「鉄腕アトム」というマイノリティ


わたしの世代は生まれた頃にテレビが普及し始めた頃で、近い年代の人はその頃に子ども向けに爆発的に流行った、SFテレビアニメを覚えていると思う。この頃の作品は、子ども向けとはいえ、単に勧善懲悪、正義が悪に勝つといった、単純な構図では描かれていないのです。正義の味方にも弱点があり、悪い奴にもそれなりの論理があったりした。それのきざはしとなって、大ヒットしたのが「アトム」である。小型原子炉を体内に持ちウランをエネルギーとして、10万馬力のパワーや「7つの力」という超人間的な機能を持ったヒューマノイドロボットである。ところが、アトムを作り上げた天馬博士は、交通事故で息子を失って、そのトビオの身代わりとして、天才的頭脳と科学力を駆使してアトムを作り上げた。のだが、すぐに、アトムはトビオの代わりでないことに気づく、当たり前だが成長しない、人間らしい心を解しない、etc。天馬博士はアトムを捨て、お茶の水博士に任せて、逃走する。�そこからが、本編、アトムが正義の味方として、悪と戦う、勧善懲悪ストーリーが始まるのだが、アトムに人間の友人ができたときなど、自分も人間になりたいと思うが、どうしてもなれないことを悟る。人間のクラスメートは普段は頼ってくれるが、結局あまりの力の差に気持ち悪いと。
アトムが巨大な船の沈没を救い、海から船を引き上げる場面など、人間たちは称賛するが、反面そのパワーの大きさを畏怖し、バケモノと呼ぶことすらあった。それがアトムの拡大された超聴力によって耳に入ってしまう。�ことはアトム一人の問題ではなく、人間がロボットを悪の手先に使うとき、そのロボットには悪の「意志」などないのに、正義の味方たるアトムは相手のロボットを倒さねばならない。ロボットにも人間同様の人権が得られればいいのに(まあ、原作では人権という言葉はなかったと思いますが)人間に奴隷としてしか扱われないロボットの不遇を繰り返し描いてみせる。�この作品によってわたしは、人権とか平等の意味とかをインストールされたように思います。アトムは人間になりたくてもなれないマイノリティだったのだ。�アトムのヒーロー的な面だけ見ていると忘れてしまいそうになるのですが、マイノリティ性というのは手塚治虫が伝えたかった大事なテーマではなかったかと思います。

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