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ときをうたうもの 第伍話


「何もされていない。それで、人を見分けられないっていうのは?」
「そのまんま。顔を顔として見分けられないらしい。目とか鼻は認識できるらしいが。
本人は気にしていないから、俺も気にしてない。アイツも仕事で人と関わり続けることはないから、不便じゃないんだろ」

結構重大なことを聞いてしまったような気がする。そんな重要そうなことを勝手に言われて怪は良いのだろうか。心配する一方で、納得もしていた。怪は最初から私を万古と呼んでいた。何度訂正しても分かってもらえなかったのは、万古の部屋にいる人は万古しかいないという固定概念からだろう。しかし、少しの間だけ私を認識していた。それはどうしてなのだろう。何か短時間だけ見分ける基準のようなものがあるのだろうか。聞き出したいが、万古に問うても首を傾げられた。

「アイツは悪い奴じゃないんだ……………………………………多分」

最後の一言で、信頼が半減した。私も怪は悪い人ではないと信じている。
…信じていいのか。心配になってきた。



 私たちが話し込んでいる間、ドア前では怪が騒いでいた。いつもは厳しい万古が優しかったし、巷で有名な蛍火家のご令嬢にも会えた。今日はいいこと尽くしだが、これだけは解せない。怪は、ただ万古とルカを見分けようとしただけなのだ。自分は無実。そう確信していた。
それにしても、疑問である。どうして万古の部屋にルカがいたのか。どうしていつもは騒いでも迷惑そうな顔しかしない万古が、自分を追い出したのか。問い詰めたいが、それにはドアを開けてくれないと始まらなかった。お願いだからといつものようにドアをたたく。

「万古、開けてよ。もう分かったから、何もしないから。ゴメンってば」

作戦を変えて、ドアを猫のようにひっかきながら話しかける。普通はご近所さんが苦情を入れてきても可笑しくはないが、その辺は対策済みである。ご近所さんは皆お友達のところに遊びに行った。偶然にしては出来すぎている気がしなくもないが。きっと気のせい。入念な準備と運で、無限の可能性をできるだけ掬い取ろうとする。それが自分の得意なことだと自負していた。
 なのに、今回は失敗続きである。でも不思議と不快な気分ではなかった。むしろ興奮してしまう。自分が予測できない。無限の可能性が目の前にあるのだ。掬い取ろうとして、掬いきれない。掬っても穴が開いているらしく、零れていく。

「万古、聞いてるでしょ。分かってるんだよ、僕は。君が用心深いってことぐらい」

ねぇねぇと何度も話しかけていると、扉が少し開いた。隙間からは、万古が睨みつけている。少し騒ぎすぎたかもしれない。低い声で、黙るように言い聞かせてきた。これは激怒している。おちゃらけながら謝ると、扉を閉められた。


「もう一度言うから、ごめんね」
「何に対しての謝罪だ。お前のことだから、よく分かっていないだろう」

怪はギクリとした。その通りである。

「分かっているとも、勿論だよ」
「本当か?じゃあ、何に対しての謝罪か言ってみろ。分かってたら、今回は見逃してやる」

一段と鋭い目を怪に向けた。怪はモジモジと気まずそうなふりをして、考え込んでいた。今日は一段と怒っている。どうしてなのか。これは外すと本格的にヤバそうである。次はないと脅されている。破ったらどうなるのか気になるところではあるが、タダじゃ置かないだろうから試せない。怪は何とか好奇心を抑えていた。

 いつまでも答えようとしない怪に痺れを切らして、また万古は扉を閉めようとした。怪は素早く気付いて、「待って!」と叫んだ。しかし、万古は扉を閉める。ドアの前で、怪が叫んでいるが、万古の今までの経験上ずっと放置していれば諦めるだろう。自分がいない間、部屋のシャッターを閉めて、侵入されないようにしなければ。万古が密かにそんな決心をしていると、居間からルカが不安そうにこちらを見ていた。

「一応、友達じゃないのか。何もなかったんだから、許してあげろよ」
「自分のことだろ、何他人事みたいに言ってんだよ。それに、いつもこんなことをしているからな。大丈夫だ」

我ながら心が狭いと思う。きっとルカも異性と触れ合うことなどあるはずだ。一生触れ合うななど言えない。それでも、あの近距離で異性といるところを見ると。気が変わった。触れ合わせたくない。視界に入れることも許したくない。そんな不可能なことを思うぐらいには、ルカに対する自分の愛は重かった。万古はあまりの重さに苦笑してしまう。恋人に気味悪げに見られたが、ルカはきっと万古の感情など計り知れていないだろう。


