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芸術とは何だ。

芸術とは何だ。限りあるひとりができることってあるのかな。
少なくとも、そこで誰もが遊ぶことのできるカーペットのような、網のように通風孔の空いた隙間を多く編み込んだもの。風通しが良くてね。
光の加減で何億ものヴィジョンが見え、それでいて、どんな場所にいても、その求めるものが行き場を失わないもの。すべてどんなものでも目で追えるようなたくさんのなにかを含んだもの。
そんなカーペットみたいな作品を、生きているうちに、一枚でも多く作ることができたら、と思う。

カーペットに寝転がる。さまざまなものごとが雑多に浮遊している。自由にあっちとこっちをいったりきたりする。要素の一粒ひとつぶにあらゆる方向から光があたる。かたくなな価値観を溶かしいままで落としてきたものを拾い集める。

死に直面した時、死に近づいたとき、不条理な出来事に遭遇した時、思うようにならぬ時。日常の延長では解決しない状況に陥った時。そんな時「異端」の際にひとりでいるように感じるのかもしれない。異端と無縁でいることはできない。異端を見ないふりすることは、自らの行き場をなくしているようなものではないか、とも思うのだ。

☆彡

今日も集中チャンス日だった。朝から、やるぞって。鉛筆に集中する気持ちで満ち溢れていた。紙にむかい立ち向かう。たくさんを取り込もうたくさんをひろくひろく見ようとするから、だから茫洋とした視野で。こまやかな紙の目にわたしは入り込んでいく。細かく、どんどん細かく削れて。同時にそこにぼんやりとしたあてのない影の世界が彫られていく。

シューゲイザーみたいなのとか、ノイズっぽいのとか。サイケなやつとか。いつもの好きな音楽を静かに聴きながら描く。ああ、これは天然に変なものが出ていて面白いな、とか、これはいかにも企画っぽくって、わざとらしいので、今一つ深みがなくてつまらないなとか。いろんなのをランダムに聴きながら。
Elliott Smithになったときに、怖ろしく深く純化された「優しさ」の質感を感じた。これはつくられたものじゃなくて、運命づけられたような、優しさの音楽なんだと思った。自分から選んだものではない、思わずあふれ出たような音楽というようなものじゃないかなぁって。

力を抜いて、描いていく。怖ろしく作業が進んでいる。いままでだったらひと月半くらいかかったようなものが、ここ数日で描けている。自問自答しながら慎重に進めていた描写を、その問いのタイムラグを無くして、問いを前へ前へ放り投げながら前へ進んでいく。手数は多分変わらない。質も落ちていない。でも、多分以前描いていた内容とは時間が早いだけで、まだあまり変わってはいない。

問いを前へ、そのまんま放り投げることで、もっと軽くなって、自問自答で慎重になることだけが、絵の本質を保証するものじゃないということがわかってきた。すこしだけ変わってきたことがあるとすればそれは、筆触の泳ぎ方が、今までの「質を高めたい」という意識が作る硬さ、枠組みをほどき、少し自由を知り始めた感じがすることくらいだろうか。

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20170821 Diary

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