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ときをうたうもの 第参話

幼い頃からそうだった。

「ルカ様。こちらがお似合いですよ」

そう言って使用人たちは、男物の着物を差し出した。私は着物を着ることに対して、何も不満はなかった。だから、大人しく従ってきた。

「ルカ様。貴方は次期当主の地位ですから、堂々としていなければなりません」

私は何より完璧を求められた。

「ルカ。分かってくれ。これはルカのためだ」

"私のため”。その言葉は私を縛り付けた。
生まれてきたのが男だったら苦労しなかったのに。何度叶わない願いを願っただろうか。



「ルカ、昨日は楽しかったろう。大学も今日はお休みだし、出かけようか」

優男が私を居間に呼びそれに従って行ったら、そんなことを言われた。尋ねているようでも、私に拒否権はない。私は返事をする代わりに頷き、部屋を出て支度を始めた。支度と言っても、荷物は大したことないものだ。財布にスマホ。それだけをカバンに入れる。あとは何か必要なものはあるだろうか。そう思い部屋を見回したが、特になさそうだった。
 スカスカのカバンを持って、部屋を出て玄関に向かう。長い廊下を歩く度に床が悲鳴を上げた。外装だけは綺麗だが、内装は昔ながらのもの。良く言うと、伝統を守っている。悪く言いうと、古臭い。近々工事する予定が入っているらしいが、それまで床が持ってくれるように願うしかない。
 玄関では使用人たちが頭を下げて待っていた。

「いってらっしゃいませ。ルカ様」

機械人形のように言う使用人たちの前を足早に通り過ぎる。表面上は従うふりをしていても、内心はわからない。それに、私が無能の次期当主なのは周知の事実。使用人たちは噂を否定するどころか、寧ろ肯定している。仕方ないことだ。何度も言われ続けてきた。今更どういわれようと問題ない。
蛍火家は元来男系の一族であったという。例外は過去に一度だけあったらしいが、資料にも残っていないほど昔のことらしい。資料も紛失し、残っているのは出所のわからない噂だけ。噂を相手にするほど、蛍火家には余裕が無かった。
現当主には、息子と娘がいた。しかし娘が行方不明となり、現在唯一の跡取りの息子が伝統通りに次期当主となっている。それが外面。
真実はそれと真逆。行方不明になったのは息子の方だ。そして次期当主の座に居座っているのが娘_蛍火ルカ_つまり、私である。
私が女であるのは蛍火家の関係者なら皆が知っている。どうして周りから牽制されないのかというと、誰も蛍火家には適わないからである。財力面からしても徹底的な管理を行い、情報漏洩対策に関しても完璧。もし事実を漏らすような輩が出たとしても、即処分される。勿論関係者も。
全ては当主による統率故である。口が堅いものばかりを雇用し、洗脳を施してしまう。あまりの徹底さに、使用人から畏怖の対象とされている。それを知ってか、飴と鞭をよく行い躾をしている。

「ルカ。さあ行こうか」

優男が車の中から手招きをしていた。逆らうと後が面倒なので、大人しく私は車に乗り込んだ。
執事によって扉が閉められると、私たちを乗せた車が走り出す。今日は曇り空。雨が降りそうな様子だ。窓の外を呆然と眺めていると、優男が口を開いた。

「世間話でもしましょうか、ルカ。昨日遊びに行ってきた友人について聞かせてください」
「…昨日は、猫カフェ、神社、展望台に行ってきました。人が多かったですけど、楽しかったですし、美味しいものばかりでした。外国からのお客様方にウケそうでしたので、お勧めします」

優男は頷きながら話を聞いている…ように見えるだけである。実際は、どう利用すれば蛍火家にとって利益を得られるか、頭をフル回転させているのだろう。そういう男だ。会話を楽しむ気なんて、はなからない。

「それで、友人はどんな子なのかな」
「…友人は、優しい人でした。少し突拍子もない事をしでかす節がありますが、ある意味天才ともいえるのではないでしょうか。いくら殴っても死ななそうな頑丈さがあります」

