過去と現在と思い出や友人のアソート

年に何回か地元に帰省する。学生時代の友人と久々に連絡を取ってご飯を食べに行くと、話題は大抵3つ。お互いの最近の話と、共通の知り合いの最近の話と、過去の思い出話。それらはとても楽しくて、私たちは笑い合ったり、懐かしい気分になったり、時に驚いたりする。けど、そういった会話は、決してそれ以上でも以下でもない。

高校の同窓会の連絡がきた。一次会が学年全体で、二次会は3年の時のクラスごと。どうでもいいけど、なんで同学年だけ?なんで3年生のクラスで?私たちが高校生だった時には、クラスや学年が違う友達もいたはずだし、それ以外にもコミュニティを持っていたはずだ。そこでの会話もさっきの3つと決まってるし。

先日、同窓会に行けない人とは、みたいな本が売られているのを見た。読んでないから誤解しているところがあるかもしれないけれど、裏表紙に書かれていたのをざっくりまとめると、今が上手くいってないから恥ずかしくて会えない、って感じだった。
うーん、今は上手くいってるけど私は行きたくないな。行きたくないっていうか、興味がないというか。会いたかったら連絡して会うし。当時は当たり前の日常だった集団が、急に社交の場って感じになるのが苦手です。あと会いたくない人に会っちゃうかもしれないでしょう。そういうリスクは侵したくありません。

どうしても旧友との会話に、発展性がない気がしてしまう。
私にもたまの帰省で会うような旧友が何人かいるわけで、今でもふと思い出して、元気にしているのだろうか?と考えることがある。私は彼らが好きだし、楽しい日々を過ごしていてほしいと願っている。しかし、"旧"友である彼らには今の彼らの友人がいて、生活がある。私が彼らを好きなのは、過去の記憶と合わせて好きなのであって、今の彼らを私は知らない。久しぶりに会う彼らとの会話は、毎日のように会って青春を過ごしていたあのときのものとは違う。あのときの私たちは、今を共に過ごし、今について語り合ってたけれど、旧友となって互いの今を知らない私たちは、過去に戻って会話をしている。過去は過去で既に終わったものだから、私には、どうしてもそれ以上発展しないように思えます。
かといってそのような話が嫌いというわけではない。それにはそれ特有の楽しさがある。でも別に、なくてもいいかなと思って。

自分のことを知る人が全くいない場所に行きたいと思って、私は今暮らしている場所に移り住んだ。
そのときの私は、誰からも、私に付加されている情報を通して私を見られたくないと思っていた。例えば出身校、人間関係など、私が今までに通ってきた道。地元にいると、どうしてもそれらは私のラベルになる。××高校なんて頭いいのね、○○ちゃんの友達なんだ!などなど。なんでかそういうのがすごく嫌だった。
それらを捨て去るために、本当に誰も知り合いがいなくて、全く土地勘のない場所に来た。私の出身校や友達を知っても、誰もピンと来る人がいないところ。私を白紙の状態で見てくれる人たち。
そこでの生活に慣れ始めたころ、私は、私のそのようなラベルは剥がせないことに気づいた。
それらのラベルを貼っていたのは結局自分だったから。
自分の通ってきた道の全てを知っているのは自分だけで、それを意識しているのは紛れもなく自分。そしてそのラベルは私を作り上げてきたもので、今の私はその続きにいる。環境を変えたからとて、私を今まで作り上げてきたものは変わらず私の中に存在していた。
それに、全く知らなかった土地も、住めば都。いつのまにかそこはホームとなり、気付いたら私には、その土地での新しいラベルが貼られていた。

私は私の旧友が好きだ。
かと言ってそこまで会いたいわけでもない。別に互いの今を共有する必要はないかもと思う。だけど私にとって彼らは友達でなくなったわけではない。まぁ彼らにどう思われてるかは分からないけど、過去に持ち合わせていた友情を失ったつもりはない。
ただ、思い出を思い出のままにしておきたいだけだ。
綺麗に、大切に、丁寧に記憶を心の中にとどめて、在りし日をよきものにしておきたいのだ。
風の噂で元気なのだなということを確認して、私は今の世界を生きたくて。

唯一、決まった3つのテーマ以外で話せる友人がいる。
お互い全く違う場所に生きて、全然違うことをしている。だけど私たちは、よくよく考えたら、3つのテーマについて話すことがほぼない。私たちが話しているのは、私たちの価値観の話である。実際の内容は多岐にわたるけど、ざっくりまとめると価値観の話。
私と友人はどちらもオタク気質があって、苦手な人のタイプが似てて、話してみるとその他色んな趣向が似ていた。
私たちが上手くいっているのは、違う環境にいるからだったりする。
もし同じ職場や学校で友人と過ごしていたら、私たちが話す内容は身近なことになるけれど、距離感があるから、ある種他人事として、そういうこともあるんだな、みたいな遠くのこととして語り合うことができる。
友人が今どんな人間関係の中で、どんなことをしていて、どんな風に生きているか全然わからないから、それらのことを土台とした自分の考え方の話に転換できてしまうわけであって、つまり私たちは私たちをよく知らないまま、今の話をしているから、仲良くやれているということだ。
不思議な話だけど、それが私にはちょうど良い。

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