見出し画像

『母が体調を崩して入院』した事によるドタバタな50日

先日は約60日ぶりに、仕事も介護もなくマルっと1日家から出なくて良い日だった。

お昼少し前まで大好きな布団の上でゴロゴロした。
わーい♪

そんな私を見て見ぬふりでソファの上で昼寝しててくれた主人よ。

あえて「お腹すいたー」とか言わない主人よ。

ありがとう。

お布団でしっかり元気を充電チャージしたら、なんかここ数日調子が良い!元気が出てきた!いいぞいいぞ。



さてさて。

『母が体調を崩して入院』してから50日以上が経過した。

やーーーっと色々な事が少し落ち着いたので、ちょっとまとめてみようかなと思います。

今日は5千文字以上の長文になります。時間に余裕のある方、よろしければお付き合いいただけたらと思います。


6月最終週。

早朝から着信があった。4回連続。

朝はお弁当作りやゴミ出しなんかをしている間にApple Watchをはずして充電していたのと、スマホは基本マナーモードのまま机の上なので気が付かなかった。

気が付いた時には着信から1時間後。

早朝の連続着信で嫌な予感がした。

慌てて折り返すと、普段絶対に母のスマホには出ない父が出た!(痴呆だし目が見えにくいから普段出ることができない。多分母が受信ボタンを押したと思われる)

事情を聞くと父は「ばあば(母)が。ばあばが。助けてくれ」と言うばかり。
「え?母動いてる?息してる?」「それは大丈夫」のやり取りのあと、実家までの道のり約15分間。焦るな焦るなと思いつつ、制限速度いっぱい、車をぶっ飛ばした。

実家に到着。
カーテンが閉まった暗闇の中、ベットの上でミイラのように動かない母。
正直死んでるかも?って思った。声をかけると、少し動いてか細い声で少し話し出した。

生きてた。良かった。

「トイレに行きたくても腰が痛くて起き上がれない。下痢が止まらず・・・大変なことになってしまった。」と言う。

カーテンをあけてよく見ると母の寝ている周囲は悲惨な状態だった。

10年くらい前に胆嚢の手術をしているのと、6年半くらい前に見つかった乳がんのホルモン治療の副作用で下痢と便秘を繰り返している。

腰周りの骨に乳がんの転移があり、放射線治療を受けた事もある。

そこに痛みがあり麻薬系テープを貼っているものの、寝ている時に下痢でお腹が痛くなった時、トイレに1人で起きて行くのは少し時間がかかる。

だから下痢が強い時は自分でオムツを履いて寝ていた。

でも今回はトイレにも行けずオムツを自力で交換できないくらい辛かったのが見てわかる。

時々体がピクピク痙攣もしている。3日前から何か口にするると吐いてしまうらしい。素人が見ても脱水症状はあるだろうと思った。

いつもなら私が実家に顔を出しているはずなのだが、私はキイトルーダの点滴のため前日の昼まで入院していた。入院している私に気をつかって連絡しないうちに頭が回らなくなってしまってこんな惨劇になってしまったようだ。

さぁどうしよう。とりあえず病院に連れて行かねば。

いつだったか、大きな大人を小さな女性でも動かせる方法を何かで見たことがあった。

どういうわけか数年に1度、見知らぬご老人を1人で助けなければならない場面に遭遇する。

そんな時のためになんとなく覚えていた。

方法はうろ覚えで素人がいきなりやったのと、そんな時は救急車を呼びなさいとケアマネさんに強く言われたのと、何よりその方法は私の体を痛めてしばらく辛かったので、今回はあえて移動させた方法は書かないでおこうと思う。

強引に着替えをさせて、マンションの◯階から母にも残りの力を振り絞ってもらい車に乗せて病院に向かった。

消化器科に案内され診察を受けると「ちょっとした水分不足でしょうから簡単な検査と点滴が終わったら帰る事ができます」という話になってしまった。

「こんなぐったりして食べたら吐き、トイレに1人で行けない状態で連れて帰れません!母は乳がんでホルモン治療を受けています。転移して治療している腰も痛いようです。がん治療の副作用の可能性もあります。父はほとんど目が見えず痴呆でがんの手術したばっかりですし、私も一緒に住んでいませんしがん治療中でこのまま連れて帰るのは難しいです」と訴えると「じゃ、このまま老人ホームじゃないっすか?」と目も合わさず冷たい対応をされてしまった。

