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「いや、血ぃ、出てるよ? なんで痛がったらあかんねん」

2023年1月クール、「ブラッシュアップライフ」というドラマが話題になった。

主人公がよりよいものに生まれ変わるために人生を生き直すことでブラッシュアップし、徳を積むという話。主人公の職業は、最初は市役所職員だったのが、2周目の人生では薬剤師になり、3周目はテレビ局員、4周目は医者、そして5周目は…と物語が展開していく。

この「ブラッシュアップライフ」をみて、私ははて、と考えた。
人生ブラッシュアップしてやり直せるとしたら、私は一体何をどうブラッシュアップするだろうか。それは何を基準に?給料?やりがい?働きやすさ?
そして私は、自分の人生の何を変えたいのだろう。

普通の人が普通にできることが、障害者は制限されてもしょうがない?

そんなことを考えていたある日、ちょっとした事件がおきた。

1年に1回開催される障害児向けの大規模な福祉機器展「キッズフェスタ」に参加するため、海外に住んでいる重症心身障害児の次女と夫が日本への帰国を検討していた。

そもそも障害児向けの福祉機器というのは膨大にあって、だけどそれを体系的に紹介してくれるような場所はネット空間含め、ほとんどない。その意味でこのイベントは障害児にとって貴重な機会。だけど何を隠そう、実は我が家、そういうのに本当にうとい。周りのアンテナの高いお母さんに教えてもらい、「へえっそんなのんがあるのん?」というわけで、文字通りおのぼりさんの如く東京行きのチケットを買った。

夫は仕事の状況次第で行けるかわからないと言っていたのが、3日前になってようやく目処がたったので、次女と二人のフライトを予約した。私はいい機会だから色んな人に次女と夫を引き合わせようと、もろもろの調整をして楽しみにしていた。

ところが数時間後、乗車できる車椅子ユーザーの数に制限があるという理由で、搭乗を断られてしまったと夫から連絡が入った。
詳細は夫が書いた記事でどうぞ▼

要はチケットは普通に買えちゃったんだけど、あとから「やっぱダメっすね」って言われたわけだ。

これ、Twitter上でついたコメントの半数以上は「安全上しかたないんじゃね?」という反応だった。
うん、そうだよね。安全上、他の人に迷惑がかかるかもしれないから、普通の人は普通にできる行動が、車椅子を使っている人は多少制限されてもしょうがないよね。後出しで断られても、悪いのは直前に申し込んだこっちだよね。そういうことよね。

周りの乗客に迷惑がかかる、という話をされると途端に何もいえなくなる。
しかし。でも。
本当にそういうことなのかな。

自分の意志で体を動かすことができない次女が、もし飛行機事故にあったら一番に犠牲になるであろうことは、私達親はもう随分前から覚悟できている。コロナだってそうだ。コロナにかかって最悪のことになったら仕方ないという覚悟など、ハナからできている。それでも生きるということは病気や怪我を避けることを最優先することと同義ではないよね、という理解でもって、次女はあちこち出向いている。

要は、何かあったらリスクを負うことは、私達はいつだって覚悟しているのだ。それでも車椅子が必要な人が搭乗することは、本当に周りの乗客に迷惑がかかることなのだろうか。万が一本人が取り残されて助けられなかった時のつらさ、というなら、私達は常にそういうつらさと隣合わせだぜ?
多少一緒に背負ってくれても、いいんだぜ?

