10年前は古典文学

私は塾でアルバイトをしている。
先日、小学生の国語の物語文を読んでいて、とある文が目に留まった。

(ちぇっ、5時からのテレビが観たいのに)

登場人物である小学生の男の子が家に帰ってきたときの台詞だ。お母さんにおつかいを頼まれて面倒臭がるという場面。そこで私はふと思った。

ちぇっ、って今どきの小学生使う??

一緒に授業をしていた小学生に聞いてみたところ、使わないとの回答。いや、そうだよね、ちぇっ、て言ってる小学生、若干古くないか?全くいない訳ではないと思うが、あまり自然ではない気がする。咄嗟の瞬間に出る言葉ではないかもしれない。今なら、クソ、とかマジかよ、とかだろうか。まぁ教育上良い言葉ではない気がするので、国語の問題に使っていいかは分からない。

ついでに言うと、5時からのテレビが観たい小学生、今少ないんじゃないだろうか。恐らく、今の小学生はテレビよりYouTubeを観るのではないかと思う。YouTubeは、いつでも観られる媒体である。ということは、5時からの番組に合わせて行動するという概念自体が存在しないかもしれない。テレビを観るとしても、現代は録画や放送後の配信という手段がある。今時間を合わせて行動するのは、熱狂的なリアタイ信者か、もしくは動画の生配信か。どちらにせよ、「5時からのテレビが観たい小学生」は昔のものなのではないか?
(余談だが、件の小学生に「テレビそんなに観ないかな?」と聞いたら「大門未知子のドラマ観てる」と言われた。自分の投げかけた質問の浅はかさを呪った瞬間である。)

この一件から私が考えたのは「国語の問題の物語、いつまで経ってもアップデートされない問題」である。

他の小学生の授業をしているときに読んだ問題では、登場人物の小学生達が草野球をしていた。試合がうまく進まず雰囲気が悪くなったが、最終的には一致団結して頑張った、というお話だった。
しかしそれを読んでいる現代の小学生は、野球のルールを知らず、一回表を「いっかいひょう」と読んでいた。
そうなのである。今の小学生にとって、草野球は決して身近なものではない。何なら私の世代でも身近でなかった。私が小学生だったのはかれこれ10年ほど前だが、私も小学生の頃には野球のルールを知らなかった。いや、今でも草野球をやる小学生は存在していると思う。しかし誰にでもわかるもの、というほどではないだろう。今の小学生及び若い世代は、野球にそれほど親しんでいない人が多い気がする。よってその国語の物語も、いまいちピンとこないまま読むことになる。この世代にとって草野球とは、ドラえもんやサザエさんの世界のものだ。「5時からのテレビが観たい小学生」より更に昔の概念である。

問題を解いている生徒と同年代の子供たちの日常の物語は、現代の日常からかけ離れ、どんどんと古典化していっている気がする。

例えば「5時からのテレビ」も「草野球」も、習い事をしている小学生には身近ではない。
先ほどの草野球の問題を一緒にやった小学生は、週2回の塾の他にスポーツクラブに入っている。恐らく放課後にすぐ家に帰ったり、友達と遊んだりはしていない。今、そんな小学生はそれなりに存在しているはずだ。決して珍しい話ではないと思う。
少し話がずれるが、ここで「放課後に遊べないなんて可哀想ねえ」「親にやらされているんでしょ」と思った人には異論を申し立てたい。その小学生は塾もクラブも自分でやりたくてやっている。このコロナ禍でクラブ活動が出来ず、うずうずしながら毎日ランニングをしている。運動を一切しない私からすると頭が上がらないアスリートである。

そんなわけで、国語は古典化の一途を辿っている。
なぜ現代に近づけないのだろうか。

もちろん、国語の教科書に載っているような物語の中には、いつの時代に読んでも素晴らしい名著がたくさん存在している。
しかし、そういう物語を受け継いでいくと同時に、どんどん新しい物語を取り入れていくことも必要なのではないだろうか。登場人物の心情について考えさせるのに、自分たちからかけ離れていてイメージしにくいものを読ませるのはいかがなものか。いや、多分新しいものも取り入れられているのだろうが、もっと主張して、もっと入れ替わり立ち替わりしても良いのではないか?

時代というのは急速に進むものだ。10年前、私が小学生の頃、YouTuberなどという職業は市民権を得ていなかったし、そもそも職業と思われていなかった。LINEが出来たのはおよそ9年前。その頃にはiPhoneを持つ小学生どころか、ケータイを持っている小学生すら限られていた。
現在、それらは当たり前の存在になり、この世界の要となっている。10年前の私たちの小学生時代は既に、前時代の古典文学なのだ。

10年前ですら古典文学なのに、いったい何十年前の物語を小学生に読ませているんだ?

今ドンピシャ、とは言わない。せめて2、3年前くらいまでで粘ってくれないだろうか。5年も経つとそこそこ変わってくる気がする。私が小6の時、1年生のランドセルが私たちのものよりゴージャスになっていてギャップを感じた。同じ小学生ですら世代差が生じるのだ。国語力を測る上で必要な要素はそのままに、時代だけ進めてほしい。例えるならば、美内すずえ氏の『ガラスの仮面』で黒電話だったマヤや桜小路くんが急にケータイを持ち始め、かと思ったら速水さんがスマホを持ち出すように。

我々の世界が変化していくにつれて、どんどん国語の物語は過去の世界へと埋まっていっている。







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