万古の話題を避けようとしていたのがばれていたらしい。逃がしてくれなさそうな鋭い視線が、私を睨みつける。

「なるほど。馬鹿と天才は紙一重なんて言葉もあるんだから、きっといい子なんだろうね」

優男のいい子を真に受けてはいけない。この男にとっていい子とは、自分もしくは蛍火家にとって扱いやすく利益の見込めそうな子のことである。

「それで、その子はどこ出身なのかな」

また始まった。嫌気がさしてくる。この男は、私がどこの誰と何をしたかを必要以上に聞き出そうとする。自分の考えうる最高の友人、家族等々人生をすべて設計してくれる設計士の気分なのだ。
 最初は信じていた。この優男のことも、彼が示す自称最高の人生設計についても。しかし、全てが彼の思い通り。従っているときは楽だった。考えることも何もかも、彼の言う通りにしているだけで上手くいったのだから。
全てはあの瞬間に変わった。
”失敗するのを恐れて何もしようとしないのは、駄々こねる赤ん坊と一緒だぞ”
あの言葉で、私は進まなければならないと思うようになった。

「秘密です」
「そうかい。秘密か…ルカも大人になったんだね」

優男はそういって笑った。私は決して優男を見ないように視線をそらした。きっとそこには当主という皮をかぶった化け物がいたはずだ。本物の化け物万古とは比べられない化け物っぷりだろう。圧力をひしひしと感じる。


「気に入ったものがあるなら、ついでに買ってあげるよ。遠慮なく言いなさい」

そう言って、優男は私を遠くから観察しているのだろう。私の一挙手一投足を見て、判断するのだ。私がまだ使えるか、故障していないか。
もし故障していると判断されれば、私は必要とされなくなってしまう。もともと必要とされていなかったというのに。偶々優男の気まぐれで生かされていたのだ。気まぐれが終われば、私が消される。半端は許されない。

「それなら…僕はここからそこまで全てが欲しいです」

私は演じるのだ。この男の前では。理想の次期当主を。

そう言いながら店の端から端の商品を指さすと、優男は笑顔で首を縦に振った。これは正しい選択だったらしい。優男の基準は不明だが、次期当主には大人に強請る愛嬌は必要になるらしい。過去にも同じことがあり遠慮したときは、何度も甘えるように言い聞かされた。洗脳するように何度も。
今回は素直に強請ったのだが、やり過ぎたかもしれない。全部を着るには、来シーズンまでかかりそうだ。
 店員は動揺もせず、テキパキと商品の包装を行っている。太っ腹な買い物の仕方を見慣れているのだろうか。私は暇になって、店内をぶらつきながら商品を眺めていた。
 ふと窓の外を眺めた。チラリと見覚えのある姿が目の前を通った気がする。最初は勘違いかと思ったが、何度かあった姿は見間違えなどしない。
ハイブランドのワンピースに、腰まで伸びた艶のある髪。目元は綺麗な二重。まるでモデルのような整った顔をして、真新しいブランド服を着こなしている。あの人は…

「お母さん」

そう口に出すと、急に暗闇に包まれた。

「ルカ、数日前に言っただろう。君の”新しい”お母さんはすぐに用意するからね、と」

白檀の香りがする。好きな香りのはずなのに、なぜか不快感で吐き出しそうになってしまった。昔からこの男は、この匂いをさせていた。
 気持ち悪い。だが、例え苦しかったとしても、耳だけは澄ませておく。人生で私に身についた生き残るための方法。もし情報が途絶えてしまえば、私は流されるままになってしまう。それはごめんだった。

「連れて来い」

優男の低い声が耳元する。私に目掛けて投げかけられた訳ではない。使用人たちに向けて言った言葉。そう理解しつつも、声を聴くだけで体が震える。さっきまでは大丈夫だったのに。女のわめき声と共に、何かが転がる音がした。

「高田さん、貴女は契約を破りましたね。契約書には、≪ルカの母親としての義務を果たしている間、蛍火家の一員として好きなだけ贅沢を尽くしても構わない≫と書かれていました。
また≪ルカとの関係を放棄した瞬間、貴女は蛍火家の一員ではなくなる。この時にお礼金を払う。貴女はこれを受け取り、ルカの目の前には一度たりとも姿を見せてはならない。≫とも書かれていました」
「な、何だって言うのよ!偶々、私は恋人とデートしていて通りかかっただけです!ルカに害の与えることなど何も」
「いいえ」