「ぐぬぬ」ってマンガやネットの世界でしか出てこない言葉だと思っていた。でも実際声には出さなかったが「ぐぬぬ」ってなった。

軽度な状態で慌てて連れてきてしまったのか?いや、多分そんなことはない。さっきの私の言い方だとトイレに連れていけず家族の都合で連れてきてしまったように思われていないか?(実際そう伝わった)それなら先生の言うこともわかる。こういう日に限って、母の担当医(同じ病院の乳腺外科)は少し早めの夏休みだなんて。ついていない。

そんな事をぐるぐる考えているうちに検査結果が出た。

何らかのバイ菌が体内で増殖中で熱があることと、重度の脱水症状との事で入院が決まった。

先程の先生の勢いの良さはどこえやら。ちょっと申し訳なさそうな雰囲気で優しく対応してもらえた。

あのままで家に連れて帰る自信がなかったので、少しホッとした。
入院したので、ケアマネさんに伝えて今後の事を考えなくては。
ああ。それと、母の事だけじゃなく、痴呆であまり見えておらず1ヶ月半前に大腸がんの手術をして退院して間もない父の事も一緒になんとかせねば。このままだと皆んな共倒れになる可能性がある。


7月1週目。

父を1人で置いておけないとケアマネさんにショートステイをお願いして準備を進めてもらったら、父が断固拒否で大泣きしながらマンションのベランダから飛び降りる勢いだったのでキャンセルする事になった。

あんな父の姿、初めて見て衝撃だった。

でも、自分の感情が抑えられないのが痴呆の症状の1つであるとケアマネさんから教えてもらい、仕方がない事だと理解できた。


7月2週目。

母の体内でバイ菌がどんどん増殖して熱が下がらず。それなのにバイ菌増殖の場所の特定ができず、熱が下がらないらしい。

cvポートに原因(バイ菌の巣になっている)があるのでは?となり、ひとまずcvポートを取り除く手術が行われた。

が、結局cvポートではなかったらしい。

このcvポートを取り除く際、今後のホルモン治療の話となり、今がんの状態は安定しているので一旦やめて様子をみようという事になった。


7月3週目。

やっと原因が判明した。
乳がんが腰骨に転移していて放射線治療をした場所にバイ菌の巣が見つかったらしい。

その時点で、すでに約3週間が経過していた。
母はその期間中、腰回りが痛く一切1人で動く事ができなくなっていた。面会時、車椅子に乗り換えられずでベットごと面会ルームに連れられてきていた。

頭も回らないのが面会での会話やメールの文面からもわかる。
以前ならスマホでメール程度は打てていたのだが、全然単語が打てなくなっていた。

私に用事がある時、メールで連絡をくれていたのだが「tいs」のように謎の暗号になった。
(tいsはティッシュ持ってきてと打ちたかったらしい)

そして母は自力で体を起こす事が困難で頑張ろうという気力もないと担当医に判断され、老健か老人ホームに転院する事が検討された。

できれば父も一緒に入る事ができる老健を探してもらうことをお願いした。


7月4週目。

やっと父も一緒に入所できる老健を探してもらえる事に決まった。

ただ、母が麻薬系の痛み止めテープを貼って痛みをコントロールしている事がネックとなり、夫婦での老健入所は絶望的になった。

その頃から、頭がはっきりしていない母の耳元で「母さん。このまま頭がハッキリせず、体も動かずだと老人ホームに転院する形しかなく、このまま一生自宅に戻れないかもしれない。少しずつでいいから動いたり考え事したり体と頭を動かそう!」と繰り返し言ってみた。これを後に主人と“ささやき女将大作戦”と呼んでいる。


8月1週目。

病院のソーシャルワーカーさんが粘ってくれた。

婦人科だけ家族で送迎して治療を受けて、麻薬系テープなど痛みをコントロールするものについては家族が送迎して薬をもらってくる事を約束するなら入所を許可しますよという老健が見つかった。

そして、その頃から母が急に動き出した。リハビリで急に車椅子に乗って移動できるまでに一気に回復してきた。

頭も回り出した。メールが謎の暗号から単語になってきた。「のみもの あまいの」言いたい事がわかる!伝わる!ようになってきた。

ささやき女将大作戦成功か!?

