決められた正解とはどのように決められたのか

日本の教育はあらかじめ決められた正解に迅速にたどり着くためのもので、主体性を育むにはほど遠い。主体性を育むには自分の頭で考え試行錯誤しなければならいという趣旨の現代文の解説にちょっとだけ違和感を表明してみた。では、そもそもその正解とはどうやって決められたものなのだろうか。

私はラグビーをやっていた。
下手くそだったが、自分なりに練習方法を考えたり攻撃のフォーメーションを提案したりしていた。
だが、タックルだけは別だった。
自分なりに試行錯誤してタックルのやり方を考えていたら危険極まりない。
試行錯誤している間に致命的な事故に出会ってしまうかもしれない。
実際名前も知らない同時代の選手で頚椎損傷などの大けがをした人もいた。
だから、ラグビーをやってきた先人たちが身体で場合によっては命で確かめてきた「安全な」タックルをまず学ぶことから始めるしかない。
そのことによって私は、肩の脱臼ぐらいで競技人生を終える事が出来た

現代までの人間の知恵の蓄積は、ちっぽけな個人がその場で思いつく独創的な答えを容易に凌駕する。なぜならば様々な人々の人生を賭けた試行錯誤の結果生み出された物が堆積したものだからだ。だから30年前の私たちがやっていたタックルよりも今のタックルが明らかに安全で効果的だ。

加えて、競技スポーツには身もふたもない価値基準がある。「強い」と「弱い」だ。高校や大学の「ラグビー強豪校の強さには独創性もあるが、その前提条件に「正しい」がある。先人たちが、古い言葉で言えば、血と汗と涙でたどり着いた「正しい」がある。もちろんそれは絶えず更新されて行く性格のものだが、それでもその「強さ」の有効性が勝敗などによって否定されない限り有効性を持つ。その意味で、個人が自分の頭で考えたものが独創的なものであっても、その競技の性格など様々な条件を踏まえた上でそれが「強く」ないと意味がないのである。古めかしい「定石」の方が価値があるということになってしまう。

一般論として、教育で「決められた正解」を求められる場合、多くは「複数の人間がその答えに至るまで様々な試行錯誤がなされた結果としてたどり着いた正解」である。個人の思いつきでの独創的な正解とどちらが重みがあり、存在価値があるだろうか。逆に言えば、そのを「決められた正解」を知らないのになぜ自分の思いついた答えや解法が独創的だとわかるのだろうか。自分の頭で考え思いつくことは貴重なことだが、それとそれが独創的であることは違う事態である。

奇しくも受験漫画の「ドラゴン桜」で同じような題材を取り上げていて、自分の頭で考えて答えを出すべきと主張する同僚を主人公は「典型的な私立文系の発想だ」と切り捨てる。主人公は「東大に受かる人間は人の出した答えに頼る。それを利用してその答えの先に行く」という趣旨の反論をする。

端的に言えば、「決められた答え=これまでの先人たちの試行錯誤の結果としての知の蓄積」を拒否して自分の頭で考えて答えを出したいという主張は、あまりにも幼く浅いのだ。それは使い方を工夫した新アイデア商品の開発には役立つかもしれない。だがそれも既存の商品がないと存在しない知恵である。

もちろん画期的で世界を変えるような発明独創をする子どもは出てくるだろう。だが、それぐらい飛び抜けたような天才を「教育」が作る事はおそらく出来ない。教育が出来るのは、その天才を評価できるような良識ある一般市民を作ることである。そして、その良識ある一般市民を作るためには、まず様々な先人たちの人生を賭けた試行錯誤の結果として「決められた正解」を学んでもらうことが必要なのである。

それを、単なる自分の思いつきを認められない事への不満というレベルの主張ではなく、その「決められた正解」を凌駕する「次の決められた答えになる候補」を嬉々として出す子供たちを育てるために。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?