優男は女の弁明をピシャリと断った。そして声をさらに低くして言う。

「貴女は何か勘違いをしているようだ。貴女がルカに害を与えるのは、自明の理ですよ。現在でも、ルカに母親の恋しさを思い出させてしまった。
次期当主たるルカには、母親の恋しさなど不要。いつでも泰然自若な態度こそ求められているのですよ。それ以外、彼に必要ないのです」

優男がそっと私の目を隠していた手をどかした。一気に光が目に入り込んできて、眩しい。目を細めていると、段々視界が安定してきた。
ワインレッドのドレスに身を包み、化粧をした女性はまさに少し前まで母親と呼んでいた人物であった。かつて不器用ながら微笑んでくれていた彼女は今怯えた顔をしている。

「ひ、久しぶりね。ルカ」
「はい」
「元気にしていたかしら」
「まあまあ…と言ったところですかね」
「あ、貴方もお父さんに言ってあげてよ。私は悪くないって。一回ぐらい見逃してくれても大丈夫だって」

私も誰かに危害を加えることは望んでいない。望んだことは一度もないのに。大学生にもなって優男にこんなちっぽけな反抗しかできない。
優男の視線が私に威圧するのだ。次期当主たるものの言葉を、態度を。ここで示さなければならない、と。

「わ…私は…」
「ルカ。君は今冷静に慣れていないようだね」

声が震える。それでも、「見逃してもいいんじゃないか」とその言葉が私の口から発せられることはない。私の反抗を察知したのか、優男が私の声を遮った。

「貴女は、ルカの母親ではない。ルカに返事を強要するようなことはしないでいただきたい」

まるで自分たちが正義だと訴えるように堂々と言い放つ。全てブーメランだということに気付かないのか。

「一度たりともルカの前に姿を現してはいけないともお知らせしたはずですが…まあ、今回だけは偶然という貴女の言葉を信じることにしましょう」

優男があまりにもアッサリ引いたので、違和感がある。いつもなら隙を見せればここぞとばかりに責め立てるというのに。
 優男の気まぐれで場が収束しかけている。この事実で張りつめていた周りの空気が少し緩んだ気がする。しかし、「ですが」と優男はあまりにも優しく、子供に言い聞かせるように言った。

「偶然としても、約束を破ったことには変わりありません。さてどうしましょうかね…ルカ、どうします?貴方に任せてあげますよ」
「わ…僕にですか。そのような機会を下さり、光栄でございます」
「遠慮しなくていいんですよ。彼女は、貴女に害を与える人物です。容赦などしてはいけません」

私は心にもない言葉を並べた。チャンスを与えるから、もう一度考え直せという優男なりの警告なのだろう。ここで逆らえば、私は切り捨てられる。蛍火家の跡取りは全く縁のないどこかの誰かになるかも。もしかすると、もうすでに用意されているかもしれない。
一方で、従えば私の首はつながるだろうか。これまでの反抗を考えると。躾は逃れられないだろうけど。
”失敗するのを恐れて何もしようとしないのは、駄々こねる赤ん坊と一緒だぞ”
そうだ私は踏み出さなくては。過去を乗り越えて、私は未来へ進む。

「僕は」


街を歩いた。今日は台風が近づいている影響で、午後から大雨が降るらしい。風がビューッと吹き荒れる街中を私は、呆然と歩いた。いつもは人通りの多い大通りも閑散としている。ふと立ち止まり、横を見ると窓に映る私がいた。少し顔色が悪い。今にも泣き崩れそうな顔をしている。手に何も持たず、護衛すらいない。ご令嬢とは思えないだろう。
 私が立ち止まった店の中には、外の天気とは対照的に和気藹々とした雰囲気が流れていた。よく見れば、その店はこの前万古と行った猫カフェだった。脳裏にあの頃の光景が過る。楽しかったなぁ。そんな感想しか出てこない。私は薄情だ。その程度の感情しかわかなかった。
 だというのに、そばに思い出の場所があるだけでなぜかつらく感じる。汚したくない。ずっと楽しかった思い出のままで、いつの日か忘れる程度の思い出にしたい。私は思い出のある猫カフェとは離れた向かいにある店に移動した。距離は道路を挟んで向かいということもあり、あまり離れていなかった。それでも、汚さずに済んだことを喜んでいる自分がいる。そのことに思わず苦笑を漏らしてしまった。あまりにも滑稽に思えたから。