車椅子だから、体が弱いから、できることが少ないから、じゃあずっと家にいてじっとしていればいいかというと、そんなことはない。全然ない。他の人と同じように「あ、今週末時間できそうだからアレやりたいな!」とかやりたいし、「年に1回のチャンスだから思い切って行っちゃおう!」とかやりたいの。好きな学校に通いたいし、好きな人に会いたいし、好きな場所に住みたいし、好きなものを食べたいの。次女はなんにも話せないけど、私だったら、たぶんそう。

「ぼくがパイロットね!ハルを乗せてあげるよ!」by 弟

これ、なんかデジャブなんだよな。

障害児福祉や障害児をめぐる教育のシーンでは、不十分だと感じることや、おかしいなと感じることが時々ある。でも、例えば医療費とか福祉機器の補助とかで、すでになんらかのサービスを受けている身としては、それ以上を求める発言は出しづらい。

社会の他の課題や一般の”健常な”市民の要望を盾にとられると、そうですかごめんなさい私が悪かったです、としか言えなくなるのだ。
その意味で、当事者は弱い。

本当はみんな普通に生きているだけで、道路や水道といったインフラから病院や学校といった施設まで、行政から様々な恩恵を受けているはずだし、いつ誰が障害を持って生きることになるかなんてわからないと思うんだけど、そういうことを想像する人はあまり多くない。

今回の飛行機の件は、この構図に似ているような気がした。他の乗客の安全を盾にとられると何も言えない。本当は「車椅子ユーザー」の定義にあてはまらないだけで、赤ちゃん連れのお客さんや足腰の弱い高齢者なんかもたくさんいるはずなんだけどな。

人それぞれの痛みや苦しみは数値化してくらべられない

こういう事件があると毎回思い出す、ある小説のあとがきがある。大好きな西加奈子さんの「i」という文庫本の最後に掲載されている又吉直樹さんとの対談文だ。

又吉:恵まれている人を守ってくれる表現って少なくないですか?虐げられてる人は、もちろんしんどいけど、恵まれている人は悩んだらあかんような風潮もあるじゃないですか。「お前ぐらいで文句言うなよ」って永遠に言い続けられる、みたいな。人それぞれの痛みや苦しみって、数値化して比べられない。だから自分の痛みはきちんと痛みとして受け止めながら周りの人の気持ちも理解できるようになればいいんだけど、今、逆に行ってるじゃないですか。「もっとたいへんな人、おんねんぞ」って。苦しむことすらできない人が作られている。いや、血ぃ、出てるよ?なんで痛がったらいかんねんって思う。

「i」ポプラ文庫

我が家は恵まれている。
たとえば子どもを授かったこともそうだし、寝るところや食べるものに困るような状況ではないし、家族関係も良好だ。障害を持って生まれた次女も、今のところは気管切開も胃ろうもない。

でも、じゃあ、恵まれているから、心を痛めることやつらいことがないかというと、もちろんそんなことはない。

インドに住んでいた時に数え切れないほど出会った、路上で赤ん坊を抱く裸足の子どもや、チャパティを恵んでくれと毎日車の窓を叩いてくる女の人は、今この時の食べ物に切羽詰まっている状況だ。でもだからといって、あなたは自分の子どものごはんを抜いたりするだろうか?文句を言う子どもに「ごはんぐらいで文句言うなよ、インドの路上生活者は1日にチャパティ1枚も食べられないんだぞ」って言うだろうか。私は言わない。恵まれていようがいまいが、腹は空くのだ。

他の人も大変だからそれぐらいで文句言うなよ、とうのではなくて、痛みや苦しみをみんなでなくしていけるようにできないものか。

毎日無償の食事を提供するシク教寺院、グルドゥアラ・バングラ・サヒブ

例えば福祉車両の補助や天井走行リフトの補助が出ないこととか、例えば小児であることを理由にヘルパーの支給決定が見込めないと言われたこととか、例えば就学する場所がフィリピンで見つけれられなかったこととか、日本でも行きたい学校に通うには様々なハードルがあることとか。

恵まれている我が家が壁にぶち当たった時、それに対して声をあげていいのかどうか、いつもちょっと躊躇する。これ、おかしくない?って言いたいことを、言えないような気持ちになる。その度に、又吉さんの言葉にいつも背中を押されるのだ。だって血、出てるんだもん。「痛い、助けて」って言って何が悪い?と。

余談だけれど、東大を出てるからといってやたら持ち上げて来る人がいて、それも同じことのような気がする。だって、私は大学時代、いわばものすごく大怪我をして、大量に出血して、かろうじて傷を塞いでなんとか首をつないだようなものだから。

