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ときをうたうもの 四話

「そこに脱いどけ。後で洗濯しておいてやるよ」
「ふざけてるのか。私は男装していたが、仮にも女だぞ」
「男装してたのは知ってる。初めて会ったときから丸わかりだった」

万古は衝撃的なことを言い放った。今まで初対面では見破られたことはなかった。口に出されてなかっただけかもしれないが。
 私は万古宅にいた。あれから猫カフェに戻って、洗濯物を取りに行ったのだ。しかしチャッカリしているのか、洗濯物は櫻永たちが持って帰っていたらしく無かった。恐らく明日には持ち主たちに返却されるだろう。

「とりあえずシャワーでも浴びてきたらどうだ」
「分かった。…覗くなよ」
「…覗かねぇよ。餓鬼じゃあるまいし」

万古はリビングの椅子に座って言った。怪しいが、一先ず信頼するとしよう。私は、万古の言う通りに浴室に入った。浴槽とシャワー、少しのシャンプー等々。飾り気のないものだった。庶民的なお風呂とはこういうものなのか。
 シャワーを拝借して、温い水が体を温めていった。頭の中に次々と思いが駆け巡る。
 万古と一緒に来てしまった。今日の私はどうかしている。反抗しても意味がない。蛍火家が私の存在意義だったのに、これで私と蛍火家の縁が切れてしまった。でも、それでいい。それでよかった。逃げ出すことを望んでいたのは私ではないか。

「そう、これでいい」

きっとこれでいいはず。
後継者としての役割は、もう果たさないでいいのだ。それが幸せ。きっとそのはずだった。何にそんなにとらわれ続けているのか。

「風呂ありがとう」
「ああ」

髪をふきながら風呂を出ると、万古は本を読んでいた。声をかけると、彼は目を一瞬だけこちらに向ける。そして短く返事をすると、また本のページをめくりだした。家主がリラックスしているが、私はどうすればいいのだろうか。椅子がない。元々一人暮らしだったのだから、家具は一人分しかないのは当たり前である。身の置き所がない。物理的にも。どうすることもできないので、邪魔だけはしないように。部屋の端に移動した。
 風呂場を見ても思ったが、万古の部屋は少し殺風景である。家具は必要最低限のものしかないし、デザインもシンプルなものが多い。ただ本が多いだけの部屋。本棚にはみっちりと本が詰まっており、あふれ出た本たちがあちこちに放置されている。あれではすぐに本もダメになってしまうだろう。その他に面白そうなものはないかと動き回っていると、足元に腰までほどの大きさのものがあった。少しくすんだグレーの色をした二つの取っ手がついただけのもの。五月蠅いぐらいに音を立てている。少し古いタイプの冷蔵庫のようだ。

「さてと」

万古が急に椅子から立ち上がった。本を読み終えたようだ。立ち上がった万古は、私の元までやってくる。そして私をどかして、後ろにあった冷蔵庫をあけて、何か漁りだした。

「ルカ、何が食べたい?今なら何か出てくるかもしれねぇぞ」
「今は…軽食がいい。そんなに多く食べれる自信がないから」
「はいよ。ちょっと待ってな」

そう言って、万古は冷蔵庫から次々に食材を取り出した。ちらっと見えたのだが、冷蔵庫には最低限のものしか入っていなかった。水、ハム、卵、後は冷凍食品等。本当に少なかった。
 万古が取り出したのは、ハム、卵、ネギ、塩コショウ、パックのご飯のみ。食材的にはチャーハンだろうか。要領よく刻み、炒める。出来上がりは素晴らしいものだった。私は椅子に座らさせられて、目の前にチャーハンが置かれた。いい匂いを漂わせている。なかったはずの食欲が、どんどん復活していく。
 出来上がったチャーハンは一人分だった。もう一度作るのかと思ったが、万古は片づけ始めている。このチャーハンを分けるのかとも考えたが、スプーンは一人分しか用意されていなかった。

「万古は食べないのか」

片づけを終え、手を拭く万古に問いかける。万古は回答に困った表情をしながら、頬を掻いた。

「俺は…大丈夫だ。空腹では俺は死なない。食費がかかるのも嫌だったから、気分で作ったり、食べたりって感じだな」

言葉を失った。何とも言えない悲しいような感情とほんの少しの怒りが沸き上がる。私は万古の作ったチャーハンを口に含んだ。シンプルな材料で作られ、味も質素だった。しかし豪華な食材を使う家で食べる食事よりも、こっちのチャーハンの方が美味しく感じた。
 気が付くと、万古は私の目の前までやってきて、私の食べる様子を興味深そうに見ていた。何か用だろうか。手を止めその瞳を見つめると、万古は首をかしげる。