 独占欲。それが人より重い自覚がある。失うことを恐れている。諸行無常なんて言葉があるが、まさにそのままのものなんていないのだ。どれだけ綺麗な美女でも老いていってしまうし、宝石だっていつしか酸化して輝きを失ってしまう。そのままのものなんてない。どれだけ時間に抗おうとしても、無駄なのだ。無力を知って終わる。一人ぼっちで絶望するのがオチだ。
 万古がチラリと視線を横に移すと、呆れ顔をしながらドアを少し開ける彼女の姿がある。少し短い髪が彼女の首を見せ、美しい顔を晒す。その表情が歪んだり、緩んだりするのが見ていて楽しい。ねじ曲がっているようで、真っ直ぐになろうとする姿に惹かれている。いつの間にか目で追ってしまう。

「万古、彼を入れても大丈夫か?このまま追い出すのは忍びなくてな」
「…まあ、変なことをしないのならいいが」

万古は腕を組みながらしぶしぶ了承した。実は、万古はこのまま怪にはあきらめてもらうつもりだった。しかし彼女からのお願いである。しかも自分から見ると、背の低い彼女の視線が上目遣いになる。少し恥ずかしくなり、目をそらすと顔を挟まれて正面に向けられる。そんなちょっとした動作に惹かれる。これが惚れた弱みか。これは世の男が女に篭絡されるのも仕方ない。
 渋々怪を家に入れると、怪は未だに俺とルカの見分けがつかない様だった。万古を見てルカと呼び、ルカを見て万古と呼ぶ。それでよく小説家なんてやっていけるなと思うが、怪の愛嬌で乗り切っているのだろう。冗談だと言いごまかしている様子がありありと思い浮かぶ。
 万古が何も言わず茶をすすっていると、ルカが申し訳なさそうに万古を見ているのに気が付いた。話しかけようとしているが、怪がルカに話を振るため話せないようである。やっぱりさっさと追い出せばよかった。ため息をもらすと、ルカが肩をピクリと動かした。もしかしなくても、気を遣わせているな。ルカの所為ではないことで気を遣わせるのは流石に申し訳ない。弁明したいところだが、怪がやはり邪魔だった。
 トイレだと適当な理由をつけて、万古は離席した。怪にはルカに手を出したら、許さないと目線で脅すことは勿論忘れずに。怪は元気よく親指を立てて何かを伝えていた。その親指は了解のサインだと思いたい。どちらにしろもうすでに、一度絞めるのは確定している。逃げても追いかけてやる。


「それで、蛍火さんはどうしてここにいるのかな?」

話せる範囲でいいよと言いながら、怪はそれだけにとどめる気が無さそうである。遠慮があるのかないのか、はっきりしない。目を輝かせながら、怪は私を質問攻めにしていた。

「私はその…居候だ」

あながち間違ってない。家出をして、万古の家にお邪魔しているのだから。詳しいことは怪が胡散臭いので、話せない。そんな事情も話せないのだから、勿論蛍火家内部の情報は気軽に話せない。信頼を勝ち取ってからでないと、何も話してはならない。すっとぼけておけば、怪は諦めてくれるだろう。
 怪は「本当に?」と何度も確認してきてうざったかった。しかし何度も同じように答えると、私の回答がつまらなかったらしく予想通り諦めた。ダメだったかとかどうとか独り言ちている。どうして真実を話してもらえると思っていたのだろうか。甚だ疑問である。

「なら、蛍火ルカさんは万古の身体について知っているのかな」

今日の天気を伺うような口調で爆弾発言をする。声色には何処か軽蔑と期待が入り混じった複雑なものだ。表情は変わらず、微笑んでいる。

「万古の身体についてとは」

一度とぼけてみる。すると怪は冗談だと判断したらしく、「またまた」と軽く私を小突いた。

「知っているんだよね。万古の秘密」

さっきとは異なるはっきりとした物言いと探るような視線。なんとも居心地が悪い。目線をそらすと、怪は視線をそらした方向に立つ。正直ウザい。雰囲気で察せないのだろうか。何の話か分からないと恍けて居るつもりだったが、話してくれるまで聞き続けると怪が脅してきた。とうとう私は両手を上げて、お手上げだと言って初めて会った日のことを打ち明けた。ズルいは思うが、本家の話は避けさせてもらった。
 話し終えると、怪は「なるほどな」と漏らした。そして首を縦に振って、ウンウンと頷いた。何に対しての頷きなのだろう。一人で納得されても困るのだが…。怪の様子からはあまり察することはできない。話の最中は、真剣な表情をして相槌を打ってくれていたのだが、その頷きとは意味が違うもののように思う。そしてつまりと怪が口を開く。