それはそれは、とてつもなく痛かった。それなのに、その痛みを無視するような声掛けは、しばしば私にとって暴力的に聞こえるのだ。血だらけだったけど、立っていた場所が大理石だったからと言って「え、すごいですね、大理石の上歩いてきたんですね。羨ましいです、文句なんてないですよね」って、それは違う。「私、大理石の美しい模様を全面ヌルヌルにするくらい、血まみれだったの。わかる?大理石、どうでもいいの」って言いたいのに、それがうまく言葉にできないから、未だに時々ダメージをくらう。

人生のブラッシュアップは生き直すだけじゃないかもしれない

で、最初の話に戻る。
大学を卒業して、普通に就職して普通にキャリアを積む、という機会を逃した私は、もしもう一度人生をやり直せるとしたら、普通に就職をしてキャリアをつむ人生を、やっぱり歩んでみたいなと思う。うまくキャリアをつんで、例えばジャーナリストになって活躍する自分を想像して目を閉じる。

ジャーナリストなら、公平な立場で「この人、血、出てます!誰か消毒液と絆創膏持ってきて!」って言えるんじゃないかな、と思うのだ。なんだったら「こんなところに石置いたのはあなたですね、取り除きましょう!」ってなところまで。

インドでお会いした新聞記者さんの、誇りと埃に(!)まみれる存在感は本当にかっこよかったし、興味関心の向くままに取材をするノウハウと肩書をもった友人は本当に楽しそうだ。メディアの世界で働く憧れの友人や先輩の話を聞くだけでワクワクする。

なりたいものとか夢とか、ずっといろいろこねくり回してきたけど、リアルタイムで世の中を伝え、真実を暴くかっこよさ、なんなら社会を大きく動かす力を持つジャーナリストに、ずっと憧れてきたんだな、と人生38年目にしてようやく気がついた。

おでこに怪我をした4歳ぐらいの時の筆者

そんな憧れのジャーナリストの一人から、今回のフライト事件をきっかけに取材をしてもらえることになった。取材をしてもらえることになったというか、夫が取材をしてもえることになったところに、むりやり私もお邪魔した。(だって憧れだからさ!)

憧れの彼女は、画面越しでも圧倒的な信頼感のようなものを纏っているのが感じられた。様々なつながりを駆使して関係各所にあっというまに取材をかけ、鮮やかに執筆する記事の先に、力強い新たな道が一つひらけていくような、そんな感じがして感動している。

その記事はこちら↓

彼女のような人に、私はなりたかったのかもしれない。
でも同時に、今ここに書いている、又吉さんの言葉の意味とか、うまく言葉にできないけれどもいつもここらへんにある心の襞の揺れとか、そういうのは多分、普通にキャリアを積む人生では味わえなかったものかもしれない。

大怪我をして、ヌルヌルして這いつくばって、信頼できる夫と結婚して、田舎に住んで、障害のある娘と生き方を模索して。そういう人生だからこそ、今この一文字一文字を書けているのだと思うと、まあまあ私の人生も悪くない。何よりも、多分私は人生やり直したとしても、きっとまた4人の子どもを産むんだろうな、と思うのだ。

「ブラッシュアップライフ」の主人公のように人生を生き直すことができるなら、やり直したいことも、やってみたいこともたくさんある。でも、怪我をした時の痛さも、血の味も、私は少し、知っているから。痛いときは「痛い!」と言う、血を流す隣人がいたら「この人、血ぃでてます!」と手を挙げる。その治療法や原因まで一気に解決するような力はないけれど、それが私の使命なのかもしれない。

勘違いでも、まあいいや。
そう思い込んで、これからのライフを、できればあらゆる立場の人のライフも一緒に、ブラッシュアップしていこうじゃないの。

最後に、令和6年度から民間事業者にも義務化される「合理的配慮」について、内閣府のリーフレットを貼っておきます。


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