ポツポツと地面を水玉が侵食していった。雨だ。最近の天気予報は時刻まで正確に当ててくる。雨が降る少し前に、私の移動先の店は閉店してしまった。雨宿りをしようと誰もいないオーニングテントの下に潜り込む。しかし雨は横殴りで降ってきて、私は結局濡れる羽目になった。雨が降ってきたというのに全く嫌な気分にはならなかった。まだ足りない。もっと降ってくれてもいいと思う。いっそ、私を遠くまで吹き飛ばしてくれ。知らない場所まで。
 あの時。優男に選択を迫られたとき。私は「許す」そう口にしようとしたはずだった。

「僕の前に現れないで」

いつの間にかそう口にしていた。本当はもっと違う言葉をかけてあげるべきだったのではないか。そう悩んだこともあった。しかし、一度言った言葉を取り消すなんてことはできない。ものは考えようである。言葉通り、私の目の前に現れなければ、彼女は幸せになれる。
 それから彼女は私の前に一度たりとも現れていない。少しの間世話になった。母親として仮の身分ではあったけど、家族として過ごして情がわかなかったと言えば嘘になる。私は、彼女が恋人と幸せになることを願うしかできない。
 私が彼女を見逃す。例え強盗事件の際に置いてけぼりにした人物だとしても。それは優男もわかっていた。確信できる。私の意志は理解してくれる。私の言葉を聞いた優男は頷いていたから。

「ルカがそういうなら、そう処分しましょう」

そう、彼女らは見逃されたはず。何を心配して居るのだ。きっと大丈夫。
 そんな心配事をずっと繰り返し、この頃碌に眠れていない。ふとした時に、頭の片隅でいつも心配事ばかりをしてしまっている。
 だから、台風で学校が休校になったため、私は執事に頼んで家から脱出してきたのだ。気分転換も必要だというのに、気分が全く晴れない。むしろ荒んでいってる気さえする。
こんなとき、万古ならどうするのだろう。気分が落ち着いてきたのか、最近会ってもいない彼氏のことが頭を満たしていく。もう新しい彼女を作ってしまっただろうか。デートの日以来連絡もよこさないから、まあ仕方ないと思える。私が反論する余地はない。しかも、恋愛では自然消滅なんて珍しくないと聞く。私たちもきっとその中の一例になったのだ。

「だから、きっと彼のことは考えるだけ無駄」

さようなら、私の救世主。私が見捨てられた日に降臨し、まさに神にさえ等しく感じられた男。あの光景を思い出すように目を閉じ、万古のことは忘れるように念じた。これできっと大丈夫。私は自己暗示が得意だと自負している。思い込みで、どうにかなることだってあるのだから。



 目をそっと開く。目の前は相変わらず豪雨で、風が出てきたのかゴミが飛ばされている。くずゴミもあれば、どこかのお宅の洗濯物まで。ニュースを見ていないからわからないが、すでに避難警告が出るレベルまで達しているのかもしれない。さっきまで和気藹々としていた件の猫カフェも、テンヤワンヤしているのが見えた。
 私も帰るか。そう思い、私は電話を探した。しかし、どこにもない。電話は絶対にカバンの中に入れていた。その確かな記憶と習慣がある。つまりそのかばんが手元にないのだから、私がかばんを持っている訳ないのだ。間抜けである。これでは、迎えも呼べない。
 仕方がないので、猫カフェの方に移動して店内の電話を貸してもらうことにした。服が濡れる心配はない。もうすでに下半身はずぶぬれだった。手遅れである。
 問題は吹き荒れる風だった。ゴミやら洗濯物まで吹き飛ばす勢いの風を私が耐えきれるか。そこがキーポイントだ。現在は建物の陰に隠れることで何とか凌けているが、障害物もない道路まで行ったらどうなるか予測できない。
自然の力を侮ってはいけない。よくある大雨でも洪水を起こすほどになると、死傷者を出すこともあるのだ。人間が風で吹き飛ばされる…なんてこともある。あるいは飛ばされてきた看板にぶつかるとか。ここにいるのもとにかく危険なので、風が弱まった瞬間に向かいの猫カフェにまで移動する。そっちの方が人がいるからまだ安心できるし、手段としても簡単だ。そう思い私は、風が弱まるのを待った。

