ユリイカ!ヘイターは臆病者だ


 差別はいじめと同じだ。西欧でもWOKE(目覚めた人、反差別派)は実は少数派では?と気づいた。正論で反論できない差別禁止の法律には従った方が楽なのだ。
 だれしもミソジニー、ゲイフォビア、トランスフォビアなど異質なものを忌み嫌う内面(本音)をもっているのではないか。わたし自身にだって、内面にはトランスフォビア、ホモフォビアをもっており、自己嫌悪が激しく、自己肯定感が著しく低かった。

 いじめはいじめられる立場といじめる立場が強調されるが、大半は傍観者だ。
 ほとんどの傍観者は、本音はいじめられる「異質な人」に嫌悪感ももっている。だが正論はいじめは許さないという相剋に苦しむのでは、と思う。
 基本的人権が誰でも平等にあるという原理に対して、理屈では太刀打ちできないので、差別者は被差別側を「我々マジョリティ」とは違う「異質な人間」で差別されて当然(二級市民)という屁理屈をつける。なので被差別者が同情を誘う態度だったらまだ許せるが、生意気、わきまえてないと許せないのが本音なのであろう。
 トランス差別者も実は正論に太刀打ちできないことを知っている(のではないか)。そして、WOKE(目覚めた(人))が、欧米では多数派なので、わたしも差別禁止の原則が通ると思い込まされていた。そういうマジョリティなWOKEに押しつぶされるという、恐怖心を煽って、言論弾圧だという言葉に説得力がまして思えてしまうのだ。WOKEな人というのは実はマイノリティで、ほとんど本音は差別を容認したい人がマジョリティなのではないか。
 実は当然だった。マジョリティがWOKEであるために、差別禁止の法律が通るのかと思ったのが大きな勘違いである。
 欧米や国際的基準では論理的には人権保護の正論に抗するすべがないので、論理的かつ理性的なWOKEの主張が通っていて、平等な法制度が一応できている。
 けれど、実感情としては生理的嫌悪で差別感情を持つ人が多数派であっても、実際に反論できない正論を主張するWOKEな人の前では、差別禁止を認める。しかしマイノリティは(生理的には当然?)嫌われて、疎まれる。フェミニズムが嫌われるのもそのせいで、田嶋陽子さんが正論を言っているのにテレビで散々にいびられるのも、わたしは理解不能だったが、ミソジニーとはそういうことだった。
 そして、差別者は自らの差別をどうしても肯定しなくてはいられないのは、自分も過去の学校でのいじめなどになんらかの形で、遭遇し関わっているから。そして、傍観者か差別者の側であったりするのが大半だろう。被差別マイノリティ、普段いじめられる側の人もよほどでないと傍観者にならざるを得ない同調圧力を受ける。

 わたしも過去に散々いじめられた経験があるのに、いじめの傍観者になってしまったことがある。在日コリアンの友人が高校のクラスでいじめられていたのに、なぜ彼がいじめられるのかに気づいていなかったとはいえ(これは気づかないふりだろうか?)、許されることではない。彼がもし自死していたら、どれほど思い悩んだだろうかと思う。それがまだ、元気に生きてくれているのは良かったとは思う。だが彼はその後の人生でもおそらく差別を受け続けただろう。傍観者にならず、せめて自分は味方だと伝えていれば、その後の彼の人生に僅かでも希望となったのではないか?という後悔がいまでも重くのしかかる。このことに気付いて、それでこうやってWOKEできた一番大きな理由は、自分が被差別側マイノリティになってネット、SNSで激しいトランス差別を受けることが分かって、傍観者の残虐心に初めて気づいた。自らの過ちを恥じるばかりである。
 しかし、今までそれに気づいてこなかった(か知らないふりをしている)傍観者や差別者というマジョリティは、いったんそれに気づいてWOKEしてしまうと、自分が被差別側に立ってしまい、今度は自分が差別されるかもしれない。かつその上、自分が過去に行ったいじめの、加害者や傍観者であった人は、わたしと同様の良心の呵責に襲われるのではないか。そんなことに気づいてしまったら、自分の醜さを受け止める勇気がないのだ。このWOKEという言葉は、単に意識の高い人を揶揄する意味合いくらいに捉えていたが、この『目覚めた』という言葉が全てを物語っていた。差別者たちは自分が目覚めてしまうと、それを受け止められないのではという恐怖を(意識的にせよ無意識にせよ)感じて、それに耐えらない臆病者たちなのだ。人間だれしも臆病な心に打ち勝つのは難しい。

