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la la la 91. できることしか、しない(By も)

こんにちは。ギリシャのことを書いたちょうど昨日、クレタ島のレティムノというところで飲食店を営んでいるMaria(2年前の旅で訪れ、仲良くなりました)からこんな素敵な写真が送られてきたので今日のトップにしました。
「できることしか、しない」具体的で地続きな提案になるのでBy も。

まず、知らない間にフォロワーが20人にもなっていました、ありがとうございます。もともと誰も読まないかもしれないが誰かが読んでくれるかもしれないみたいなとても密封性の高いところから始めたこのマガジンが20人にフォローされているなんて!笑。スキをくれた方のページには必ずお邪魔していますし毎日スキをくださる方もどの方かわかっていて感謝しています。また作家の方もフォローしてくださって両方でスキをくださっている方もいますね、ありがとうございます。

昨日「頑張りかたを見直す」と書きましたが、でもさ、どう見直すの?
頑張らないってどうすればいいの? って思うじゃないですか。

それで一応、天下の頑張り屋さん不器用エディション(Byも)が考える「頑張らない」について一言で書いてみるとですね、それは「できることだけを、ちゃんとやる」言い換えれば「できることしか、しない」ということかなぁと思うのです。

なんか「頑張る」って立って両足を限界まで左右に開いて、そしてそれをさらに少しずつ開いていくような感じ、つまり「限界をさらにその奥へ延ばす」ような感じだなって思っていて。頑張るってすなわち限界を超えるってことだと思うのです。
たとえばわたしで言うとじぶんの確実で少しのりしろがある状態で組んだスケジュールに関して後から「この日こういうのがあるんだけど来られない?」とか「子守してほしい!」とか「明日までにこれナニナニして戻せる?」とかを「う・・・ん。頑張れば」という感じでねじ込んでいく動き。でもそれで限界を引き上げてこなしてしまうと不特定多数の相手からしたらそれがデフォルトになって、また同じような無理を「前回できましたよね?」って感じでごく当たり前に頼まれてしまう。その繰り返しでなんかもうとんでもないスケジュールとか追われ感が生じて「衣替えとかもいつやるんじゃい!」みたいになってしまう。笑。

今わたしが考えている「頑張らない」って、自身に置き換えると(怠けている感じもして)難しいから他者との関係というところに重点をおくようにして「不特定多数に安易にわたしの24時間を搾取&消耗されない」という風に考えています。この「安易に」というのが大切なところで、たとえばわたしにとって姪の子守とかって自分が絶対請け負いたいこと、だし、妹もけして安易に頼んでるのではないので搾取と消耗には入らないのですが、たとえばわたしだったらなんとかしてくれるんじゃないかみたいな感じで「とりあえず一回聞いてみよう」みたいな安易さで持ち込まれる野暮用とかは搾取と消耗にカウントするようにしました。

また言葉の呪いで「**さんにしか頼めなくて」とか「あなたにも悪い話じゃない」とか「あなたのためにもなると思います」みたいな、心理のコントロールを含むものに関しては(もしわたしが本当に大切に思っている相手にそれするかな?)と置き換えて考えるようにしています。

最初からできることしかしなかったら、焦ることもないし時間に追われることもないし、衣替えだってできるし、家で心おきなくだらだらする時間も作れる。

”限界を超えて器を広げていかないのは怠惰だ” ”努力不足だ” みたいなのはまやかしで、成功している銀座のママとか、社長さんとか、そういう人たちって意外と「できることしか」していません。もちろん好きで徹夜したり、好きで頑張ったり、ここというところで踏ん張ったりはしているけど、基本的には「できることだけを」必ずちゃんとやってる