 時間がかかるかと思われていたが、案外すぐにチャンスはきた。なんと数分後に。長丁場になると困ると思っていたので、ラッキーだ。風が弱まり、今がチャンスだと一歩進もうとしたその時。急に突風が吹き荒れて、目の前を何かが通り過ぎた。危なかった。飛んできた何かは鈍い音を立てて電柱にぶつかった。もしもう少し早く出ていれば、何かにぶつかっていたかもしれない。
初めのうちは、謎の飛来物はピクリとも動かなかったが、だんだんモゾモゾと藻掻き始めた。思わず距離をとって、武術の心得もないのに身構えてしまう。襲ってきた瞬間、どうにかして倒すしかない。一体何が出てくるのだろうか。好奇心と恐怖心が入り混じったよくわからない感情だ。待っていてもモゾモゾとしか動かないのがじれったかった。耐えきれなかった私は、ついに好奇心に耐えきれず恐る恐るタオルを壱枚ずつ剝いでいった。
 一枚…二枚…三枚…まるで怪談のようだ。一体何枚巻き付いているのだろうか。外側はバスタオル、内側はハンカチやらTシャツやら洗濯物が巻き付いている。器用に巻き付いたものだ。
そうしていると、目が引かれる程の鮮やかな赤い布が顔を出す。パッと見た感じそんじょそこらの生地ではなさそうだ。その布を引っ張ってみた。すると…

「…こんにちは」

万古の顔があった。突然のことで驚いて、「こんにちは」と返してしまう。驚きすぎると人間は冷静になるのか。初めて知った。

「…いったい何をしてるんだ?洗濯物にくるまって」
「俺はただ隣のうちに住んでるばあさんの洗濯物が飛んで行ったって五月蠅いから、取りに来ただけだ」
「なるほどな」

普通に返事をしてしまったが、そこからどうすればこの状態になるのか。そこを聞きたい。

「お前こそどうしたんだ?今は台風の影響で大雨警報、暴風警報、洪水警報の三コンボが出てるはずだぞ」

家の重圧に耐えきれなくなって、軽い家出だ。そう言えたならどれだけ楽だっただろう。私は乾いた笑いをこぼすしかできなかった。それにしても、それほどの三コンボが出ているのなら、外に出た万古にも聞き返したい。が、洗濯物を拾うためだとか言い出しそうだ。この男に危ないという発想はないのか。

「…とりあえず、建物の中に入るか」

ザーザーと音を立てながら雨が降るこの場所は、のんびり話すには場所と状況が悪い。このペースだと本当に洪水が起きてもおかしくない。下手すると,
このまま二人とも風邪をひいてしまう。私が立ち上がり、風が止んでいるのを確認する。とりあえず何の伺いもせずに、二人で押し掛けるのはお店側に申し訳ない。まず私が言って確認してくるのがよい判断だろう。流石にこのロールタオルを連れていくのは、時間がかかってしまう。そして走りだそうとすると、いつの間にか洗濯物を脱いだ万古に抱きしめられた。

「ちょっと待て」
「お触りの許可した覚えはない」
「そんな許可は恋人に入らないな」

急な出来事にドキッとして、意味の分からないことを言い出してしまった。これまですでに何度も触っているだろう。きっと突然の万古の行動に驚きすぎただけ。今回は偶然出会っただけで、万古との関係は自然消滅させる。そうした方が良い。自分でもさっき暗示した。大丈夫だ。今のは気の迷いである。
落ち着き、一度深呼吸をする。

「離してほしいんだが」
「嫌だ。このまま離せば、お前は俺から離れて行くだろ」

図星だ。私は離されたら猛ダッシュで逃げて店に駆け込むつもりだった。
そんなことないと言ったが、万古は信じてくれず首を横に振るばかり。この状況はどこから見ても、修羅場に見えるのではないだろうか。周りの目が気になって仕方ない。