「つまり、ルカは万古の身体について知っていて…尚且つ交際もしていると」
「まとめるとそういうことだ」

怪は真剣な顔で、私を見つめる。瞬きもしないので、ドライアイにならないか心配になってきた。

「ネタにしていい?」
「いや、ダメだろ」

突然、怪がメモ用紙を片手に言った。一瞬、我を忘れて突っ込みを忘れていた。いつの間にか戻ってきた万古が突っ込んでくれなかったら、よく考えずにオッケーしてしまっていたかもしれない。
一刀両断されてにもかかわらず、怪は「そうか」と言って笑っていた。怪自身、結果は予想できていたのかもしれない。

「万古は思っていたよりも、束縛が強いんだね」
「うるせぇな」

にっこりと笑いながら言われた言葉に、万古が吐き捨てるように答えた。次に、怪が愉快そうに煽ると、万古は挑発にあっさり乗る。言い合っている姿を見ていると、仲が良いのか悪いのかはっきりしない。私はただ眺めていた。


「それじゃ、お暇しようかな」

さっきから唐突に怪は言い出す。本当に行動に一貫性がない。

「嗚呼、さっさと帰れ」
「万古ー、冷たいなー…彼女ができたら、友達には冷たくなるってこのことかな」

怪は冷たい言葉にも笑って返す。まったく気にしていなさそうだ。心臓に毛が生えているのか。万古は冷たい言葉をかけるが、本心ではなさそうである。怪の様子を見て、またため息をついた。 
 あれから、すぐに怪は帰っていった。いや、半ば万古に追い返されていた。お邪魔しましたと元気よく言う怪を、万古が押し出して扉を閉めたのだ。怪が帰ると、部屋は静まりかえり台風一過のようだった。万古がなぜか謝ってきたが、あれはあれで楽しかったと返しておく。親友とは、万古と怪のような関係なのだろう。心置きなくぶつかり合って、笑いあえる関係。少しうらやましくなったのは内緒である。



怪は万古の家から追い出され、うだるような暑さの中近くのカフェに入って電話を掛けた。

「もしもし。行ってきましたよ。お話とはだいぶ違いましたけど…ルカさん楽しそうにしていましたよ。盗人猫くん…嗚呼、万古ですか。彼はいつも通りっていうか、普通過ぎてビックリでした。
 ところで、ちゃんと例のアレしてくれるんですよね。約束しましたよね…もしもし?聞いてますか」

怪はスマホの画面を見ると、ため息をついた。そしてカバンからパソコンを取り出し、執筆を始めるのだった。




 朝から雀の鳴き声で起こされた。網戸にした所為もあるのだろうが、それにしても五月蠅い。目覚ましレベルの五月蠅さである。耐えきれなくなって、ベランダから顔を出すと、雀がいっぱいいた。そこら中に。寝起きで少々語彙力が低下しているが、状況はお伝えしたとおりである。窓から見える景色のどこを見ても雀がいた。

「隣の家のばあさん、ついにやりやがったな。どうするんだよ…ったく」

いつの間にか起きていた万古が、頭を掻きむしりながら言った。
 話を聞くと、キクというおばあさんが、近所で一人暮らしをしているらしい。そのおばあさんが、なんでも動物好きで野良犬や野良猫を保護して新しい飼い主を探す活動をしているらしいのだが、最近は鳥を飼いたくなったと話していたそうだ。その話を聞いた地域の住民が、餌をばらまいていたら鳥が寄ってくるのではないかと話したそうだ。万古はその案に反対したのだが、結果はこれである。多分餌をまいたのだろう。鳩も交じっている。これは近所だけで済まされなさそうだ。自治体にまで話がいくのではないだろうか。
 私と言えば、万古にとりあえず学校に行ってこいと言われ、支度をして家から出された。一応居候の身とはいえ、あのあたりに住む住民なのに、私はこの後の処理を手伝わなくていいのか。疑問に思ったが、家主の万古が学校に行ってこいと言うのだから仕方ない。空を見上げると、雲一つない空。今日は最高気温が四十度近くなるらしい。暑さを少し恨めしく思う。
 厚さにメンタルをやられながら歩いていると、大学前の信号が青になった。走りたいが、走るほどの元気がない。全身汗だくだった。頑張れと自分を鼓舞してみるが、体にはスピードを上げる気力はなかった。結局信号までたどり着いたのは、赤になった後だった。うだるような天気の中、ただ茫然と通り過ぎる車を見ていた。
あの人は余裕そうな表情しているな。あっちの人は急いでるみたいだ。と人間観察に一人勤しんでいると、目の前に黒いワゴンが急停車する。いやな予感。車から離れようとするが間に合わなかった。車の扉があいたかと思うと、腕を掴まれ車の中に引きずり込まれてしまった。
 車は私を乗せて急発進した。時間帯もあって、目撃者は大勢いるだろう。デメリットしかないと思うが、実行する意味はあるのだろうか。頭は冷静に考えているが、実際はロープで拘束されている。典型的な誘拐。猿轡はなく、目隠しもない。何処からどう見ても素人の犯行である。最近はすこぶる治安が悪いようだ。

