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ジャズ研

学生時代、ジャズ研にいました。

人から聞かれるとそう答えるが、細かく言えば、そのサークルは当時、「軽音楽研究会」という名前だった。

80年代、軽音楽の花形は、ロックか、シンガーソングライター系ポップスやニューミュージックとか、インスツルメンタルでも、リズムがカッコよく現代的なフュージョンとか。ジャズはマイナーだった。

自分の人生、どちらかというと、周りに流され流され、決してなにか自分の信念?とか思い入れを軸に決断したことは少ないだが、敢えていえば、このジャズ研に入ったのが、自分の人生の中では珍しく、自分で決めた決断ではあった。

いろいろあって高校生活を4年おくることになったので、同級生が順調にいけば大学1年生の生活を謳歌している頃に、1人寂しく受験勉強をしていた。勉強の供はもっぱら深夜ラジオ放送。高校から帰ってくると数時間仮眠して、むくむくと起き上がっては、明け方4時までとかラジオを聞きながら勉強していた。

そんな自分の暗黒史の受験の年の冬だったか、当時好きだったタモリのオールナイト・ニッポンを聞き流していたら、アメリカのジャズ・ミュージシャンが生出演と。タモリも初対面らしい。へえ、とおもって聞き流しながら勉強。

リッチー・コールというアルト・サックス奏者と、たしか彼のバンドのブルース・フォーマンというギタリストの2人だった。

深夜放送なので、タモリは悪乗りして最初はゲストよりも通訳ではいった日本人女性をいじるみたいなスタートだったが(彼氏はいるんですか?と聞いたりして、通訳が困って通訳しにきましたのでゲストに質問してください、となったり)、ネアカのリッチー・コールもだんだんノッてくる。

タモリがブルースに、ブルースさんならブルースやらなきゃ、と軽いジャブをいれたら、通訳が、He says Bruce, you should play the Blues because of your name とかさらりと発音よく通訳して、ブルースもYeah! I've got to play the Blues とノリよく反応していたのがおもしろかった。

ちょっとしたジャズ談義の後、じゃあ、生演奏やろうか、という展開になって、タモリが、北京にボサノバが伝わったとしたらこうなるであろう、イパネマの娘、というのをやりだした(当時の中国は経済開放前)。この頃になると、僕の勉強の手は止まり、耳はラジオに釘付け。

ブルースのギターで、タモリがハナモゲラの中国語でイパネマの娘を歌い出す。それに、アルトサックスが絡みだし、そして、なにやらサックスばかり吹く自由な感じのメロディのような、メロディではない展開となっていく。

のびやかで、でも、その場で作曲しているような即興感、他の曲をもじった冗談のようなフレーズがでてきたり、効果音のような音をだしたり。小さい音でラジカセから聞いていたのをヘッドフォーンに変えて、フルボリュームで聞く。なんだろう、この音楽は、すごいな、この底抜けに明るいサックスの音。

タモリもその後に、口でトランペットみたいな音をだして、その自由なやつで続ける。この自由な音楽、これはいったい。この人達は初対面だし、事前の打ち合わせがあったとは思えないし、なんでこんなことができるんだ、楽しそうだなあ。。。

その後もブルースの曲などの共演もあって、やたら盛り上がって2時間がすぎた。3時に放送が終わってからも、不思議な興奮で眠れず、その日は朝まで起きていた。

これが、我がジャズとの出会い。なんだか、タモリの深夜放送と、変な出会いではあったが。もちろんその前からジャズというものの存在はなんとなく知っていたし、ジャズというのはアドリブというものが特徴的というのは頭では知っていたが、あ、これがそれか、と体でわかった瞬間というか。

それで、その後、受験勉強はさておき、夜な夜な、FM放送とかでジャズというものを探しては聞きながらの数ヶ月を過ごした。

そして3月の初め頃だったか、大学入試試験が終わり、最終日が終わって夕方、なぜか自宅までの1時間半を帰る途上にあった御茶ノ水で下車した。

ぼぅっと、受験で渾身力果てて、夢遊病者のような感じで、ふと思いついた途中下車。

もう5時とか夕方だったが、駅の近くの楽器屋に行って、ショーウィンドウのサックスを眺める。もしかしたら、これって受験勉強中にずっと夢見ていたことだったのかもしれない。たぶんちょっとニヤニヤしながら、楽器店に入り、サックスのカタログをいくつかとる。それでやっと電車で家へと向かう。

家には、母以外に、すでに大学1年を終えようとしていた悪友2名がなぜかまっていて、おっ遅いな、でも受験終了でご苦労さん、と迎えてくれた。それで僕がもっていたサックスのカタログをみて、不思議そうに、おまえ、どこいっていたんだ?と笑う。

たしかに、受験から帰ってきたら、楽器のカタログ抱えていたというのも変な話ではあった。

それで、大学にはいったら、まずはサークルでジャズ研というのがあるはずだと探す。

そういう名前のサークルはなかったが、いろいろ調べると、軽音楽研究会というのがあってジャズをやっているという。また、ジャズのビッグバンドをやるサークルもあり、なんとはなく、前者の部室の扉を叩くことになる。

そこは、学食のひとつのはいっていた古いビルの3階で、天井はたかかったがさして広くない部屋にピアノ、ドラムセットやベースが置いてあった。

ドラマーだという先輩が相手してくれる。

そう、ジャズやりたいんだ。ここはジャズばっかりやっている。適当にメンバーがバンド組んでコンボで演奏する。楽器は各自でそとの教室いくなりして覚える。まあ同じ楽器の先輩がちょっとは教えてくれるかもしれないが。自分も大学入ったらジャズやろうと決めていてはいったんだけど、親には「ジャズ研はいるのはいいが、麻薬はやらないように」と釘をさされた。まあ親の世代だとそんなイメージらしいけど、今どき麻薬はないよな。けっこう、酒はがんがん飲まされるけど。

そんな、説明だった。なんだかおもしろそうだなと思い。それで、迷わず、その軽音楽研究会にはいった。

そして時は流れて21世紀。不思議なことに、うちの16歳になる娘は、どちらかというと、協調型というか、自分でなにかやりたいとかリーダーシップをとるタイプでなくて周りに流される方で、とくにこれだという趣味もないほうなのだが、なぜか1つだけ自分からやりたいと言いだしたものがあった。10年以上前に、親はバレーとか女の子が興味ありそうなものに見学に連れて行ったりしたのだが、新体操を見学に行ったら、これやりたい、という。親としてはバレーより授業料安いし体育会系だからいいかと特に考えはなかったが、その新体操の教室にはいって以来、はや10年以上、彼女の新体操人生は続いている。けっしてうまいというわけでもないし、それでなにかを目指しているわけでもないが、週末2回各3時間ほど、片道1時間の距離の教室に通ってきている。流されがちな人生の中の、ちょっとした、1つくらいのこだわり。親に似たのかな。

やはり軽音研だと、ポップスやって女性ボーカルもたくさんいるような華やかなサークルと間違われるということだったのだろうか。歴史のあった?硬派でジャズしかやらない我が「軽音研」はその後、晴れて「ジャズ研」と改称したと聞いた。



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