「万古、離せ」
「離してほしいなら、一つ聞いてほしいことがあるんだ」

万古は深刻な声をしていた。表情は見えないが、きっと声と同じような表情をしているのだろう。さっさと離してほしいが、それには万古のお願いを聞く必要がある。いやな予感しかしないため、お断りしたいところ。だが、それでは離してもらえない。
いろいろな感情が入り混じり、私は言った。

「分かった、分かったから。さっさ言え」

降参だと両手を上げて言うと、万古はすぐに離れてくれた。
 思わずため息をつく。そこまでして何がしたいのだろう。万古の方に向き直すと、万古は私にさっきまで自分に巻き付けていた洗濯物を渡してきた。

「正直どう持って帰るか悩んでたから助かった。近所の奴らがさ、次から次に洗濯物をとって来いっていうから、こんな量になってたんだ。飛んでいくのが分かりきってるってのに」

そう言って万古は私以上の洗濯物を抱えた。ドキッとして損した気がする。ロマンチックの欠片もない。これでは私が一人で思い上がっていただけではないか。顔が少し熱い。

「って、なんだ」

万古の背中を肘で強く殴った。
この恥ずかしさをどうにか昇華したかった。


「迎えを頼む。場所は駅近くの猫カフェ前で。…そうだ。じゃあ」

そう言って電話を切った。相手は執事である。
二人であれから洗濯物を運ぶことになった。私もびしょ濡れになりながら運び、猫カフェまで運んだのだ。洗濯物も私たちも泥だらけである。店内を濡らしてしまって申し訳ない。猫たちは店の裏に連れていかれて、店内は少し寂し気に映った。
 店に電話を借りて執事に電話をかけると、第一声が「ご無事ですか」だった。心配をかけてしまった。少しだけ申し訳なく思う。執事が大雨で少し迎えが遅れると言っていた。道路が見えなくなるほどの大雨だ。仕方ない。それに屋敷の床に穴が開いたそうだ。湿気とシロアリの仕業らしい。近々屋敷をリフォームするかもしれないと言っていたが、今日に変更になりそうだ。次々と起こるアクシデントに屋敷中が大騒ぎしているのが、電話口から聞こえてくる。それでも執事はことが収まり次第迎えに来ると言って、電話は終了した。

「どうだった?帰れそうか」
「今のところは帰れそうにない。ひとまず雨が止むまで待つしかなさそうだな」

そう言って、貸してもらったタオルで髪を拭いた。服を店の裏で絞って、水気を出来るだけ落としてあるが、軽く服が透けてしまっている。だから、私は絞ってもまだ濡れている服をまた着る羽目になった。こんなことになるなら、着替えを持ってくるべきだったと後悔してしまう。

一時間が経過した。雨はまだ止まない。むしろ勢いを増した気さえする。いつになれば止んでくれるのだろう。
一時間半が経過した。雨は少し止んだ…気がしなくもない。でも、まだ大粒の雨が降り注いでいる。暇なので、雑誌を貸りて読み始めた。
二時間が経過した。雨が小雨になってきた。もう雑誌を読み切ってしまいそうだ。新しいのを借りよう。
三時間が経過した。文芸集を貸りて読み始めた。新人作家の作品がなかなか面白かった。今度この文庫本でも買ってみようか。
 この三時間の間、万古は寝ていた。しかも、よだれを垂らして。上品さの欠片もない。

「万古、よだれが垂れてる」
「ん。分かった」

そう言って、万古はティッシュでよだれを拭くとまた眠った。しばらくするとまたよだれが垂れてきた。そしてまた拭くように言う。
 それを何回繰り返しただろうか。そろそろ苛立って来た。口を閉じて寝ろ。そして、何度も起こしているのだから、起きろ。仮にも元恋人を独りほっといて寝るか。気まずいとか感じないのだろうか。次第に不満が止まらなくなってきた。

「万古、もうそろそろ起きろ」
「ん。知ってる」

そして話すら聞かない万古に、私は怒りを抑えきれなくなった。

「万古!いい加減に起きろ!雨が止みかけてるし、良い頃合いだから、僕も帰る!」

服の下に着けているナベシャツをそろそろ脱ぎたい。ずっと着ている訳にもいかない。体にも悪いと聞いたことがあるし。それにずっと留守にしていると、優男がうるさい。
 私の大声で、万古は横で伸びをしながらようやく目を覚ました。ようやくかとため息をつく。

