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少年兵の経験

 父親の子供時代とくらべるのはなんですが、私は小学校4年くらいまではどの勉強もおもしろく、折り紙もすきだったので立体把握は他の人より早かったかもしれません。算数も国語も理科も好きでした。美術は得意で、その時描いた絵も思い出せる気がします。皆と一緒の授業でも、自分だけの課題を設定しながら描いてたとおもいます。

 中学入試のために5年生くらいから近所の学習塾に行き、それもたのしかったのですが、小学校6年生くらいのときは学校がとても嫌な感じになっており(クラス運営みたいなことがはやった時期)、まともに授業が行われず、頑張る心が折れ、殺伐としてしまい、受験も失敗し公立の普通中学に行くことになります。

 生きる指針は、内向的な家庭の一人っ子には、本を読むとかテレビを見ることになっていきます。塾や学校の図書館の本は片っ端から読んで、本屋も立ち読み。テレビドラマや歌番組に夢中になります。

 たまたま入った公立中学校が、健康的な学校だったのと、そのあと行った国立高校がものすごく自由で、へんてこな学校だったので、今の私があるんだとおもいます。いじめとかそういう内向的な問題がたぶん無い学校でした。一浪して入った明治大学文学部もさらに自由で本当によかったとおもいます。

 さて父から聞いていた、予科練でのいろいろなことについて、忘れてしまったことも多いのですが、なるべくかいてみます。

 父親は、育った家から早く出たかったのと、国のために役に立とうと思ったのか、頭も良かったので早くのうちに予科練に入隊、必要な知識を詰め込み、様々な訓練をうけました。

 学校で行うような一般的な知識もあっただろうし、軍事的な訓練、柔道や銃剣術、鉄砲の扱い方、そして飛行機の技術、理論、方向を見て計算すること、落下傘訓練、飛行機に乗れば急上昇・急降下、運転技術、あらゆることを勉強したんだとおもいます。15歳で入った訓練生活は厳しく、あんまり詳しく話してませんが、いつも「るみはいいなあ、なにもしなくて」と言っていました。

 星を見て方向を決めたり、距離を計算したり、目視の世界は大変です。

 「練習のときは2人乗りで、ヘマをすると後ろから棒で殴られる」と言ってました。

 空中回転、上に上がって逃げて後ろにつくとか、そういう練習をしてたんだとおもいます。

 ゼロ戦はいい戦闘機なんだ、また紫電改はすごくいい飛行機で、といった技術についてのコメントが多かったと思います。

 さて、予科練で訓練を受けているときは、内地や外地の戦況についてはあまり知らなかったようで、国内で「ほしがりません勝つまでは」と、国内が疲弊していく様子は知らなかったと言ってました。肉や魚、いい物をたべさせてもらい、出撃に備えるといったことだったようです。軍国主義を煽るような歌もあまりしらなかったようです。

 また、特攻隊といっても飛行機は高級品で、また操縦士を育てるのも時間と労力、お金が掛かることだからそんなに無駄にどんどん飛んだりしないんだよとも言ってました。

 でもそういう概念は、その隊だけだったのかもしれません。

 父から聞いていた、戦争の現場はこうです。
 ゼロ戦に乗って攻撃に行くのは、隊員がまず、「心が決まりました、明日行きます」という出願をだします。隊としてそれをうけてスケジュールを組みます。それを壁に貼るのです。
 希望通り出撃するひともいれば、はずれるひともいる。書かない、書けない人は飛びません。やる気がない人が乗っても、危ないでしょうから。

 この辺は2013年の映画、岡田准一さん主演の「永遠の0」を見に行ったときに、掲示板に張り出すシーンがあり、ああ、このことだと思いました。

 上官というのでしょうか、父のいた隊を率いる野村中尉は、アメリカにも留学経験がある、国際感覚を持っている人だったようです。どんな指令をうけてきたのか、終戦のときの話は子供の私になんども話していました。

 野村さんの隊は、映画とは少し違う決まりで動いていたようで、早くからこの戦争は負ける、アメリカの資本力、資源、技術には勝てないと確実に思っていたようです。留学時代の人脈、いろいろな情報をもっていたようです。

 それでも、そんな優秀な中尉がいても、戦争はとまりません。

 有用な人材を死なせるわけには行かない、なるべく適当な理由をつけて、飛ばない、飛ばせない。エンジン不良、どこがおかしい、報告書にはなにか書いたようです。

 それでも何人かは行かせないといけないので、「戦後の日本に役に立ちそうな人材を残して出撃メンバーを決める」ということだったと、父からは聞いています。

 また、勇気のある、「出撃いつでもしまーす、オッケーです!」っていう態度の兵隊は、残していたらしいです。

 違うのかもしれませんが、若い兵士の父親はそう言い聞かされてきたそうです。

 終戦間近に特攻命令で命を落とした兵隊の方、ご家族にはなんと申し上げたらいいか、しかし、父のいる隊はそのような方針で動いており、上に立つ者も先見の明がありながら残酷な選択を迫られていた、日本軍はそういう戦争をしていた、ということだとおもいます。

 隊の同僚で「岡田さん」という人は、飛行機の操縦があまりうまくなく、着陸で飛行機のお尻を擦ったとか、意気地がないとか、そんな話をしていました。父の友達だったんだと思います。その方は、前述のとおり、生き残って後年戦後の日本の動乱、新宿を切り盛りしていきます。たしかテキヤの親分だったと思います、新宿花園神社はその管轄だったようです。私は直接存じ上げないのですが、あの一帯の古い文化は自分の(後年、ルミロックの)大事なイメージの泉となっています。

 さて、そもそも実家を出て「もらいっ子」として育ち、あまり歓迎されていなかった家に育った父は、やんちゃで頭がよく、しかし「将来の幸せ」みたいなビジョンがまったく無い人だったので、特攻隊でも「残す人」、つまり働き者で元気な日本人の方に分類されたんだと思います。

 敗戦がみえてきたときに、出来る子をあつめて、「このままだともうじき日本は負ける、そのあとの日本を君たちが築いていくんだ、そのときにはしっかり働け」と言い、そして負けたときには、「ぐずぐず、のそのそするな! 解散!」という短い訓示で、その隊を解散させたそうです。

 もうすこしニュアンスはちがったかもしれませんが、こういう指揮官の下で働いた兵隊が私の父です。

 さらにいろいろ聞こうとすると、「俺は卑怯な奴なんだ」とか、自戒の言葉で中身を濁したりして、さすがにそこから先は入っていけませんでした。

 戦争がおわり、平和になった後も、終戦記念日あたりはそわそわして、靖国神社に行って予科練の同窓会に出席。その日は飲んで帰るということをずっと続けていたと思います。こういうのも後年母から「もうやめたらどうなの」と厳しく言われ、隠れていくようにしてたような気がします。

 野村さんについてはとても尊敬していて、戦争が終わった後も1回くらいお会いするときがあったみたいです。

 どれも、小学生中学生の女子が聞く話ではありませんね(笑)。

 「心配すんな、命まではとられねぇ」「世の中、常識だ」

 なにかあると、明るく笑顔でこの言葉が出る人でした。
 これが我が家の格言になっていきます。イントネーションは、大河ドラマ「青天を衝け」の、渋沢栄一実家の会話の感じです。父の育った場所も、血洗島からそんなに遠くないところです。

しんぺーすんな。いのちまではとられねぇ。

波乱の予感しかありません……。


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