まあな)」という感じでおやじは返す。

僕は話そのものよりも、そのおやじよりも、その若者が聞き手に徹してひたすらおやじを持ち上げているのになんとも感心してしまって、いまでもこのエピソードが記憶に残っている。

そういう聞き手がいて、おやじはさぞかし話していて気持ちよかったんだろうなあ、なんともホラ話みたいな内容だったがなと思った。僕だったら、バスの中の客はどうなったんですか?とか、木に掴まって助かってそこからどうしたんですか?とかついツッコミをいれてしまう。ああいう、若くして「おやじ殺し」みたいなのはある種の才能だな、自分にはなかなか真似できないな。その後の人生でうっとうしい年上おやじの相手をしないといけないとき、この若者の口調をふと思い出したりした。中米のバスの上で、そんな世の中の仕組みのひとつを悟った若き自分を、今なつかしく思い出した。



たしかほぼ1日かかって、暗くなってからティカル遺跡のあるフローレスに着いた。

ガイドブックに、ハンモックをはって寝れる場所があって、1泊数百円とかあったので、ハンモックは往路のガテマラで買って持っていたので、未経験パターンだったが、それもいいかと思い、そこへと行く。

たしか湖の湖畔で、壁のない支柱とわらぶきみたいな屋根だけの10畳くらいの施設がいくつか並んでいるだけの施設で、そこで、それぞれがハンモックを吊るして寝る。荷物は自分のハンモックの下に置くだけなので、盗まれたりのリスクはあるが、雰囲気は牧歌的なバックパッカー宿という感じだったので、そのリスクはとった。といっても、貴重品は抱えて寝たので、たいして盗まれてこまるものはなかったが。

その地域は当時はまだマラリアの発生地域だったので、効くのかどうかわからなかったが、一応、知り合いからもらった赤い不思議なマラリア予防の薬を飲んでおく。そして、夜、やはり蚊がいたので、ハンモックの中で寝袋に包まり、ちょっと暑かったが息ができるくらい隙間をあけて寝袋の上部を締めて、ほんとに芋虫みたいになって寝た。寝袋の中から、プーンプーンと蚊が飛ぶ音が聞こえたが、刺されずによく寝れた。

翌朝から、2日間フルに、ティカル遺跡探索。

深く生い茂ったジャングルの中に、ピラミッドが何十とある。メイン広場みたいなところに巨大なピラミッドが3、4つあって上まで登れた。ピラミッドの登った上からの遠くまで見渡せるジャングルの樹海が凄かった。それまで見たメキシコのどの遺跡よりも壮大で迫力があった。

あまりにも昔で、遺跡観光の詳細の記憶がもうあまりない。実家におそらくあるであろう当時撮った写真でもみたら記憶が蘇ってくるかもしれないが。ティカル遺跡の素晴らしさについては、Noteを検索したらいくつかPostがあったので、最近のもので写真盛りだくさんでとてもいいなと思ったPostを勝手にリンク貼っておく。とてもいい写真が満載。必見。自分が行ったことがあるところの遺跡の中では、ここと、ペルーのマチュピチュとカンボジアのアンコールワットが価値一生ものの想い出。

ひとつだけ、遺跡で強く記憶に残っている光景がある。月光に照らされた不気味な遺跡。

2日目の夜、同じハンモック宿にいたベルギー人だったかオランダ人だったか(小柄だったから多分前者か)のおとなしい感じの女性二人が、夜、遺跡に入れるのだがいかないかと言う。

それって違法にこっそり?と一瞬ビビったが、よく聞くと、ちゃんと正式に夜入れるようになっているという。

夜10時頃だったか、3人で遺跡へと行く。二人は友達でいっしょに旅行しているという。二人はあまり英語を話さず、それで特に盛り上がる話もなく、二人同士も母国語であまり会話をするでなく無口。わくわく肝試しに行くという感じでもなく、淡々と、昼に行ってわかっている経路をひたすら歩いていく。

満月に近い月夜で、そのおかげで結構明るい。が、一方で青白い月光に照らされたジャングルは結構不気味だった。いろんな動物の鳴き声が聞こえていた。

遠くにガオゥというような低い唸り声のような鳴き声もして、「(あれ、ジャガーかな?)」とビビって言うと、クールな二人は「(たぶん猿でしょ)」と言う。ほんとに無口な二人だった。

昼間登った一番大きいピラミッドに登ると、上から、月光に照らされたジャングルの樹海が見える。不気味な感じ。

昔はここで、マヤの人たちが儀式で生贄の人間の首を切ったりしてたのかと思うと、背筋がぞくぞくした。

無口な二人は黙って、座って、それを見ていた。こちらも馬鹿話してもウケそうになかったので、黙って不気味な樹海とピラミッドを見ていた。ジャングルの野生の音以外はとても静かな夜だった。

あの情景は、その後の人生でも時々脈絡なく思い出した。不思議な光景。とくに心霊現象とかがあったわけでもなく、なにか特別な強い感動あったということではないのだが、あの時の不思議な感じは記憶に深く刻まれている。強いて言えば、大げさだが、地球の大自然なのか、古代文明なのかに対して、なんともおごそかな気持ちになれた時間だった。