「不味かったか?」

その言葉で納得した。感想を言ってほしかったのか。私としたことが夢中で食べていた。

「美味いよ。ありがとう」
「…ウッス」

万古の顔が少し赤い気がする。万古らしからぬ返事が返ってきて、面白かった。その後も食べる私を万古が見続けた。見られると食べずらい。私はチャーハンを匙ですくい、万古の口にチャーハンを突っ込んでやる。万古は目を見開いて驚いていたが、匙を口から引き抜くと咀嚼する。そして一言。

「シンプルだな」

とだけ言った。この良さが分からないとは。万古に人差し指を立て、横に振りながら言った。

「万古は分かってないな。このシンプルさが家庭の味って感じがするんだよ。これからは二人分作ってくれ」
「…そうかよ」

そう言って笑いかけた。この時の私は素の私に近かったと思う。万古は急に立ち上がり、風呂に入っていってしまった。何かしてしまったのだろうか。もしかすると風呂に入りたいのをずっと我慢していたのかもしれない。それで我慢の限界が来てしまったとか。それなら申し訳ない事をした。風呂から出てきてから、謝らなければとひとり呟いて最後の一口を食べた。

朝。
 目が覚めると見慣れない天井が視界いっぱいに広がった。焦って体を起こすと、思い出した。ここは万古の家だと。時計を見ると午前十一時。大学の授業はとっくに一限は終了してしまっている。今日は面倒だしサボるか。良家の出身として大学で振舞ってきた私は、サボりをしたことがなかった。それどころか、サボりをする学生に対して呆れていた。その私がサボりをしてしまうなんて。内心では、今からでも大学に行くべきだと思っている。だが、この先サボることなんてできないかもしれない。今日の授業をサボるとお喋りしながら、横を通り過ぎていく学生たちに少しあこがれを抱いていた。私もそんな風に友人と遊びに行くためにサボれたらと。当時はあり得なかった空想を居間なら実現できる。どうする…

「ルカ、正午から買い物に行くが、行くか?」
「行く」

万古の言葉に、私の理性の天秤があっさり傾いた。今日はサボろう。授業をサボって出かけられるというのも大学生ならではのことではないだろうか。
”うちの跡取りの息子を惑わさないでくれるかな”
櫻永の言葉もあながち間違いではないのかもしれない。今も、万古といるだけで楽しく感じていた。



「あの服変わってるな。見たことない」
「あれは最近の流行だな。嗚呼やって後ろでリボンを結ぶんだ」
「少し洒落たデザインみたいだな」

万古の行き先はショッピングモールだった。足を踏み入れると涼しい冷気が私の頬を撫でる。外の地獄のような暑さと比べると、ここは天国だ。猛暑の所為か、ショッピングモールには人が大勢いた。人垣を縫うように進み、ふと洋服店が目に入った。ゴシック系の服がショーウィンドウに飾られていた。黒い生地に白いラインの洋服たちが映えていた。
 あれは何だと指をさして万古に尋ねると、万古は答えてくれた。そして万古は少し考え込むと、私の手を握る。グイっと力強く引っ張られ、私は抵抗する間もなく連れていかれた。

「これがいいのか」

そう言って、私が指をさしていたワンピースを今度は万古が指さした。

「可愛いと思っただけだ。買わなくていい」
「勘違いをしているな。俺は、買ってやるなんて何にも言ってないぞ。ただ趣味を聞いただけだ」
「…そうだな。このデザインが好きだ」

万古は「そうか」と言うと、店内に入っていく。慌てて追いかけると、万古は店員と何かを話していた。万古のそばまで行くと、店員が私の方をじっと見る。そして万古に親指を立てた。返事をするように万古も親指を立てる。何をしているのだろうか。二人の間で謎のやり取りが行われている。私が首を傾げていると、今度は別の店員がやってきて万古と話していた店員と何やら話していた。首を何度か縦に振ると、やってきた方の店員が私の元までやってくる。