「…貴方たちはいったい誰だ。一体何が目的だ」

犯人たちは反応を示さなかった。声を発せず、すべてアイコンタクトとジェスチャーで意思疎通を図っている。ジェスチャーなら何とか読み解けそうではあるが、彼らが誰であれ目的を知りたい。誘拐と言えば身代金だ。金に困っており、一発逆転を狙っての犯行か。それとも別の何かがあるのだろうか。
 長考に耽っていると、突然布切れのようなものが押し当てられた。最初に眠らされなかったから、完全に油断していた。藻掻いて抵抗するが、抵抗も空しく、意識が暗闇に沈んだ。


「_るか_」

誰かに呼ばれた気がした。目を開くと、目と鼻の先には大きな目があった。パチパチと何度も瞬きをして、大きな目が次第に離れ少年の顔が見えた。

「おっ!目があいた!母さん、るかがめをあけたよ」
「きっとお兄ちゃんに呼ばれたのが、嬉しかったのね」

少年が女の人を連れてきて、女の人が私を抱き上げる。少し浮遊感がして怖かったが、優しい手つきで頭を撫でられた。それだけなのに安心感に包まれる。

「るかが笑った!いいな、母さん!僕にもやらせて!」
「いいけど、危ないから優しくしてあげてね」

そう言って、女の人が私を少年に渡す。少年は、私を抱き上げると嬉しそうに笑いかけた。そして、縦に揺らす。何度も。由良氏の天才かもしれない。将来バーテンダーになれる。そんな冗談を思っていると、あまりに激しくするものだから、少し気分が悪くなってきた。

「そんなに揺らしては、ルカも苦しくなってしまうだろう」

どこか低く朗らかな声がした。その声の主は、少年に拳骨を落として私を取り上げる。今度はがっしりとした腕に包まれた。これもこれで安定感があった、嫌いじゃない。少年がズルいだなんだ言っていたが、激しく揺さぶられたくないのでこのままにしてもらいたいところだ。

「あらあら、ルカはパパが好きなのね。しっかり養ってもらうのよ。この人には、お金があるんだから」
「ちょっとそれは子供の前で言う話ではないんじゃ…当分嫁に行かせる気はないけど」

夫婦はお互いに噴き出して、笑っていた。
仲良し夫婦に、妹の世話を焼きたがる兄。そして家族から愛される妹。幸せな家族。私が欲していたものだ。あまりにも眩しすぎる光景。これは現実ではない。母も兄も私にはいないのだから。私を優しく抱きかかえる父の腕の中で、私は深い眠りについた。
 次に目を開けると、誰かの背中の上だった。辺りが夕日に照らされて真っ赤に染まっている。あの甘い匂いがするから、きっと私の父親だろう。

「ルカ。ルカは大人になったら何になりたいのか、一つだけ教えてくれないかな」

私のなりたいもの。選択肢なんて数えきれないほどあって、その中の一つとなると難しい。だから、聞き返してみた。

「何になってほしい?」

夢の中、寝ぼけて言った一言である。意識が定かじゃない今だから言えた。

「…ルカはルカのなりたいものになったらいいよ」

そう優しそうな声で言った。

「とうしゅ様にはならなくていいの?」

聞いてしまった。私がなりたいものになればいいと言われたが、それはまやかしに過ぎないのだと。嘘だから信じるなと訴えかける嘘で作られた自分に負けてしまった。
発してしまった言葉を取り消すなんて不可能である。私が黙って答えを待っていると、父は何も言わなかった。顔は見えないが、怒らせてしまったのだろうか。私は無言の返事に「そっか」と返して、心地よい揺さぶりの中また眠った。