30分、1時間、そうした瞑想のような時間を過ごした後に、3人でハンモックまで歩いて戻った。帰り道で「(やっぱりあれジャガーじゃないかな?)」としつこく呟くと、二人はやっと笑って「ノーノー、モンキー、モンキー」と言う。

ガテマラからメキシコへ

ティカル遺跡からはメキシコを目指そうとガイドブックをみると、陸路というか一部川を下って国境が越えられると書いてある。それで、フローレスからのバスに乗り込む。10人ちょっとしか乗れないようなマイクロバスみたいなオンボロバスだった。

乗って2時間くらいすると、軍のチェックポイントみたいのがあって、乗客にバスを降りろという。たしか、ガテマラとメキシコ国境のあたりに、ガテマラの反政府ゲリラが出没するので、軍が駐留しているというのは聞いていた。

バスから降ろされると、5人くらいの軍服を着て自動小銃をさげた兵隊がいて、乗客に一列に並べという。乗客は、僕を含めた外国人旅行者が5人といかにもローカルの住民が5人くらい。

バスの横に一列に並びながら、横目でローカル住民を見ると、写真入りの身分証明書を右手で胸のところに掲げている。それを真似してパスポートの写真のページを開けて胸のところに掲げる。

自動小銃をもった兵士がひとりひとりの身分証明をみてまわる。その時、銃口が腹のあたりに当たる。たしか、小型の連射ができるマシンガンみたいな銃だった。

僕の番のときも、パスポート掲げて背筋を伸ばして前をみてじっとしていたら、腹のところに銃口を感じた。鉄パイプみたいな銃口。

、、、というのが、本編「突きつけられた銃口」のクライマックスというか、オチでした。

銃口を突きつけられたとき、一瞬思った。

おいおい、暴発したらこっちの腹の内蔵とかぐちゃぐちゃになるな。気をつけてくれよな、こんなところで死んだら浮かばれないな、つくづく親不孝になってしまう、と。中米で兵士に誤って撃たれて死んだ日本人学生の記事が新聞に載るのが脳裏に浮かんでくる。

でも、その時、本能的に悟ったのは、兵士に「殺気」が全然なかったこと。

たぶん、銃の引き金のセイフティがロックの状態でさらに引き金に指がかかっていなかったんだとも思う。そうした技術的なことよりも、兵士の雰囲気に必要とあらば引き金引くぞという殺気がまったくなく、日々退屈なルーティーンをこなしている、市役所の窓口の役人のようなのんびりした雰囲気だった。不思議に、怖くなかった。

その後の人生で嫌なことや辛いことがあっても、「オレは中米で自動小銃つきつけられたりしてきたんだよな」と、この経験を、自分自身に誇大に上げ底記憶として植え付けたのを思い出して、うさ晴らしにしていた。

こんなことをあまり他人に言うと変なやつと思われるので、銃を突きつけられたことがあると言ったのは、酔った酒の場で一度だけ。へえ、修羅場をくぐってきたんだなと言われると、まあねという感じに我ながら自慢げだったが、嘘ではないが、修羅場というより、実際の経験はこんな殺気なしの一瞬の経験にすぎなかった。人生、映画みたいにドラマチックなことはめったに起こらないもんだ。

そうした軍のチェックは1度だけで、バスはけっこう川幅のある川のボート乗り場につく。そこで、10人乗りくらいの小さなボートに乗り換える。

ボートの乗客は、バスから移った、スイス人女性2人、アメリカ人カップルと僕の5人が旅行者で、あとは数人のローカル住民らしき人たち。

まわりは、ほぼジャングルの川幅50mくらいの川を、ボートはぽんこつエンジンをブンブン唸らせながらけっこう早いスピードで飛ばしていく。風を切って飛ばすので、空気がどんより暑い熱帯ジャングルなのに、かなり気持ちがよかった。

スイス人二人は、二人とも身長170センチ以上のがっしりとしたブロンドの30才手前くらいの女性で、私達スイスでは軍隊にいますと言ってもそうかと思ってしまうくらいがっしりした体の(職業は聞かなかった)、とても陽気な二人だった。たしか中米をバックパックして南の方から北上してきたとか言っていた。

アメリカ人は、アメリカの大学でスペイン語を専攻しているという男とそのガールフレンド。スペイン語ではフレンドリーだが、英語を喋るとけっこうクールな世の中斜に構えてみているようなしゃべりかたをするやつで、ガールフレンドのほうはフレンドリーなごく普通のアメリカ人だったと記憶。

ボートが軍の基地みたいなところを通り過ぎようとしたら、兵隊からの合図でボートは減速して止まる。そして、5人くらいの兵隊が乗り込んでくる。たぶんこいつらはボート代払わないタダ乗り。

兵隊は愛想がよくて、我々がスペイン語をしゃべるとわかると陽気に話しかけてくる。以下、記憶を頼りに再現。

1人が言う。「(ここらへんの村どこでも、いけば若くて可愛い娘いっぱいいてね、おれたちもてもてなんだ)」というようなことをニヤニヤしながら言う。

スイス人おばちゃんがそれにあわせて、「(そうなのね。あなたグアポ(ハンサム)だから女の子たちがほっておかないでしょうね)」というようなことを言うと、兵隊たちは笑う。くったくのない明るい笑い。

