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「かくあらねば」の水底に潜ってみる

ここしばらく、
「辻政信」さんのことを調べている中で
自分自身の経験と照らし合わせて
彼の心理に想像を巡らせていたのですが

自分が自分の感覚を掘り進めていくうちに
気づいたことがあったので、
この記事では自分の話をしようと思います。

全体青臭いお話になります。
黒歴史の打ち明け話です。

話題は、
「かくあらねば」を
無理を押して実践する時に
自分が何を考えてきたか、です。


私には、
「かくありたい」姿に
「等身大の自分」を押さえつけ狎れて、
自分の本当の感覚がわからなくなった時期があります。

そもそもなぜ、
「かくありたい」姿を設定したのか、については

それによって「何か」が証明されると思っていた

からなんじゃないか、と思っています。

何を証明しようとしていたのかの
言語化を試みて
しっくりきた言葉が「尊厳」です。

社会で生きていると
「尊厳」が蔑ろにされている
と感じる場面って、結構あると思います。

それが嫌なんです。

そして、私が誰に自分の「尊厳」を
証明しようとしていたかというと、
「自分」だと思います。

他者ひとにはその人の人生があるわけだし、
自分の(本人にもよくわからない)不足感の解消のために
誰かに付き合ってもらうのは違うな、
と感じていたからです。

自分さえわかっていればいい
みたいな感覚です。

自分は「尊厳を踏み躙られて当然な存在だ」とは
と思いたくなかったんだと思います。

20代の私の人生テーマは
「自分を認められるようになりたい」
でした。

裏を返せば
「ありのままの自分では認められない」
ということです。

「ありのままではダメなんだ」と思い始めたのはいつか

これに関しては
かなりハッキリしています。
というか、
自分の半生を振り返ると
まず「ありのままでOK」だった時があったか怪しいくらいです。

幼少期には
わかりやすい「敵」がいたので
その敵のようになってはいけない、なりたくない
「ああなったら一巻の終わりだ」みたいな感覚を
肌で感じていました。
被害を受けると、怒りや失望感や倦怠感の落とし所として
「これを反面教師としよう」という結論を出していました。

その流れで
「誰かに寄生してただ食って寝て排泄してるだけ」の状態は
「特大NG」の部類に振り分けられていたと思います。

ただ、成人してから、
江戸人の「人間一生糞袋くそぶくろ」ということばに
肩の荷が降りるような心地がしたのもまた事実です。

平賀源内のこのうたが好きでした。

ればおき、おきれば
ふてはこして快美きをやりて、
死ぬるまでが活きる命

痿陰隠逸伝なえまらいんいつでん


とはいえ
幼くてまだ生命力が余っており
ちょっと潔癖のキライがあった時は

「生きる」とは、
「自力で必要な人間の営為をすべてこなしている」
状態を指すくらいのつもりでいたと思います。
それができなくて
自分責めにエネルギーを消費していったわけではありますが。

ただ、これもあくまで「自分はどうか」という話で、
「人に評価してほしい」とか
「人に見てほしい」という感覚はなかったと思います。

…あるいは、「人に見てほしい」と思うことにも
NGを出していたのかもしれません。
子供の頃は「かまってちゃん」が感情的に嫌いでした。
自分の「影の投影」への拒絶というやつですね。

「証明してやろう」という気になるのはどんな時か

なんであれ、
私は人から「ほっとけちゃん」と呼ばれた女ですから
「ほっとけちゃん」らしくない
“証明欲”がどこから生じたものか
気になるところです。

この心理の出発点はなんだったのか、
すぐに浮かんでくるのは
「他人を軽率に見下げる人がしがちな邪推」を
被った体験です。

私はこういう邪推を向けられても
相手にしないようにしていました。

幼いながらも
「喧嘩するのは友達だからだ」
(自分のことを打ち明けるのは
 信頼関係を築きたい相手にしかしたくない)
と思っていたので
そういう輩とは友達になりたくない
→喧嘩(「対立」という自己表現)をしたくない
という理屈を立てていたんだと思います。