「お客様、こちらへどうぞ」

とにこやかに告げた。私は戸惑いながら万古の方を見る。万古は私に頷く。これは付いて行けということなのだろう。さっきまでの流れ的に、試着室へ行くようだ。私は大人しく案内された試着室に入る。試着室には大きな鏡が設置されていて、出入り口はカーテンという覗き放題の部屋だった。防犯上良くない気しかしない。これが普通の暮らしなのか。今まで個室を使っていたので、このような場は初めてだった。

「着替えを終えられましたら、サイズ等を確認いたしますので。カーテンを開けてくださいね」

カーテンが閉じられると、服と私と鏡のみの空間が出来上がる。手渡された洋服を見ると、さっきまで飾られていたモノである。近くで見るとなお可愛い。鏡の前で合わせてみる。結果なんて知れている。似合わなかった。よくあることである。自分の趣味と顔に合う服装が違うのだ。
 このまま出よう。そう思い、カーテンを掴んだ手がピタリと止まった。本当にいいのか。好きな服を一度来てみるのも、一興ではないか。今の私は次期当主という立場の人間ではない。ただの大学生。なら…

 カーテンを開ける。違う方を向いていた視線が一気に私に集まった。黒い生地に白いラインの入ったフリルプリーツワンピース。アクセントとして胸元に赤いリボンが施されている。
 一応見せた方が良いかと思い見せたが、万古は何も言わない。やはり私は似合わないだろうか。

「お客様、お似合いですよ」

さっきの店員は似合っていると微笑んでくれているが、のせられてはいけない。今まで世辞しか言われてこなかったのだ。それぐらいの心得ぐらいある。
店員は次々にお世辞を並べた。それにしても、仕事柄世辞が上手い。流されてしまいそうになる。
 
「万古、どうだ?似合っているか?」

万古の元までより、尋ねると万古にため息をつかれた。それが本当の評価だ。胸の奥がズキッと痛んだ。何を期待していたのだろう。私にこんな服が似合うはずがなかったのだ。家では男物の着物に身を包み、大学でもシンプルなものしか着なかった。その他は着たことがなかった。男装のためだと思い込んでいたが、そうではないらしい。使用人の気遣いだったのだ。洒落た服、まして女物など似合わない。女でありながら、女ではない。そういうことを気付かせようとしていたのか。
 もしかしてなんて、図々しかった。私は乾いた笑いを漏らす。

「…やっぱり似合わなかっただろ。着替えてくるから、もう少し待っていてくれ」

試着室に戻ると、私は鏡に背を向けて着替えた。いつもの服を着ると、安心した。良かったいつもの自分だと思えてしまう。変化を望みながら、心のどこかで変化を恐れているとはなんと滑稽なのだろう。
 試着室から出ると、万古が悩ましげな表情をしながら待っていた。私に気付くと、表情を少し和らげる。待たせたことを謝ると、万古は気にするなと言って一緒に店を出た。本当に見るだけで、何も買わなかった。もし店員に期待させてしまっていたら、申し訳ない。

「髪は伸ばさないのか」

ショッピングモール内のスーパーで買い物をしていると、いきなり万古が口を開いた。

「髪は伸ばす予定はないな。長いと邪魔だろ、お前も邪魔じゃないのか」

そう言って、万古の長い髪を指差す。万古は微妙な顔をした。髪が長いと手入れが大変だし、夏になると余計に暑苦しくなると思うのだが、慣れなのだろうか。

「そう言われると、そうかもしれないな。俺はそんなに気にしたことはなかった。髪はもう何十年と伸ばし続けてるし、手入れも知り合いに頼んでる」「そんなものなのか」

人それぞれらしい。視界の端に映る自分の髪をそっと手で撫でた。手入れを少し疎かにしたからか、少しパサついている。この髪を伸ばしたら、どうなるのだろう。似合うだろうか。頭の中で思い描くと、面白かった。私が髪を伸ばしたら、母親に似ているのだろうか。
櫻永が用意する母親ではない、本物の生みの親。母親は、私を生んですぐに死んでしまった。元々身体が弱かったらしい。性格は温厚と聞いているが、聞く人による。多くの人が温厚と言うが、男勝りだったという人もいる。茶髪を腰のあたりまで伸ばし、いつも楽しそうに笑っていた。ほとんど執事から聞いた話だが、櫻永の口から一度だけ聞いたことがある、″綺麗だった”と。そう懐かしそうに言っていたのを覚えている。