そんな世間話があって、兵隊たちがボートを降りてから、スイス人は眉をひそめて言う。

「(この兵隊たち、若くて素直なのはいいけど、ここらへんの村ではやりたい放題してるのよね。レイプや略奪は日常茶飯事。女の子相手も好き放題してるでしょうね。人殺しもしているかもしれない。警察もいない軍が管理する無法地帯。中米では人命の重さが軽いの。この地域で生まれなくてよかったとつくづく思う)」

たしか、3時間くらいボートに乗ると、国境ポイントらしきところに着く。一応建物があって、中にはいると、10数人の兵隊がいる。自動小銃以外に大きめのマシンガンみたいなのをもったのもいる。部屋には机があって、小太りの中年の偉そうな軍人が座っている。並んで、ひとりづつ机の前に来いと言われる。

まず、アメリカ人カップル。いくつか質問されていたが、スペイン語がよくわからないふりをして片言で答えていたら、もういい、行け、というようにパスポートを返される。

次に、スイス人二人。軍人がまたいくつか質問する。「(どこから来たんですか?)」「(スイスです)」「(それはわかるが、今日は、今、どこから来たのか?)」

ちょっと沈黙があったあと、一人が「(今日は、ボートに乗ってブラジルから来ました)」と答える。

僕は後ろでそれを聞いていて、思わず吹き出しそうになった。おいおい、軍人相手にへんな冗談よしてくれよ。こんなボートでブラジルから旅してこれるはずないだろ、と思った。

すると、偉そうな軍人は、「(あー、ブラジルからね)」と答えると、ハンコをおしてパスポートを二人に返している。

僕の番はとくになにもなく、すっと終わったが、すぐに小屋を出ると、スイス人に「(おいおい、ブラジルからって、あまりにもおかしくて吹き出しそうになったよ。突然吹き出してたら撃たれたかもしれなかったから、危なかったよ)」と文句を言う。するとスイス人は、「(あいつら、どこにブラジルがあるか、絶対わかってないわよ)」と笑う。

既に空は夕焼けとなっていた。ボートは国境ポイントを離れると、終点らしき船着き場のようなところに着く。一泊500円だかで泊まれる簡易宿があるよというので、みなそこに泊まることにする。たんなるジャングルの真ん中で、この船着き場と小さな建物以外なにもない。物置のような小屋が中に計4部屋ある一応個室のホテル部屋だった。

あまり記憶が残っていないが、ここで夕食をとったのだが、近くでとれたという野ネズミみたいなののステーキがあるというので食べた。ネズミといっても大自然をかけまわっているのなら不潔なことはないだろうという判断。肉は豚肉のようでポークステーキみたいで、案外美味かった。

ボートが着いた時にパンツいっちょで川でドロドロになって遊んでいた6才くらいの女の子とその弟みたいのがいたが、宿の子供らしく、夕食時には女の子は意外にこざっぱりしたワンピースに着替えて、我々の食事を運んできてくれた。一張羅(いっちょうら)なんだろうけれど、さすがラテン系、貧しくても人前ではおしゃれだなと記憶に残っている。

翌朝早朝、小型バスに乗って近くの街まで行く。そこから、長距離バスに乗り換え、たしか、僕はパレンケというメキシコの街へと移動した。

なんだか、ホンジュラスからガテマラそしてメキシコとくると、メキシコが先進国に感じられた。

あくまでも中米との比較だが、メキシコの街は小綺麗だし、レストランは普通に美味い、あまり治安の不安も感じなかった。それで、ちょっと気が緩んで、1人で夕食で、ビールとラム酒をけっこう飲んでから、街中をうろうろする。

すると広場の前のほうに、ボートでいっしょだったアメリカ人カップルが歩いているのが見えた。

後ろまでいくと、軽いジョークのつもりで、「ホールドアップ!(手を挙げろ)」を声をかける。

こちらを見た二人の顔は、ひきつっていた。

そうか、まだメキシコだ、しゃれにならないジョークだったか?

こちらを見て、僕だとわかると、二人は大笑いする。

「(脅かさないでくれよ。ほんとうに一瞬、心臓止まったよ)」

なんだか、過酷な旅をいっしょにした戦友に再び生きて遭遇できたような感じになり、それで3人で飲みに行く。不思議なことに、このカップルの名前が全然思い出せない。

これで中米の旅の終わり。我がビビリながら冒険した若き日のバックパッカーの日々もここらへんで終わり、日本に帰って大学の卒業式を終えると、新たなサラリーマン人生が始まった。

おしまい ■

(タイトル写真はNoteライブラリーから「森」で検索してでてきたものをイメージ写真として拝借。日本の森かとおもいますが)

グアテマラを敢えてガテマラと書いてます。スペイン語の発音としてはグアテマラが正しいのですが、ガテマラというのが字面がかっこいいと思うので。


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