「同じ土俵に立ちたくない」とか、
「時間を無駄にしたくない」とか、
なぜ自分が反撃しないのかについて
頭の中で理由を反芻はんすうしていたのを覚えています。

でも、言われっぱなしって癪じゃないですか。

外に出さないと決めて、
自分に「時間を無駄にするな」と言い聞かせて
押さえ込んだ忿懣ふんまんを、
どう処理するかという問題になります。

私の場合、
相手のことは見ないようにして、
自分がしっかりすることに集中し、理想の姿を追求することで
ついでに・・・・謂れのない濡れ衣を着せてきた「かつての有象無象」に、言外に「これが私の真実だ」という反論を叩きつけようとしていたんじゃないかと思います。

理想の在り方が板についてきた頃は
職場だったり、
第二の職場みたいになっていたアパートの自室だったりで
自分で自分を追い込みながら、
なぜこんなことに躍起になっているのか
と虚しくなることがたまにあったんです。

ふとした時に、もしかしてこれって
「自分の正統性の証明のため」に
こだわっているんじゃないか
と気づきそうになって悪寒が走ったりもしました。

幼稚な攻撃を(本心を押さえつける形で)
かえりみずに突き進んでいくと、
攻撃をしてきた個体の印象は次第に薄れて
なにか漠然とした「敵」像に収斂しゅうれんされていきます。

意識の上で、理想を実践出来ていると思える頃には
不愉快な感覚を与えてきた対象は
「部外者」とか「他人」とかいった、漠然とした存在になっていて
「世の中(にいる腹立たしいやつの偶像)への敵意」みたいな、
誰に対してでもない怒りだけが
こびりついている状態になっていました。


…案外、
他人を軽率に見下げて邪推を振り撒いているひとも、
こういう「誰とは言わないけど不愉快だった」記憶を
やつあたり相手スケープゴートに投影して、
反撃をした気になっているのかもしれないですね。

特定の言動をとる他者に
「他者への敬意がない」
「邪推という害毒を振り撒く迷惑行為者」
というレッテルを貼って
彼らへの怒りをガソリンにして
「自分の理想の在り方」を実践しようとすることもまた、
その世界観に没入しているからこそ起こる現象なんだと思います。

何故なら、「そう思っている」のは私自身なのだから。

本当に「他者への敬意がない」のかは
本人の頭の中を覗かないとわからないことだし、

何を持って「敬意」とするかは人それぞれだから、
そもそも「敬意がある」とはどういうことかも定かではない。

「邪推を振り撒かれて」不愉快だと感じるのは、

「人を悪くを言うと痛い目を見る」と信じていて
「邪推をされて不愉快だった」経験を覚えていて
「邪推をする奴にテリトリーに入って欲しくない」、
そして「邪推をする奴と仲間だと思われたくない」
と思っている「私の都合」が背景にあるから。

…このまま続けると語るに落ちそうなので、
ほどほどにしておきます。
もうだいぶ白状してしまっていますが。

「ありのままでも、生きていられる」という発見

三年前、
安定した収入と引き換えに、
関わりたくない人に会わなくていい環境を手に入れたあと
グラデーションのような変化を経ながら
居心地の良い環境を泳がせてもらったと思います。

「こう思ってはいけない」と無意識のうちに
制限していたことを自覚することもありました。

自然な情動を自覚できるようにもなったと思います。

修行している気になれる(けど体は求めていない)習慣を手放し
おなかのお肉を受け入れた今でも
まだ「修行のパターン」に戻ろうとする自分もいます。

机上で空論を練るのが得意な優等生には
悪印象があるのですが、
「修行パターン」に陥るのは
「優等生」になろうとしているから
と言う指摘を聞いて、
「あ"あ"ーーーー…」という声が出ました。

優等生の方が、
社会的には過ごしやすいからなんだと思います。

…という、
自分の思考回路の元の元には何があるかを
掘り進めてみるという
終わりのない話題です。

ここまでお付き合いくださった方、
ありがとうございました。

また、自分が当たり前のように思っていることに
なんでこう思うんだろうという疑問が湧いたら
深掘りしていこうと思います。

2024年2月9日 拝


知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。