「私は、髪は伸ばさない。万古がどうしてもっていうなら、伸ばすかもな」

万古は「そうか」と短く返事をして、その後は適当に買って帰った。





 万古と暮らし始めて暫くたった。櫻永も何も連絡をよこしてくることは無く、自由気ままな生活を送っている。サイコーだ。大学でも少し雰囲気が変わったと言って、話しかけてくれる子もできた。今の私は所謂リア充である。
 今日は講義が早く終わり、私は暇になった。だからといってすることもなく、私は寝て過ごしていた。充実しすぎて怖い。バイトでも始めようか。今日は朝から万古は出かけてしまって一人である。スマホをいじっていても、することがなくなってしまった。掃除をしようにも、もうすでに帰ってきてからすぐにしてしまったし、洗濯もすべて干してある。取り入れるほどの時間もたっていない。勉強をしようとしたが、何となく億劫に感じてやる気がわかなかった。
 ため息をつきながら、テレビを眺めているとインターホンが鳴った。近所の誰かが来たのだろうか。しかしそれはあり得なかった。このあたりに住む人たちは、パーソナルスペースが狭い。まるで自分の家のように、勝手に入ってきて勝手に出ていく。距離をとっているつもりが、いつの間にか仲良くなる。子供は少ないが、治安はいい。
 万古には誰が来ても一人の時は出るなと言われている。櫻永のことを警戒してのことだろうが、そこまで櫻永も暇ではない。何といったって現当主なのだから。私捜しのために、時間と労力を割くとは思えない。やっても部下に委任しているだろう。
 一度は無視をした。しかし何度もピンポンとなるものだから、気になって私はそっとドアスコープを覗いた。何も見えない。真っ暗だった。塗りつぶされているのかと思ったが、拭いても拭えなかったので恐らく違う。ドアスコープが使えないのは、相手側が原因だろう。最近悪質なストーカーや住民たちによる事件が増えているとか。これもその一環かもしれない。息をひそめながら、近くにあった鉄パイプを掴んだ。もしものときの用心だ。何もなければ、良かったねで済む。耳をドアに近づける。もう物音はしなかった。流石に気取られたか。ドアチェーンをしているか一応の確認をしておく。

「誰かいるのか」

祖ドアを少し開け、問いかけてみるが返事はない。気のせいか逃げ去ったか。私はドアを閉めようとしたとき、ドアの隙間に指が突っ込まれた。突然のことで動揺を隠し切れない。我を見失ったのは一瞬で、すぐに我を取り戻しドアを強く引っ張った。

「ちょ、ちょ、ちょ!万古!俺だって!」

もうすぐ扉が完全に閉じようとするとき、扉の隙間から声が聞こえた。中性な声である。その声は続けて言った。

「この前、お前の依頼を受けてやったろ!報酬!いつになったら払うんだよ、お前は!」

依頼?いったい何の話だ。
私には理解できないが、万古の知り合いであることは明確である。何やら報酬を払わなければならないようだし、そこまで警戒しなくても大丈夫そうか。すこし力を弱めると、ドアが勢いよく開いた。ドアチェーンが無残に散っていく。

「払いたくないからって、締め出そうとするのはどうかと…思う…ぞ。って万古、妙にか細くなったなー」

目の前には男の子が男性がいた。男性と目が合ってしまい、どうしようもなかったのでとりあえず「おはようございます」と言った。
 立ち話もなんだし、家の中に入ってもらうことにした。勿論、鉄パイプは右手に持ったままである。勝手に入れて大丈夫かと思ったが、か細い男性の姿を見れば力だけなら私でも勝てそうだった。

「お茶でいいですか」
「万古、お前そんなによそよそしくするなよー。僕とお前の関係なら、もっと親しくしてくれてもいいはずだー」
「親しくするも何も、私たちは初対面でしょう」
「そんなこと言うなよ万古ー。いつもよりも冷たいなー」

男性は間延びした話し方をする。きっとそれは癖だろう。何も矯正するようなことではない。というのに、話し方と相まってウザい。私は万古ではないと言っているのに、聞いちゃいない。その耳は飾りか。思わずため息をついた。