 だから差別者はトランスが容易に自死を選ぶという事実を絶対に受け入れない。りゅうちぇるさんが自死を選んだときも、明らかにわかる差別で、差別者たちは自分たちも同調した誹謗中傷だったにも関わらず、それを受け入れるのが怖い。ホルモン治療の副作用で(ホルモン治療が明らかに自死率を下げるにも関わらず、そして、ホルモン治療を行なっているというエビデンスもなく)自死を選んだという、明らかな屁理屈を作り上げた。
 生物学的には性別は2つしかないというGCの理論だって、生物学的、科学的に脳の構造や働きがほとんど解明されていないことを忘れている。性別二元だってそれが、科学的に裏づけられているという証拠はあるのか? 脳の機能が解明されないと、性別、ジェンダーが、どうやって生まれるのか、説明できないはずである。『身体』の性別、身体性別と後生大事に念仏のように繰り返すが、『身体』は筋肉、骨格、性器の形状などだけではないはずだ。
 『脳』は『身体』に含まれないとでもいうのか? ジェンダーアイディンティが生まれるのも、脳機能が主だろう。GCは、ジェンダーアイディンティなどないか、あっても生まれたときに割り当てられた性別に等しいというが、まったく根拠のない、自分だけの実感だというものを人類皆同じように当てはめて割り切ろうとしている。人の性別にも種々さまざまな個性があると思うが、2つだけという、これも実は根拠がないということを十分わかっていて、それを認めると自分が差別をしていることになることが怖いので、わざと無視できる。または割り当てられた性別に適合できるはず、という態度を取り続けるのではないか? トランスジェンダーとはなにという、一見素朴な疑問にみえるが、ジェンダーアイディンティを否定したいだけの屁理屈と言える。同じトランスジェンダーでも、実は脳にさまざまな個性があって、きっちり定義などできないだろう。
 そして、ほとんどのトランスジェンダーはホルモン治療を受けるが、性ホルモンが身体(脳も含む)にどう作用するのかすらはっきりと言えないではないか?
 奇しくも、片山さつきが論理ではなく、自然な感情として受け入れられないというのは、大多数のマジョリティが思っていることなので、それに異を唱えたものはWOKEとして(論理的に正しいのに、いや、正しくて、太刀打ちできないからこそ)血祭りにあげられる。
 このことを、多くのマジョリティや、WOKEするのが怖いマイノリティが気づいてくれないと、マイノリティに未来はない。
 わたしのシスジェンダーの友人、知人たちもみんな(かどうかわからないが)この構造に薄々感づいているのではないだろうか?気づいていても、昔のわたしのように恐怖心から傍観者を選ぶのが多数派なのだ。だれしも、WOKEして、被差別側に立たされる怖さ、傍観者でいることの弱さ、醜さに気づくのが怖い。まあ、いまは大多数がそうだろうと思っている。
 なのでトランスジェンダーを理解してもらおうと声を上げたりすると、そこに同意してWOKEするのが怖い。また、トランス差別自身を理解して、構造に気づく(WOKE)のも怖いのだ。
 この状態でいま『トランスジェンダー入門』が興味を持ってもらえて、売れている事実は一縷の望みだ。著作者の周司あきらさん、高井ゆと里さんには多大なる励ましと勇気をいただいた。もっとたくさん売れてほしい。そして、『われらはすでに共にある』というブックレットもトランスジェンダーの実態を知るのに役立つだろう。関わられたすべての仲間たち。そしてネット上で、勇敢にもトランス差別にさまざまな形で関わって、抵抗の声を上げる仲間たち。わたしはお恥ずかしいことに、いままで形に残るような抵抗はできていないが(正直やはり怖いが、怒りがエネルギーとなっている)、わたしにはペン🖋️がある。言論で立ち向かおうと思う。仲間を見捨てることはできない。
 そして、ジェンダーアイディンティによって差別されない世の中、すべての差別のない世の中は、すべての人にとっても(弱者、強者共に)生きやすい世の中になると思う。このことにみんな気づくべきだ。
 人類は皆、平等に人権をもっているのだ。これは建前だけではない。あらゆるトランスジェンダー(ノンバイナリ等含む)にもなくてたまるもんか。
 そしてあらゆる差別に拒否、反抗の狼煙を上げよう。

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