あなたもバトバトにしてあげる(ノ^^)ノ

画像1 北海道には野辺に祀られた馬頭観音がたくさんあります。郷土史研究家による北海道各地別の馬頭さんの本によると特に十勝はたくさんあるように思えます。理由には十勝は北海道でも開拓の主力が馬耕であったこと。戦時中に本別町から足寄町にまたがる広大な軍馬育成場があったことが挙げられます。でも本当の理由は他にあったのかもしれませんw
画像2 馬頭の祖形はインドで、 輪聖王が馬にまたがり、四方の敵を蹴散らしたようにとか、 馬が草を食い尽くすように、 悪の根を断つとの思想から出ており、ヒンズー教の神でハヤグリーヴァー「馬の顔を持つ」が起源であるらしい
画像3 馬頭観世音 は、十勝地方では普通 、各集落に一か所以上祀られるし、個人の設置のものも、相当数に上る。  だから、500か所以上も祀られており、一般、特に農家や農業経験者にとって、最も身近なそん格なのです。
画像4 また、最初は  仏界グループの侍者 、つまり脇役だった。それが恐らく、その思想が馬の多い中国に渡り、次第に昇格して 観音となり、弘法大師・空海によって日本にもたらされ、六観音の中のひとつの尊格の地位が与えられたらしいです。
画像5 馬頭が集落ごとに杞られるには、もう―つの背景があった。それは、集落に馬頭を祀ることにより、祭礼に名を借りた、住民の息抜きの場と機会が持てたからと推測される。
画像6 開拓地は、村の中心市街地から、5キロも10キロも離れていることは、少なくない。当時の乗り物は、冬は馬そり、夏は馬車と自転車である。しかし、自転車は当時、二戸に一台という例が大半で、常に利用できるのは、主人である。また、馬車 、馬橇を御して市街地に出られるのも、主人か、年長の長男とされていました。。
画像7 これでは、 家の主婦や、年端の、 腰の弱った老人は、家にこもったままで、息抜きができない。だから、地域のそうした人々が、歩いて行ける集落のどこかに馬頭を祀ることで、祭礼と称する公然の作業の休養日ができ、お互いの交流の場と機会が持てたのである。
画像8 元々は馬の供養に建立された馬頭さんでしたが、徐々に都合で流用されていきました。確かにお寺や神社のような手続きや資金の問題がなく、像さえあれば良しということで,これが広まり、集落ごとに馬頭さんが置かれる様か見られるようになりました。でも像を刻むにも、ろくな資料のない昔のことで記憶や話を元に作られたためか様々な姿の馬頭さんが誕生しました。
画像9 本来の馬頭さんの姿は3面で、頭部に馬の面を頂き、6本の腕を持ち手前の両手で馬口印を切る坐像ですが、1面で腕は人と同じ2本で合掌の立像であっても馬の面を頂けば、それが馬頭さんなのです。
画像10 なんとも、いい加減というかオリジナリティ溢れる土着信仰なのです。娯楽の理由付けという背景ですが、祭事(?)はとても厳格で農繁期にぶつけるように年に2~3度執り行われていたと言います。
画像11 やがて馬頭さんは人の時代の流れの中で少子高齢化、農業人口の減少、娯楽の多様化、過疎化… 様々な理由で馬頭さんを護る事が難しくなリ、馬頭さんは、いくつかの集落分をまとめて合祀されたり、お寺や神社に供養委託されたりと色々な道を歩みます。
画像12 その造形の自由さと身近な歴史のリアル感が好きで,私は馬頭さんの前へ歩んでいるのかもしれません。
画像13 馬頭祭をおろそかにしていて事故など起こすと「それみろ!」なんてこともあって大事にされたそうです。
画像14 集落の顔そのものといってもいいくらいですが、現在では祭事も簡略化されている場合はよい方で、放置されているこども少なくありません。
画像15 祖父の昔のアルバムには小さな祠の前で大勢の人たちが和やかに過ごす写真を見たことがあります。
画像16 その祠の像は近所の農家に出入りしていた大工さんの手による木造で鮮やかに着色もされていましたが、現在は隣の集落の御影石で作られた馬頭さんと同じ祠へ合祀されているそうです。
画像17 寂しくないですか? 馬頭さん  大丈夫だよ。3人でひとりみたいなものだからね。  (馬ではなく牛🐮を頂く馬頭さん)
画像18 ちなみに馬頭観音菩薩は学問の御利益も高いのだそうです。
画像19 あなたもバトバトにしてあげるw
画像20 合祀の例
画像21 祠も石のもの
画像22 きゃしゃな腕の馬頭さん
画像23 字碑と一緒に
画像24 かなり大雑把w
画像25 親子関係?
画像26 立像スタイル
画像27 令嬢を携える
画像28 子どもがいる
画像29 お寺に預けられた馬頭さんと諸々
画像30 修復失敗したみたいな馬頭さんw

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?