父へ老健入所の説得は難航したが、毎日毎日コツコツと説得して、面会の際母に「一緒に入所してくれたら助かる」と父へ言ってもらって「仕方ないなぁ」の言葉を引き出した。


8月2週目。

まずは母の入所が完了。
その頃にはヨロヨロしてはいるが、すっかり歩行器を使って立てるようになっていた。
直後に父の入所も認められた。同じフロアで生活させていただける事に!

とりあえず、父は大腸がんの退院から3ヶ月のCT検査を受けてから入所する事になった。

ところが。
CTの結果、大腸がんが肝臓に転移している事が見つかった。
今後手術か抗がん剤を使うことになっていくだろうとの事。

やっと見つかった老健にも父だけ入所できなくなったりするのでは?と思ったのだが、そのまま入所中に中抜けで入退院して乗り切る事ができるようにしてくれた。(その辺は今後施設の人と相談予定)

最後の最後まで父は「施設に入るなんて言ってない!」とごねたが「がんの転移が見つかったので、1人ぼっちで家に置いておくのは心配だ。病院に入院するまでの間、施設に入って母とプロの方々に様子を見てもらおう」と言って施設に入ってもらう事に成功した。

父はあんなに大騒ぎした割にはあっさりと入所してくれた。
今ではすっかり施設の1人部屋でステテコ&白シャツで家にいる時以上にくつろいでいる。



最後に私。
母が入院してからの50日は、朝と晩実家に通い、父の食事とお風呂見守りと簡単な家事をして薬飲ませて帰ってくるという生活をしていた。

車で帰る途中、涙が止まらない日や体調が悪くて吐きそうになりながら通った日もあった。普段1人でいる時はヒステリックにならないのんびりタイプなのだが、ちょっとした事でキーキー言うようになった。

恥ずかしい話だが、唯一手抜きのできる自宅の台所周りがすごく荒れた。

口がおいしくないから自宅でご飯を作る気になれず、体調が悪く食事制限のある主人に食事の面で無理させて(カップ麺とか外食とか)血液検査の結果をすごく悪くさせてしまった。

主人が言うには私は軽い鬱っぽく見えていたようだ。
そういう時は自分が我慢!と文句も言わずに見守ってくれていた。

私が通院していた病院でも「みんさん、顔色悪いね。ちゃんと眠れてる?大丈夫?」「みんさん食べてる?」「あれ。また小さくなっちゃって。この際なんでも良いから食べられるもの口に入れてね」「両親の事大丈夫?もし辛かったら話聞くよ」「うちの病院、相談できるカウンセラーさんたくさんいるからいつでもそっちに回せるから遠慮せず言ってね」と、婦人科の多くの看護師さんにカウンセリングルームに呼んでいただいたり廊下ですれちがうたびに声をかけてもらった。

担当医にもキイトルーダの点滴治療を入院治療から外来治療に変更してもらったり、薬の調整など色々配慮してもらった。「困った時は遠慮なく言って!こっちで調整できる事はしてあげるからね!」と心強い言葉もいただいた。

仕事の関係者の方々にもたくさん配慮と笑顔で支えてもらった。若い方は「はたらく細胞」というアニメでがんの事を理解しようとしてくれる人が多くいてくれた。

noteの皆さんの記事・スキ&コメントにも救われた。皆さん辛くてもしっかり前を向いている姿を読んで、私も頑張ろう!って思えた。

今回どっぷりどん底まで落ち込む事がなかったのは周囲の人たちのおかげだ。

辛いど真ん中で生きていると周りが見えなかった。
でも、落ち着いて周りを見ると、こんなにも皆さん支えてくれていたと気付く。

「辛くなったら話聞くよ」って何もアドバイスなしで「それは辛いね」って同意してくれるだけがありがたい。

いつか私の近くの誰かが辛い時、ただ話を聞いて吐き出させてあげようって思った。勉強になった。


しばらくは自分と両親の病院通いと洗濯物を届ける日々がほぼ毎日続く予定。

ひとまず両親は今一緒に過ごせているし、プロの目で見守ってもらえている。

私も50日経過してやっとホッとひと息の時間が取れるようになった。

今年1番の辛い時期をあと少しで抜け出せそうな気がする。

もうひと踏ん張り。


おっ。実家のルンバが終了しそうだ。

1番掃除して欲しかったゾーンは結局今回も通ってくれなかったが、それも可愛いと許せる心の余裕が出てきたな。ふふ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?