「万古ー。そう言えば、依頼料払えよなー」

思い出したかのように男性が言った。

「何度も言ったが、私は万古ではない。だから、依頼料とやらを払う必要はない」
「万古ー。何言ってんだ?お前を僕が見間違えるわけ…」

男性はそこまで言うと黙り込んでしまった。急にどうしたのだろうか。首を傾げていると、突然顎を掴まれた。そして引き寄せられて、男性の目と鼻の先に私の顔がある状況が爆誕した。これはどういうことか。聞き出したいところだが、男性は私の顔をまじまじと見ながらブツクサ何か言って聞く耳持たない。この状況をどうにかしてほしい。万古、ヘルプ。
 一人で嘆いていると、玄関で物音がした。万古が帰ってきたようだ。

「ただいま」

万古は、居間に顔を出す。そして次の瞬間顔をしかめた。

「何やってんだ。テメェ、ぶん殴られたいのか」
「あれ、暴力的な万古がもう一人いる。僕が知らない間に分裂したのか?プラナリアみたいに?そんなことあり得るわけ…万古だからあり得るかも」

万古は男性の胸倉に掴みかかる。男性はそんな状況でも、のんきに笑っていた。


暫くして、状況が落ち着いて自己紹介が始まった。

「コイツは、怪。俺の友人…というか腐れ縁でつながってるヤツだ。神出鬼没で気付いたら、後ろにいるなんてこともある」
「怪…さん。初めまして」

万古の知り合いだから、どんなヤツでも最初はいい印象を与えた方が良いと判断した。所謂初頭効果である。媚びを売るつもりはないが、万古に迷惑をかける気はなかった。
 目を笑わせて、そして口元を吊り上げる。声をワントーン明るくするイメージで、話し方は朗らかに。

「私は」
「ルカ嬢。君のことは存じているよ。いや、ルカ君と言った方が良いのかな」

怪が口を開いた瞬間、あたりの空気が一変する。

「蛍火ルカ。現役大学生。蛍火家の次期当主でありながら、愚か者と呼ばれている。愚か者と呼ばれているのは、蛍火家の当主は男系であり、本来女のルカ嬢がつけるものではないから。皆酷いものだよ。全く。現当主蛍火櫻永は君を当主にすることに酷く拘っているようだ」

そう言って、怪は私のすべてを読み上げた。全てを暗唱するように。
 いつの間にか汗が流れていた。蛍火家について詳しく知り過ぎている。この男はもしかして…と鉄パイプに手が伸びる。

「安心して。この情報はちゃんとした筋から手に入れたものだからね」

そう言って怪はウインクをした。その姿は絵になっていた。そして次の瞬間、怪の額は痛みに襲われる。痛いと声を上げるが、痛みの犯人の万古は睨みを利かせていた。コメディのような展開に、自然と体から力が抜けた。
 万古は騒ぐ怪を放り投げて、私の方に向き直る。

「怪が済まなかった。コイツは職業柄、何でも調べないと気が済まないんだ」
「好奇心は抑えきれないし、蛍火家なんて一生関われないかもしれないじゃん。手に入れた情報は、話しの内容に昇華させるんだから」

そう言って、怪は胸を張った。そして万古に強めにデコピンをされる。

「コイツは小説家をしてるんだ。中々面白いんだが、筆者を知ってるとなんとも楽しめない」
「万古が褒めてくれるなんて珍しい。やっぱり恋は人を変えるってホントなんだ。これもネタにするよ。
良かったら、ルカ嬢も一冊どうぞ」

怪は一冊の本を差し出した。万古に。
 いったい何のジョークだろう。リアクションに困った私は、愛想笑いをしながら礼を述べた。

「また間違えてるぞ」

万古がため息交じりに言うと、怪は自身の目をゴシゴシ擦る。そして目を凝らすように目を細め、また目を擦った。もしかして目が悪いのか。何度も訂正したのに分かってくれなかったのも、目が悪かったからかもしれない。少し怪の印象がよくなった。
 目を擦りすぎると、赤くなってしまう。何度も擦る怪の手をそっと握った。

「本当に万古は優しいな」
「…怪、それはルカだ」

怪は私の方をじっと見て、また目を擦ろうとする。それを止めると、私の手を今度はまじまじと見つめた。そしてその手をそっと握り、怪は私の首元に顔を近づけた。何かされる。危険を察知して、目をつぶった。息が首筋にあたる感触がしてその後…
 バタンという音がした。そっと目を開けると、さっきまでいた怪がおらず、万古が今に顔を出してくるところだった。万古はため息をつき、申し訳なさそうに言った。
 
「何もされてないか?アイツは出禁にするからな」

そして続けるように言った。
怪は人を見分けられないのだと。





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