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辿る道は同じ?――景教とイエズス会

 奇跡という言葉には、キリスト教における「神の御業みわざ」という意味合いもあるそうです。
 景教には、そんな「奇跡」とも言える不思議なエピソードも残っています。この章のテーマは、その「奇跡」です。

蘇る景教

 中国――この場合は狭義の「漢文化圏」、ざっくり言うと万里の長城の内側――においてキリスト教の伝道は二度ありました。
 その第一陣が、唐の太宗の時代に伝来したネストリウス派です。前章でもお話ししましたが、ネストリウス派は景教と呼ばれ、多くの貴族たちがこぞって信奉するほどの隆盛を極めたと伝えられています。しかし、武宗による宗教弾圧で壊滅な打撃を受け、景教は中国から撤退することとなりました。そして時が流れる中、その存在はいつしか忘れ去れていきました。

 途中、元の時代に景教徒の色目人たちによる一時的な復活やフランシスコ会宣教師の活動などはありましたが、定着には至らず、中国国内におけるキリスト教は、イエズス会の宣教師たちが訪れるまでは空白状態にありました。

 その、イエズス会の宣教師が訪れた明代末。約700年の時を経て、景教も奇跡の復活を遂げるのです。

 イエズス会の設立は1534年。中国では明、第12代皇帝・嘉靖かせい帝の時代です。ちなみに日本は戦国時代のただ中、細川晴元ほそかわはるもとが政権を掌握していた頃に当たります。
 イグナティウス・デ・ロヨラら七人を中心に結成されたイエズス会は、非キリスト教世界への宣教を積極的に行っていきます。
 創設メンバーの一人であるフランシスコ・ザビエルは、インドからマラッカ、そして日本とアジア各国へ伝道を進めますが、中国への入国を果たせぬまま、その生涯を終えました。

 ザビエルが果たせなかった中国伝道は、ミケーレ・ルッジェーリ(羅明堅)やマテオ・リッチ(利瑪竇)ら、中国語や中国の文化を理解し、中国名を名乗った宣教師らによって果たされます。
 この宣教師たちの活動によって、中国国内におけるキリスト教は再び勢いを得ましたが、時を同じくして〝景教〟も息を吹き返すのです。

 中国への伝道を果たしたマテオ・リッチは、万暦ばんれき帝の宮廷に入ることにも成功し、1610年に北京でなくなりました。
 その彼の死後、十数年経った天啓てんけい帝の知世のことです。
 数百年もの長きに渡り忘れ去られていた景教碑が、突如として現れたのです。

 イエズス会の宣教師セメド(魯徳照)の著した『史那通史しなつうし (The History of China)』によると、それは天啓てんけい5(1625)年の出来事でした。陝西省の首府・西安府近郊で、職工たちが礎石を置くための穴を掘っていたところ、地中から長さ約270センチ、幅約100センチ、厚さ約28センチの石碑が出てきたのだそうです。石碑の上部はピラミッド型になっていて、雲形の紋様に囲まれた十字架が刻まれていました。その下には3行×3行の漢文が刻まれ、さらにその下には漢文で刻まれた碑文の他、若干の〝誰も読むことのできない異国の文字〟が刻まれていたそうです。

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