この必ずちゃんとやる、って、実はできることだけをやっていく日々の積み重ねがないとできなくて、
だから「貧乏暇なし」って言葉があると思うのだけど、限界に限界を重ねていく日々の中では絶対に「納期に間に合わない」とか「約束を破った」みたいなエラーが出てしまって、そのことで信用が下がったり、体調を崩して迷惑をかけたり、バイト先になぜかタクシーでいかないと間に合わない、となったり、本末転倒で「できることしかしていない」人より頑張っているのに、得るものより失うものの方が多い。
でもできることだけをちゃんとやっている人って、のりしろの時間があるから、そこでなんかいろいろ思案したりして、またポンと限界を超えるようなことを思いついたり提案したりする。

この仕組みに気づきたい!って思うのですね。

ヒエラルキー批判ばかりにしたくないと思っているのですが、
こういうところで苦しんでいるのってだいたい組織だと中間層の、上からも下からも挟まれている人たちだなって思っていて、
それは「自分の能力を伸ばすチャンス」ではなく「いいように使われている時間」だという風にそろそろ考えてもいい時代なのかなって思っています。

ここは議論が難しいところですべての仕事の最初の1年とかってわたしは無条件降伏でもいいかなと思っていて、これは18歳〜22歳くらいの人に伝えたいのですが「絶対服従みたいな日々」の中で見つけることも結構あるので、笑、あと「考えずにとにかくやれ」とか言われてやる内に意味がついてくることもあるので、のっけから「いいように使われるなら」やりませんというのは社会として難しい話「いいように使われてやるよ」くらいの時期が1年くらいあってもいいのかなって経験からは思うのだけど、だけど今本当に時代のうねりが変わってきているからそれもわたしは断言できません。
(なぜならわたしには為になったという経験は15年以上前の話で、わたしは最後の体育会系の世代だから、三次元ヒエラルキーワールド、今の時代もそれがアリか、もうナシかわからない、でもまず1年ならいいのでは? 笑)

で、その年代じゃないもう社会に出ている人たちに関してはわたしはこれはもう断言で「社会にいいように使われる時代は終わり」ってしていいと思います。その感覚が行き渡れば、そうじゃない感覚のシステムでは組織が作動しないからきっと仕組みが変わってくるでしょう。今その過渡期だと思うのです。こないだは恋愛のことで引き合いに出した今のドラマ「獣になれないわたしたち」ですが、ガッキーが立たされているあの立ち位置ってとてもリアルで、ああいう立ち位置で頑張らざるをえない人たちがたくさんいて、
その人たちからするとこの記事って、
言ってることわかるけどそれはプライベートや個人事業の場合でしょ、組織だったら無理無理、と思うと思うのです。

でもそういう人にこそ”ちょっと立ち止まって”考えてみてもらいたいなと思うのです。その場所にいることは絶対の前提なの? ということ。
いや転職だって簡単にできるかわからないしとか未来のこととか老後のこととか、思いはいろいろあると思うのだけど、今本当に国は変化し続けていて、60歳から年金もらえるはずだった人が65歳からと言われてでも60歳で退職になっちゃって、急にその空白の5年を埋めなくてはならない理不尽に晒されたりしている。そんな時代で確かなことは「今」だけなんです。
今、感じていること、今の幸福感、今を踏まえたこれからのこと。

そこを考えることこそ「頑張って」みてもいいのかなって。
そこに「頑張り」と「勇気」を使ってみてもいいのかなって。
思うのですね。

そんな簡単じゃない、ってわかります。ガッキーのドラマも今後どんな風になっていくのかな。リアルな脚本だからこそドラマの中で彼女がとる選択が気になっています。
すぐに仕事だとハードル高い人は、プライベートから。
じぶんの「今」を、じぶんの「24時間」を大切につかうことから。
結構これも訓練要ります。笑。
わたしも「なんとかします」というのが口癖で、引き受けてしまい屋だったので、まずは即答してしまうのをやめる、ということから始めました。

「できることだけやる」作戦、やっているわたしから言えることは、
前より人生が快適、ということかな。笑。

それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆ 



嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