ラララ世界_180929_0108

la la la 77. 気が向くことだけをする!(By ラム子)

こんにちは。神様! とかノリト!(祝詞)とか、ある意味固い話が続いて、「そういうのが読みたくてココにきてるわけじゃないのに〜」って人もいると思いましたので、いつもの感じに戻します!笑。「気が向くことだけをする」さらに大切なことが続きます、気が向くことだけをすることを”甘え”や”怠惰”だと考えない。

この9月の最後の方は宇宙エネルギー的にも重要な局面でした。それでもってどういうことが起きているかというと宇宙も”脱皮”しているっていうこと。シンゴジラ的に言うと、第???形態に、笑、突入していくっていうことです。見た目より内側ですね。見た目はいつもと変わらぬ青い惑星(ほし)ーーしかし多少自浄作用によって人間から見ると荒ぶる惑星となっているーーですが、まずはエネルギーや波動面で変化してきています。

世界(宇宙)の変化は、当然その惑星に住んでいる生命体つまりわたしたちにも無意識レベルでの変化をもたらします。わたしたちの体の7割は水でできているわけですから、波動の伝達はたやすいとわたしは考えています。
つまりわたしたちも”脱皮”の時期を迎えているのだということ。

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これはあちこちのスピ系のブログなのでも書かれていることだと思うのですが、世界は「力」から「愛」の時代へ移行している途中です。つまり3次元から4次元へ移行しています。それによって今までの感じで「力」や「権力」を使ってしまうと制裁を受けます。(いくつものニュースがそれを証明していますね)もう「俺を誰だと思っている」「俺にかかればお前なんか」っていう時代は終わったのです。当然その残像というか過去の遺物がまだ生きていますから、しばらくこういうゴタゴタは続くでしょう。でも、わたしたちは常に「今、ココ」に座標と時刻を合わせて行かなくてはなりません。

つまり「愛」の時代に突入しているのに「力」の時代のルールに縛られて生きていてはダメだということです。手放し変わることは勇気を必要とします。けれど恐れず、踏み出して欲しい。

脱皮するとき、当然ですけど古い皮を剥ぎ落として行かねばなりません。
おのおのに各々の歴史がありますから、まずは「わたしにとってもう古いかもしれないものってなんだろう」と考えてみてください。できれば”感覚”について考えてみてほしいです。こういう感覚ってもう今の時代じゃないよね、逆に、こういう感覚が受け入れられる時代になってきたかしら?

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そんな中わたしが今日取り上げたいのは「気が向くことだけをする!」という感覚です。これって抱き合わせみたいに「それってすこし後ろめたい」というか、悪いことのように思う人が日本には多いと思うのですがどうでしょう?「ぬるい感じがする?」「逃げてる感じがする?」「努力してない感じがする?」その感覚、古くないでしょうか? 笑

基本的には「仏教」を主とする日本で、これはずっと根付いている感覚です。辛かったから頑張ったと思える、しんどいからこそ何かに近づいている、我慢できる人こそえらい。日本では「苦しさ」の伴わないものを是としない、むしろ「悪」とする文化が根強くあるとわたしは感じています。
けれどその時代は終わりました。「苦しい」を置き去りにして、喜びとワクワクする衝動に向かってまっすぐ生きていく時代が始まっています。
気が向くこと、楽しいことの先にも「困難なこと」「課題」はやってきます。だからまず何かを決める時に「これって楽してない?」と考えてわざわざ辛いチョイス、すぐにそれが叶わなくなる遠回りなチョイスをしないで欲しいのです。
例えば歌手になろう、と思って、じゃあ、って考えて「まずレッスンを受ける」こういうステップを省いて欲しいのです。わざわざ困難や遠回りをセット購入(←支払いが生じるから)しないで欲しいのです。レッスンを受けたかったら、どうぞ!笑 その「歌を習う」ことも楽しかったらそれはその魂が肉体を持っている中で「経験したいこと」です。そう、つまり肉体を持つ魂が経験したいと言っていることだけを経験してください。

”命短し恋せよ乙女♪” 樹木希林さんが遺作となったドイツ映画の中で歌っているゴンドラの歌です。(2019公開)スピ系の記事で、わたしが時々置いていかれていると思うことはこの「命短し肉体」のことなんです。
魂というのは何度も転生し、最後宇宙に還っていく(と考えて)ならば、なんの問題もありません。肝心なのは魂が肉体という乗り物に乗っていられる、短くて尊い「人生」という時間をどのように過ごすのかということ。
子供の頃遊園地に行きました。いろんな乗り物、並んでいる時間は長いですが、乗っている時間はあっと言う間。その時間には「喜び」しかなかったですよね。人生もかくあってほしいのです。

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もともと仏教が生まれた時、そこはインドで、カースト制がすべて、どれだけ努力しても、どれだけ頑張っても、どうにもならないことだけが、人生に溢れていました。頑張っても頑張っても、苦しい。この苦しい人生が良くなることはこの身分制度が存在する以上、ない。ならばわたしは「なぜ生きているのか」「なぜ生まれたのだろう」この”生きていても意味がない”という虚無、に”きぼう”を与えたのがブッダの「極楽浄土」というお考えでした。

”わたしたちは今修行の時、でもこのくるしみ、かなしみ、それらが天命を全うしたときに、極楽浄土、つまり死後の世界という形で還元される、だからこのくるしみにも悲しみにも意味があるから、祈り、徳を積んで生きていこう”

というものです。わたしはこの”極楽浄土”という考えは、じぶんでは解決のしようのない、どうにもならない命の苦しみの中にいる人が「今を生きぬく」ための希望を「生」に対する希望を与えた、と思っています。

では今のわたしたちはどうでしょうか。今の日本、今の世界は。
世界にはまだ「人生」という時間の中で、思うように生きることを許されない人たちがたくさんいます。
じゃあ、今のあなたはどうでしょうか。

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もし、わたしたちが自分の意志と勇気次第では今からでもすぐに人生を変えることができる環境にあるとしたら。
それはきっと「苦しみ」の中を祈りながら生き抜き、いつかこんな時代がきたらいいなと願ってくださった方々の想念が反映されている、想念によって出来上がった世界なのだと思うのです。

そしたらその尊く美しいラララ世界の中でわたしたちがやるべきことはなんでしょうか。「やるべき」という考えはラララコンセプトと反するので、言葉をかえると、わたしたちはこの世界で、どんな風に生きることが許されているでしょうか。

わたしはきっと、その人たちがそう生きたかったように生きることを、許されていると思います。つまり人生を謳歌するということです。人生を満喫するということです。

そのことはずっと前から世界に許可されていました。けれど「力」の時代がそれらを弾圧していました。だからわたしたちは「苦しみ」を伴っていないと生きていてどうもお尻の座りが悪いような感覚を刷り込まれてしまいました。けれどそれは本当に苦しみの中にいた人たちが望んだことではありません。むしろ、その人たちを苦しみのままにしておきたかった人が望み、定着させた考えです。だったら。

そういった過去の遺物を脱ぎ捨て、新しい魂、新しい肉体で、
新しい世界の門をくぐりましょう。

気が向くことだけをする。
それは世界に対する最高のアンサーです、La La La!!

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ラララ世界の中心はあなたであって、いつどんな瞬間からも ”「今」にさえいれば” その一瞬先の未来の時系列を変えることができます。

嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