 また誰かに揺さぶられている気がする。さっき少年にやられたときのような激しさはない。ただ割れ物を扱うように大切にされているような。父のようながっしりとした腕ではない。それでも離さないようにしっかり抱きしめられているように感じた。

「起きたか」

聞き覚えのある声がして、目を開く。さっきと同じような赤い夕陽と、長い髪が視界いっぱいに広がった。

「万古?」

万古に呼びかけると、万古は短く返事をする。夢かと思ったが、現実らしい。リアルな夢だった。
それにしても記憶を遡っても、眠らされた後から何も覚えていない。目が覚めたら、この状況だった。状況を説明してほしいところだが、眠気が襲ってくる。

「眠たかったら、寝てていいぞ。ルカは誘拐されてたんだから、怖かっただろう」

微睡ながら考える。私は怖かったのだろうか。これまで誘拐されることは一度もなかったが、未遂なら何度もある。その度に怖かっただろうと聞かれ続けてきたが、今でもあまり分からない。最初は恐怖で怯えていたのは覚えている。何度も繰り返されるうちに慣れてしまったのかもしれない。今感じているのは、恐怖というよりもかけ離れた温かい気持ちだった。
 万古の首に手をまわし、そっと抱き着く。心臓の音がして、眠りに誘おうとしてくる。
ふと何だか服に何か染みついているような気がした。過去にもこんな展開があった気がするのは気のせいか。これはデジャヴである。視線を下にずらすと、服が赤く染まっている。もしかして…口元がぴくぴくと引きつく。温かい気持ちなど吹き飛んで行ってしまった。

「万古、どうやって私を助けたのか聞いていいか」

声を低くして言うと、万古は明らかに動揺した。もう一度今度はさらに声を低くして尋ねると、万古は白状した。 
 朝、私が学校に出た半時間後のこと。万古は、私の学生証を発見して急いで後を追いかけてきていたらしい。万古が、例の信号にたどり着いた時には私はもう誘拐された後だった。騒ぎに気付いた万古が、目撃者の話を聞いて情報から私が誘拐されたことが判明。そこから私の捜索をしたということらしい。

「それで、肝心の方法を聞いていいか」
「それはだな…」

万古は、モジモジと歯切れの悪い話し方をした。よっぽど話したくないらしい。言いたくないのなら言わせる必要はないと訴えかける良心と気になるから聞いておこうとする好奇心がせめぎあう。きっとその時の私は絶妙な顔をしていた。

「知り合いに頼んで、ドローンを飛ばしてもらった。車のナンバープレートは、SNSで検索したら写真を投稿している奴がいたからそれを参考にしながら」
「一台一台をか?」
「SNSで検索してもナンバープレートしか出てこなかったからな。それっぽい奴を見つけたら、窓から車内をのぞき込ませた」

ドローンとは最新技術を使ったものだ。運搬に使用できるかもしれないと言われていたのは知っているが、そんな使い道があったのか。

「監視カメラは確認しなかったのか?」
「監視カメラも思いついたが、現在の犯人の行方を知りたかったんだ。過去の跡ばかり追っていても、後手に回るだけだ」

そしてその後どうしたか。万古の格好を見れば何となく察せられた。答え合わせをするように、万古が口を開く。

「見つけた後は、車にはねられながらしがみ付いてやった」

何度想像してもホラー映画にしかならない。さっき撥ねた人物が、車にしがみ付いて止まれと繰り返し訴えてくるのだ。ホラー以外の何物でもない。万古の一芝居?で、犯人たちは車を捨てて逃げ出したらしい。ちゃんと全員捕まえて、お縄につかせたそうだ。

「それにしても、もっと安全な方法をとれ」

ため息交じりに言うと、万古がむっとした表情をして言った。

「安全性よりも、早く助け出したかったんだよ」
「早く助けてもらっても、万古が重症なら嬉しくはない」
「重症になんてならねぇよ。俺、死なないから」

自虐ともとらえられるそれを、万古は平然と言って見せた。死なないから、傷なんてつかない。そんな風に考えているのだろうか。死なないとしても、傷つくだろ。痛みはあるだろ。なんで自己犠牲を働かせて、助けようとするんだ。色々言ってやりたかったが、言い尽くせないと思った。
 だから、万古の背中から落ちないように体を後ろに反らせる。そして体ごと前に振り切った。もっと穏便にすればよかったと痛感した。頭が割れてしまったかもしれない。想像以上の痛さだった。

「…っテテ…何すんだよ」
「これでチャラにしてやる。自己犠牲なんてやるな。胸糞悪い」

これで胸を締め付けるような痛みも消えてくれるだろうか。



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