「それで、どうやって帰るんだ?車か?」
「それはそうだな。私の迎えが来る。家まで送ってやるから、それに乗って帰れ」
「それはラッキーだな」

そこで、万古は固まった。何かあったのだろうか。首をかしげていると、万古の首がこちらに向いた。

「それはつまり高級車に乗れるってことか」
「高級車…かは分からないが、車には乗れるぞ」

私の言葉に万古は子供みたいに跳ねて喜んだ。一体何が嬉しいのだろうか。

「俺初めてだ。高級車に乗るのって」

そこでふと思った。万古は私の迎えの車を高級車だと確信している。私は家が金持ちだといっただろうか。名前など最低限の情報の他は、何も漏らしていないはずだが。まさか蛍火家の情報が外部に漏れているのか。完璧主義の優男がそんなミスする訳ないと思う。しかし万が一のことがあってはならない。

「万古、高級車だなんだと言っているが、私は何か話したか?」

今度は万古が首を傾げた。そして言った。

「だって、ルカの家は自家用車を持ってる家なんだろ。俺は乗ったことはあるが、持ってはないからな」

結局私の勘違いだったらしい。内心安心した。もし万古が蛍火家の情報を知っていればどうなったのだろうか。少なくともただでは済まなかった。私の勘違いでよかった。


傘を差し、足元を濡らしながら執事がやってきた。フォーマルな服装からラフな服装に着替えている。記憶の中でも数回ほどしか見たことのない珍しい格好であった。

「ルカさん。迎えに来ました」

言葉遣いに違和感があったのは、きっと万古の前だからだろう。執事なりに気を使ってくれているのだ。

「ありがとう。ついでに彼も乗せて帰ってあげてほしいんだけど」
「そう…ですか。恐らく問題ないと思いますが…」

どことなく歯切れの悪い返事だった。執事は車と万古を交互に見ている。私もつられて車の方を見る。いつもの黒い送迎用の車に、人影が見えた。あれはもしかして…
その時。執事の電話が鳴った。執事は胸ポケットの電話を取り出して相手を確認すると、店の端の方で話し始めた。相手はなんとなくわかった気がする。理由はないが、勘というヤツだ。

「あれって、お前の親戚か?」

万古が急に口を開いた。あれとは十中八九執事のことだろう。

「親戚ではないけど…」

言葉に困った。役職上で言えば、主と執事の関係。しかし育ててくれた母親のような存在でもあるし、生き抜いていくための基本的な考え方を教わった先生でもある。

「私にいろいろ教えてくれた人…だな」
「そうか。大切な人なんだな」

ザックリとまとめて言われてしまった。大切な人ではあるが、もっと言い表しがたいような感情もある。まあ、大切な人には違いない。「うん」とだけ返しておいた。
 私たちがのんびりと話していると、電話を終えた執事が帰ってきた。

「お待たせいたしました。ルカさん、ご友人さんも、車にお乗りください。"櫻永”さんが是非ともお話したいとお待ちしています」

嫌な予感は当たるものである。今回は最悪の展開だ。櫻永の苗字は蛍火。優男の名前である。


 足が重い。向かいたくない。自由になった後、家に帰るのが大嫌いだった。ずっとこのまま自由でいたい。そう願いつつも、私は毎回家に帰る。今回は万古がいる分気分がましだが、それでも櫻永と万古を会わせたくない。会わせれば、蛍火家の人間と関わるに足る存在かどうかの品定めが始まる。万古とは、そんな関係でいたくない。櫻永というフィルターなしで、関わり合いたいのだ。そんな思いが、店から車までのわずか数メートルの距離を長く感じさせる。執事は私の気持ちを慮ってか、チラチラと私の顔をうかがっている。万古の表情からは、どう思っているか分からなかった。
 とうとう車の前までやってきた。執事が車の扉を開けようとする。その時であった。

「すみません。やっぱり遠慮します」

万古が言った。たった一言で、私と執事の視線を集める。万古が遠慮するなんて、明日は大雨が降るのか。今も降り続けているけど。もしやこの大雨は万古の所為か。

「…いきなりどうされたのですか。遠慮せずとも、大丈夫ですよ」
「なんだか申し訳なく思ってしまって」

車まで来て言い出すことかと執事の表情に書いてあった。それには同感である。

「そういう訳ですから、すみません。帰ります」

万古はそう言って私の手を引いて走りだそうとした。だが、そうは問屋が卸さない。

「遠慮なんてしなくてもいいよ。ルカの友人なのだから」

後ろを振り向くと現当主蛍火櫻永が、窓を開けてこちらを見ていた。

「それに言いたいこともある。君、うちの跡取りの息子を惑わさないでくれるかな」

優しげな声で、明らかな怒りを含んでいた。

「惑わす?いったい何のことか分からないな。俺は友人と遊んでいただけだ。それに俺の知る此奴は跡取りなんか向いてねぇと思うが」
「…やっぱり最近のルカが可笑しかったのは君の所為だね。何処の何方か存じませんが、人様の家に余計な口出しはしないで頂きたい」
「そんなかっかするなよ。俺も横から口を出されるのはすきじゃねぇ。
でも、俺にはルカが帰りたくなさそうに見えたけどな」

売り言葉に買い言葉である。櫻永の煽り台詞に嘲笑しながら万古は返した。私はそれどころではなく、思わず万古の方をみていた。分かっていたのだ。彼には、私が思っていたことが。

「俺には普通が分からないが、子供ってのは家に帰るときは嬉しそうにするもんじゃねえのか。しけた面しながら帰ろうとするもんかね」
「…それは君が恵まれていたということですよ。帰りたくなくとも、帰らないといけないこともあるのですよ」

櫻永の表情が少し曇って見えた。しかしそれも数秒で元に戻った。

「先程も申しました通り、ルカと君は合わない。住む世界が違いすぎるのです」
「確かに俺とコイツでは住む世界が違うな。好きなことも嫌いなことも知らねぇ。それどころか出身地、誕生日も分かんねぇ。何も知らない他人に近い」

櫻永は鼻で笑った。何も知らない赤の他人と居て、気が許せるはずがない。むしろそばにいることが苦痛になってしまうのは明白。

「それでは、君の利益にはなりませんね。勿論ルカにも」
「なるさ」

万古は断言した。雨で濡れてしまった前髪から、あの瞳が顔を出す。

「俺が惚れたから」

突然の告白。辺りには雨が降り注ぐ音だけが木霊する。櫻永は口元を隠しながら、噴き出して笑いだした。エンターテインメントを見ているかのようである。心底惚れたから。つらい目に合わせたくない。なんと滑稽なことだろうか。
 
「だそうですが…ルカ、帰ってきなさい。そんな彼といても、つらいだけですよ」

先程よりも明らかな怒気を孕ませながら言う櫻永に、私は体が反応してしまう。無意識に体が家に帰らなければならない。そう判断している気がした。
 なら意識はどう判断しているのだろう。櫻永の言う通りにした方が良いと考えていなかった。従った方が、きっと幸せなのだろう。しかしそれは私の望むものではない。櫻永の当主としての幸せなど、私は求めていない。私は最低の親不孝ものだ。罵倒されても仕方ない。それでも、私は世話を求めている赤子ではない。

私は万古の手を掴んで逃げるようにその場を後にした。執事が呼んでいるが、知ったことか。もう後戻りはできない。振り返らず私は車が見えなくなる場所まで走り、適当な路地に入り込んだ。
 ここなら大丈夫。そう思うと、自然と体から力が抜けた。体を雨が濡らしていく。いつもよりも体が重く感じてしまうのは、きっと雨の所為だ。顔があげられないのも。唇が震えてしまうのも。全部、全部、全部、全部。雨の所為。

「いいのか」

万古が口を開いた。顔を上げると万古の双眸が私を見つめていた。

「…分かんない。これでよかったのかな」

涙が溢れた。今考えれば、なんでこんなことをしてしまったのだろう。そんな後悔がある。一方で、よく頑張ったと褒める自分もいる。どちらが正しいのかなんて分からなかった。ただ新たな一歩を踏み出したということだけは分かった。







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